4 森のひと
歩道橋の階段を下り終え、少し緑茶を口に含んだ。まだ散歩の折り返し地点にも到達していない。飲み過ぎは禁物。わたしは欲望を振り切って、水筒のふたを閉めた。
腕時計のアラームが十一時を告げた。予想外の階段の上り下りで体力を使い、既にお腹が空いていた。
しかし生まれた時から正午ちょうどに昼食を食べるという厳格なルールを自分に課しているので、正午まで歩き続ける覚悟を決めた。一時間後のアラームが、今日の散歩のターニングポイント、という事になる。
点字ブロックが途切れた先には、予想外の世界が広がっていた。地面は小石や砂、雑草や落ち葉の感触があった。周囲は枝や葉っぱの摺れる音。そして虫や小鳥の騒めき。湿った草や苔の匂いがした。
(どこかの森に迷い込んだ? この先へ行くと、わたしは戻って来れるのだろうか)
いつもなら好奇心で一杯になり、後先考えずに行動しても、最後には家に帰宅する事が出来た。
「何かが違う」
今日は、そんな気がした。
十一時半のアラームが鳴った。危険を冒して先へ進むか。それとも今日は引き返して歩道橋でサンドイッチを食べるか。
点字ブロックと森の入り口の狭間で、わたしは途方に暮れた。
その時、森の方からゆっくりと近づいて来る人の気配を感じた。わたしは小さなリュックに掛けていたこうもり傘をつかみ、迎撃態勢を取って身構えた。
「町のひと。われは敵ではあらぬ。ぜひ其方を持て成したいと思ってやって来たのじゃ」
森の方から聞こえる声の主が古風な口調で言った。
「持て成される理由がわからない。現状では怪しさが一杯で、全く信用できません」
わたしは正直な気持ちを言葉にした。
「その白い麦わら帽子じゃ。われの旦那が歩道橋のてっぺんで帽子の行商をしておる。其方は初めての客じゃし、ハムサンドを貰ったとスマホに連絡があったのじゃ」
声の主が捲し立てるように言った。
「その行商人は、昨日から何も食べていないと言っていた。持て成すほどの食事があるなら、話に矛盾が生じるんじゃないかしら?」
わたしは尖った傘の先を声の主に向けて言った。
「お金の話で夫婦喧嘩をしていたのじゃ。信じてくれ。拗ねた旦那は飯も食わずに、家出同然で行商に出掛けた。スマホで会話して、仲直りしたのじゃ。其方の仲裁のお陰なんじゃ」
声の主は喚くように畳みかけた。まぁ必死さは伝わったので、信じる事にした。
仲裁ではなく、帽子とハムサンドを物々交換しただけなんだけど。
「で、わたしはどうしたらいい? このまま森の中へ入って、自分の家に帰れなくなったら嫌よ」
「大丈夫じゃ。お礼をしたら、必ず歩道橋の向こう岸まで送り届ける。約束じゃ!」
声の主の言葉を信じ、わたしはこうもり傘を仕舞った。そして声の主に促され、森の中へ足を踏み入れた。
正午のアラームが鳴った。わたしはサンドイッチケースを開け、サラダサンドを口に入れた。
シャキシャキのレタスとピリッと辛みの利いたドレッシングが絶妙な食感と味覚を引き立たせ、周りのしっとりふわふわのパンが舌触りと喉を喜ばせた。
声の主の方からゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。
「お一つ食べますか?」
「よ、よいのか?」
「どうぞ」
ケースを差し出すと、即座に手が伸び、はむはむと食べる音が聞こえた。
「美味じゃ! しかしわれも負けてはおらぬ。森の幸、山の幸を侮るなかれ!」
お昼時だったので、既に食事の準備はしていたらしく、それほど待たずに出来立ての料理が並べられた。
蕗や蕨、キノコが入った炊き込みご飯に牡丹鍋。きんぴらゴボウに芋の煮っころがし。全てしっかりとした味が染み込んでいて、ほっこりと味わい深い料理だった。
「すごく美味しかった。ありがとう。旦那さんは帰って来ないの?」
わたしが問うと、声の主は、旦那は夕方まで行商を続けているだろうと言った。
帰り支度をすると、声の主はきんぴらと煮っころがしの入った包みを持たせて言った。
「また遊びに来てくれ。次はハムサンドを持ってくるのじゃ。頼む。アポはいらぬぞ」
わたしは苦笑いを浮かべて礼を言った。どうやって向こう岸まで送ってくれるのだろうか。
声の主に促されて、点字ブロックの前まで歩くと、目の前にタクシーの匂いがして、後部座席のドアが開いた。
「すでに向こう岸までの料金は渡しておる。安心して帰るのじゃ。また会える日を楽しみにしておるぞ」
なぜか満ち足りない気持ちで、わたしはタクシーに乗り、声の主に別れを告げた。