5 邂逅
午前六時のアラームで目が覚めた。昨日、森のひとに貰ったきんぴらゴボウと芋の煮っころがしを曲げわっぱに入れ、卵焼きと白米を詰め込んだ。少し冷ましたあと、ふたをして箸と一緒に巾着袋に入れる。小さなリュックを背負い、常温の緑茶が入った水筒を肩に掛けた。
前かがみの世話焼きお婆さんを警戒し、そっと玄関のドアを開けた。音が鳴らないようにゆっくりと鍵を回し、忍び足で門の扉を開けた。大丈夫だ。人の気配は感じない。
そう思った矢先、通りの向こうでお婆さんの声が聞こえた。
「よもや古池に行こうとしているのではあるまいな?」
「いけませんか? たとえ老練の山田さんの頼みでも、私の自由な意思を阻害する事は出来ませんよ」
「卦は凶!」
「そうですか。気をつけて行って来ます。私には、そこですべき事があるので」
わたしはその会話に興味がわき、今日は古池公園に足を運ぶ事にした。
お婆さんに出会わないように別ルートを使って。
わたしは自宅の裏に回り、細い側溝を跨いで歩いて行く。グレーチングや溝蓋がある所もあるが、気を抜いて歩いていると溝にはまってしまう。溝蓋の側面は硬くて鋭いので、怪我をする恐れもあるし、昨日降った雨で水が溜まっているかも知れない。
U字溝の継ぎ目を足先で確認しながら、緩やかなカーブを描く古池公園までの経路を辿って行った。
古池公園まであと少しという所で、前方にわたしの通行を妨げる物体に出くわす。
超音波的なソレに反応した物体は、正面足元の溝蓋に、ちょこんと佇んでいた。
雰囲気から察すると、小型の野良犬と思われた。わたしは小さい頃に腕を嚙まれた事があり、固まってしまった。息を止めて犬の次なる挙動を待ち構えた。しかし犬は一向に動こうとしなかった。ジリジリとした時間が流れて行く。古池に向かった人は、もう到着しているだろうか? 現実逃避をするかのように、意識が別の方へ向かって行った。
気がつくと、あろう事か犬がわたしの腕に乗り、顔の前にゼロ距離で佇んでいた。わたしは再び先程以上に固まってしまう。息が詰まる。呼吸をすると噛みつかれるような気がした。無言の時間が数秒続く。堪えきれず息を吐いた時、突然犬がわたしの瞼を舐めた。
「ひっ!」
わたしは短く悲鳴を上げたが、固まったまま身動きが出来なかった。じっとしたまま犬のやりたいようにやらせた。気分を損ねると何をされるか分からない。
犬はわたしの両目をぺろぺろと舐め続けたあと、クゥーンと憐れむように鳴いた。
すると間も無くして、眼窩にヌルっとした球体が入り込んだ。わたしは異生物が入り込んだような感覚を味わった。
一体どうなるのだろう。犬に取り付いていた異生物に寄生され、体を乗っ取られて気味の悪い生き物になってしまうかも知れない。またもや現実逃避したくなった。
しかしこんな現実は受け入れたくないのが正直なところ。わたしの思考をよそに、二つの球体と目の奥が結合するような感覚が伝わった。同時に両目に光が差し、目の前に視界が広がった。
「まさか……これが?」
目の前に色鮮やかな犬がいた。
中身を手放した眼窩には、長い睫毛が生えていた。
「わたしにくれたの? 大切なものを……」
わたしは目が無い犬を抱きかかえ、ゆっくりと頭を撫でた。恐怖心は何処かへ消えていた。
その犬は短く鳴いたあと、わたしの手元を離れ、溝蓋を伝って走り去って行った。