8 森の夫婦
「夕餉時には戻って来るのじゃぞ」
残り物の冷ごはんに味噌汁をぶっ掛けた。
大きな鳶色の目をした犬は、エサ皿を揺らしながらガツガツと猫飯を平らげたあと、短く吠えて走り去って行った。
旦那は昨日の晩から夕餉も食べずに、逃げるように行商へ向かった。
霧雨の降る暗闇の夜中に、帽子が売れるはずもないのに。
ぬかるんだ小道の、去った犬の足跡を眺めながら、溜め息をついた。
物悲しい気持ちを振り払うように、作業場に足を運ぶ。竹林の笹の摺れあう音が一層淋しさをかき立てた。
「さて、今日は何を拵えようか」
あえて言葉に出して気持ちを紛らわせる。
思考は中々先へ進まなかったが、旦那との仲直りの方向へ進路を向けると、思いが徐々に形になっていく。
「これじゃ!」
作業台を整理して、制作に取り掛かった。
昼餉の支度をしていると、スマートフォンが鳴った。旦那からだ。
われの胸の鼓動が高鳴った。
「白い麦わら帽子が売れた。ハムサンドと交換だけど。これがめっぽう美味かった。帽子を丁寧に作ってくれたお前のお陰だ。ありがとう。拗ねて飛び出して悪かった。仲直りをしてくれ」
旦那はゆっくりとした口調で、われを労わるように言った。
「われこそ大人げも無く言い過ぎた。許してくれ。仲直りを承諾する」
「ハムサンドをくれた客人がそちらへ向かった。丁重に持て成してくれ。頼んだぞ」
犬の足跡を辿るように森の入り口へ歩いて行くと、白い麦わら帽子を被った黒髪の女子が思い悩むように佇んでいた。
われが近づくと、畳んだ傘をこちらに向けて威嚇した。
「町のひと。われは敵ではあらぬ。ぜひ其方を持て成したいと思ってやって来たのじゃ」
「持て成される理由がわからない。現状では怪しさが一杯で、全く信用できません」
「その白い麦わら帽子じゃ。われの旦那が歩道橋のてっぺんで帽子の行商をしておる。其方は初めての客じゃし、ハムサンドを貰ったとスマホに連絡があったのじゃ」
「その行商人は、昨日から何も食べていないと言っていた。持て成すほどの食事があるなら、話に矛盾が生じるんじゃないかしら?」
なおも町の女子は尖った傘の先をわれに向けて言った。
「お金の話で夫婦喧嘩をしていたのじゃ。信じてくれ。拗ねた旦那は飯も食わずに、家出同然で行商に出掛けた。スマホで会話して、仲直りしたのじゃ。其方の仲裁のお陰なんじゃ」
われは必死に事情を伝えた。
女子はやれやれと言った表情をして、ようやく傘を仕舞った。
われは出来る限りの持て成しをし、町の女子も満足したようだった。
呼んでおいたタクシーに乗って、その女子は帰って行った。
「さて、夕餉までに仕上げねばならぬ」
作業場に戻り、今朝の続きに取り掛かった。
旦那が戻る頃には出来上がっていて、一緒に夕餉を食べたあと、背後に回った。
「どうしたんだ?」
「お前にこれをやる。仲直りの印じゃ」
振り返った旦那の頭にそっと被せた。
「ふむふむ。ぴったりとフィットして被り心地が良いな。今日から毎日被るぞ。ありがとう」
旦那は姿見に自分を映して、飽きる事無くポーズを取っていた。
翌日になっても大きな鳶色の目をした犬は帰って来なかった。よくある事なので、あまり気にしてはいない。大方誰かに持て成しを受けているのであろう。
旦那は朝から、森で採れた山菜の行商に出掛けた。われは昼餉の仕込みをしたあと、作業場へ向かう。今日は素焼きした器に絵付けと釉薬をかける作業が少し残っていた。
ちょうど一段落した時、スマートフォンが鳴った。旦那からだ。
「山菜の佃煮が三つ売れた。その客人がハイクオリティな釣竿を所望している。お前の竿は絶品だが、新品は残っているか?」
「幾つかあるが、自信があるのは三つじゃ」
「十分だ。客人がそちらへ向かう。丁重に持て成してくれ。頼んだぞ」
昨日歩いた小道はすっかり乾いていて、犬の足跡は消えていた。森の入口へ向かいしばらく待っていると、歩道橋からこれと言って特徴の無い、人の好さそうな男が降りてきた。
「町のひと。よく来られた。釣竿が欲しいとな?」
「いかにも」
「われは森の民なので、川か池専用じゃが大丈夫かの?」
「これくらいの黄金の鯉を捕らえたい。食べるのでは無く、観賞用に。あるいは釣れた事に満足し、逃がしてやる事も吝かではない」
町の男はジェスチャーで、件の鯉の大きさを伝えた。
われは頷き、頭の中で竿の強度を確認した。恐らく問題は無いだろう。
釣竿と心ばかりの土産を持たせ、町の男を見送ったあと、旦那に電話を掛けた。
「釣竿が売れたのじゃ。精算はお前に任す。気のいい客なので、少し勉強してやってくれ。間も無くそちらへ行くだろう」
「承知した。ありがとう」
短いが、旦那の労いの言葉が嬉しかった。