6 釣竿を求めて
「釣竿は見つかりましたか?」
私は一瞬耳を疑った。なぜ彼女が釣竿を失くした事を知っているのだろうか。
「なぜそれを?」
私は思わず聞き返してしまった。初対面の、幼気な少女に。
「その犬が昨日の晩に、見ていたのです」
少女がさした指の先に、その犬がいた。
その犬には目が無かった。正確に言うと、眼窩は有るのだが眼球が無かった。
その眼窩には、気味の悪い毛が生えていた。
「釣竿は諦めました。新しいのを買います」
私は犬の眼窩の毛を見つめながら言った。
目玉が無くても見えるとは、不思議な事があるものだ。いずれ科学の力で解明されるとは思うが。
私はポケットからビスケットを取り出して、その犬に与えた。ぺろぺろと掌を舐めながら舌に吸い付くように引き込み、ぽろぽろと噛み砕きながら平らげた。
「そろそろ帰らないと風邪をひくので失礼する」
私はじっと見つめる少女に、少し恐怖を感じながら、そそくさと立ち去った。
靴下と靴がずぶ濡れで、歩くたびに不快感が増す。家に戻り、熱いシャワーを浴びたあと、ジャージの上下に着替えた。
「釣竿を買いに行こう。善は急げだ」
私は自分を納得させるように呟いたあと、ダウンジャケットを羽織って門を出ると、山田さんが立っていた。
「どこへ行く? まさか……」
「古池には行きませんよ。町まで釣竿を買いに出掛けて来ます」
私が溜め息をついて答えると、山田さんはクシャクシャの笑顔を浮かべて言った。
「気をつけてな」
山田さんの挨拶に肩透かしを食らった。
彼女にとって、古池に何か因縁めいたものがあるのだろうか。疑問を浮かべつつ、私はポケットに手を突っ込んで、ぶらぶらと通りを進んで行った。
大きな交差点に差し掛かると、辺りが賑やかになって来た。車が行き交い、人の往来が激しい。
赤になった信号がいつまで経っても変わらないので、横断歩道の右側にひっそりと佇む歩道橋を渡る事にした。
長い階段を登り切ると、そこから見える街の景色は圧巻だった。
神の目の如き俯瞰の眺望は、普段は近づき過ぎて決して気づかない、自然の広大さや人々の動き、文明の広がりを私に教えてくれた。
本来の目的を忘れそうになった自分を戒め、長い通路を進んで行くと、中央辺りでブルーシートを敷いて品物を並べている男がいた。
「いらっしゃい」
白いチューリップハットを被ったダビデ像のような男がにこやかに言った。
私はブルーシートに並べられた山菜の佃煮に目を走らせた。どれも色が美しく、白いご飯が進みそうだ。
「ワラビと山椒とフキを貰おう。JGBカードは使えるかな?」
「大丈夫ですよ」
男は携帯用のカード決済端末を取り出す。カードを差し込むと、しばらくしてレシートがせり出し、決済が完了した。
「安くてハイクオリティな釣竿を探しているんだが、心当たりは無いかな?」
ダメ元で男に尋ねると、それならと言って、スマートフォンを取り出して誰かと連絡を取った。
「手前味噌ですが、職人の妻が拵えたモノに自信があります。数点揃えていますので、一度見てもらえますか? 気に入ればお売りしますよ」
男はもみ手をして私の返答を待った。そもそもの目的がそれなので快諾した。
男は歩道橋を降りた所に妻を待たせているので、向こう岸へ渡るように言った。本人は営業時間ぎりぎりまで山菜を売りさばく使命があるそうだ。
やや長めの階段を降りると、巫女のような袴に襷を掛けた美しい婦人が私を待ち構えていた。
あちらがダビデの奥様か。
「町のひと。よく来られた。釣竿が欲しいとな?」
「いかにも」
「われは森の民なので、川か池専用じゃが大丈夫かの?」
「これくらいの黄金の鯉を捕らえたい。食べるのでは無く、観賞用に。あるいは釣れた事に満足し、逃がしてやる事も吝かではない」
私は黄金の鯉を思い浮かべて、ジェスチャーで大きさを伝えた。ダビデの奥様はふむふむと頷き、私を連れて森の奥へ進んだ。
森の中は町よりもやや暖かく、涼しいくらいで心地よい。周りを見ると、キノコや山菜があちこちに群生していた。
「ここは良い場所ですね。旦那さんから山菜の佃煮を買ったんですが、よろしければ白米か、塩むすびを戴きたい」
私が奥様に思わず願望を伝えると、彼女は満面の笑みを浮かべて言った。
「昨日、町の女子に世話になったのじゃ。其方も上客じゃ。ちょうど昼飯時じゃから、御馳走しよう。釣竿はそのあとでよいか?」
私は二つ返事で頷き、礼を言った。