2 黒髪の少女
釣果が無く手ぶらで帰宅した私は、ガラス戸の向こうからぼんやりと聞こえる、山田さんの般若心経に遅れを取らないよう、リズムを合わせてお経を口ずさんだ。
信心深い婆さんの忠告を実践した私は、御利益を信じて眠りについた。
明日は仕事が休みなので、朝から古池公園に行こう。奪い取られた釣竿を取り戻さねばならぬ。
夜が明けた。古池の水も漆黒から朝焼けの色に変わっているはず。
私は山田さんを警戒し、居間から遮光カーテンを少し開けて外の様子を確かめた。大丈夫だ。人影は無いし、早朝なのでお経を唱えるにはまだ時間が早い。
音が鳴らないように、細心の注意をはらって玄関の扉を開けた。いつもなら釣竿を持って出掛けるのだが、今日は手ぶらなので少しばかり居心地が悪い。
門を開けた途端、植込みの陰から山田さんがぬうっと姿を現した。
「つッ、おはようございます……」
平静を装い挨拶をすると、山田さんは訝しげな表情で私に言った。
「よもや古池に行こうとしているのではあるまいな?」
「いけませんか? たとえ老練の山田さんの頼みでも、私の自由な意思を阻害する事は出来ませんよ」
クギを刺すように言うと、山田さんは悔しそうな仕草で私を睨みつけた。
「卦は凶!」
山田さんは算木も持たずに言った。
「そうですか。気をつけて行って来ます。私には、そこですべき事があるので」
古池の畔に立ち、まずは池の色を確かめた。朝日を浴びた水面は黄金色に輝いていた。黄金の鯉の息遣いが聞こえて来るようだ。
私は家にあった五十二ミリ径の偏光フィルターを持参していた。このフィルターを通して水面を見ると、反射光は吸収され水中がくっきりと見える。科学の力は絶大だ。忌々しい釣竿強盗も一網打尽というわけだ。自然と笑いが込み上げて来た。
私は獲物を狩るハンターの心境で、フィルター越しに水面を捜索した。
池の中は、様々なもので溢れていた。ヤカンや自転車はお約束だが、他にもベッドやテレビ、洗濯機に冷蔵庫。畳の上に置かれた卓袱台には、食事の上に蝿帳が被せてあった。
「釣竿が見当たらない。黄金の鯉も……」
冬の池の水は冷たい。しかし失ったものを取り戻すには、多少の困難は付き物だ。
私はズボンの裾を上げ、水中探索を決行する意思を固めた。水深は、目測だが深い所で約一メートル。私は背がそれほどでも無いので胸まで浸かるかも知れないが、釣竿の無事には代えられない。
凍えるような冷たい水を堪えながら、私は古池の中へ入水した。
大きく息を吸い込み、息を止めて冷たい水中に頭を潜らせた。無数の針で刺されるような痛みが顔面に突き刺さる。左目を閉じ、右目に偏光フィルターを当てて、水底を這うように進んだ。
地面はコンクリートの表面に防水加工が施されていて、何年かに一回はポンプで水を抜き、水の張り替えを行うようだ。しかし近年は市政が忙しく予算も足りていないので、後回しが積み重ねられた挙句、忘れ去られているのではないかと心配になった。
(黄金の鯉はどこだ? いや、順番で行くと釣竿の方が先だ)
逸る気持ちを抑えて周辺に目を泳がせた。しかし一向に釣竿は見つからなかった。黄金の鯉も。そろそろ呼吸が苦しくなり、水面から浮上する。凍えるような寒さだった。
私は前日に、ずぶ濡れを回避した事を後悔していた。
「仕方がない。新しい竿を買おう」
自分に言い聞かせるように呟いたあと、震える体に鞭を打ち、池の畔に足を掛けた。
その時だった。私をじっと見つめる強烈な視線を感じたのは。情熱とも殺気とも取れる刺すような視線に、私は金縛りにあったような感覚に陥った。
少し離れたベンチに、視線の主が座っていた。季節外れの白い麦わら帽子を被った、黒髪の少女だった。長い髪が冷たいそよ風に靡いていた。鳶色の大きな瞳は、ずぶ濡れで震える私を捕らえて離さなかった。
「私に何か御用ですか?」
ベンチの近くまで歩き、少女に尋ねた。
「いえ。物珍しくて見入ってしまっただけです」
少女は大きな瞳を瞬きもせず開いたまま、冷たく澄んだ口調で答えた。
私はそれ以上言葉を発する事が出来なかった。不格好な自分に羞恥心を抱きながら、その場を去ろうとした時、おもむろに少女が呟いた。
「釣竿は見つかりましたか?」
私は一瞬耳を疑った。なぜ彼女が釣竿を失くした事を知っているのだろうか。
「なぜそれを?」
私は思わず聞き返してしまった。初対面の、幼気な少女に。
「その犬が昨日の晩に、見ていたのです」
少女がさした指の先に、その犬がいた。
その犬には目が無かった。正確に言うと、眼窩は有るのだが眼球が無かった。
その眼窩には、気味の悪い毛が生えていた。