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1 犬

 その犬には目が無かった。正確に言うと、眼窩(がんか)は有るのだが眼球が無かった。

その眼窩(がんか)には、気味の悪い毛が生えていた。


 その犬との出会いは、三年前の冬だった。

私の家の近くには、古池公園(ふるいけこうえん)という緑豊かな公園があった。仕事が六時に終わると、いつもその公園の真ん中にある古池(ふるいけ)で、釣りをしていたのだ。

 その日も、私は玄関に置いてある釣り道具を持って外に出た。朝から降っていた雨は()んでいたが、空には重い雲が広がっていた。


「何かが違う」

そう感じたのだが、昨日釣り損なった黄金(おうごん)(こい)の事を考えると、古池に行かずにはおれなかった。

 門を出ると、山田さんが立っていた。山田さんは九十歳をゆうに越えた婆さんで、私の家の前に住んでいる。年金で生活をしているのだが、趣味で占いやお(はら)いのようなものをしていた。ほとんど職業のようなものだが。


「こんばんは、山田さん」

私は挨拶(あいさつ)だけをして、すぐに古池に行こうとしたのだが、山田さんは私を引き留めた。

「およしなさい、古池に行くのは。霊気が(ただよ)っているぞ!」

このくたびれた婆さんは髪を振り乱し、白目がちな目で私を見据えて言った。

「大丈夫ですよ。古池に行くのはいつもの日課ですし、雨はもう降らないと天気予報でも言ってましたから」

そう言って、私は山田さんから(のが)れるように去ろうとしたのだが、山田さんは私のYシャツの(ひじ)を強く握り締めたまま、離そうとはしなかった。


「本当に大丈夫ですよ。私は子供ではないんですから……」

「いいにゃ、こんな時は、家で般若心経(はんにゃしんぎょう)でも(とな)えていた方がいいんじゃ」

そう言うと、山田さんはYシャツを握ったままの(こぶし)を、私の家の方に押し出した。


「わかりました。般若心経は唱えませんが、おとなしく家にいます」


 家に戻ってから、一時間が過ぎた。私は昨日の黄金の鯉の事を忘れるためにテレビを見たが、やっている番組は二局とも釣り関係だった。

 仕方なく書斎で本でも読もうと思ったが、本棚の本の六割は釣り関係のものだったので、読書を思い(とど)まった。

 時計を見ると、すでに一時間半が経っていた。私の手は釣りをしたくてウズウズしていた。


 居間から外を見ると、山田さんはすでに家に帰っていた。ガラス戸を開けて庭に出てみると、山田さんの家からのんびりとした般若心経が聞こえて来た。

「世話焼きババアめ。信仰なんて現実主義のオレには全く意味をなさないのに」

そっと悪態をついたあと、私は早速釣竿を持って、古池公園に向かった。


 婆さんの言った言葉が気に掛かり、少し不愉快な気持ちが続いていたのだが、古池の(ほとり)でのんびりと仕掛けを竿に付けていると、釣り独特の無我に近いもの、現実の世界から切り離された自分だけの世界に(ひた)る事が出来た。


 池に釣り針を落とす。あとは黄金の鯉が釣れる事だけを考えればいい……。

私の目は、ゆるやかな小波(さざなみ)に揺れる細長いウキを捕らえて離さなかった。細長いウキはまるで茶柱が立った時のように、私の心を(はず)ませた。

「ふっ、これが釣りの醍醐味(だいごみ)だ。獲物を捕らえるまでの緊張感が、何とも言えず私の心を(くすぐ)る。この一瞬のために釣りをやっていると言っても過言ではない」

私は文学的に今の心境を言葉にした。


 どのくらい時間が()ったのだろう。小波を作っていた風が止み、ウキは全く動かなくなってしまった。時計を見ると、八時四十五分を回ったところだ。

「あと三十分経ってもアタリが無ければ、今日は帰るか」

竿を上げようとした瞬間、ウキが上下に揺れた。


「やったか?!」

歓喜の声を上げようとした時、それは驚愕の声に変わった。


 ウキが上下に揺れたのではなく、水面が大きく揺れていたのだ。いや、水面だけでなく、私自身も上下に揺れていた。

「じっじっ地震だぁ!」

私は急いでそばにあった杉の木にしがみついた。激しい縦揺れだった。


 間もなく揺れは止まった。しかし、(わず)かな余震が(いま)だ続いているようで、しばらくの間、私は身動きが出来なかった。


「婆さんの予想が的中したのか? いずれこの事象(じしょう)も、科学の力で解明されるだろうとは思うが……」

 池のそばに投げ出した釣竿の糸が引いていた。細長いウキが上下して、ずるずると竿が池の中へ持って行かれる。

 私は杉の木を離れ、急いで竿のもとへ走った。池に呑み込まれる寸前で何とか竿をつかみ、水面ぎりぎりで引き上げる。

 片手では限界が来たので、お尻に体重を掛け、両手で竿を握りしめた。


「フフッ、こいつはでかい。大物(おおもの)だ」

思わず笑いが込み上げて来た。しかしその笑いも次の瞬間には不安に変わる。

「ひ、引きが強すぎる……こんな人工で作られたコンクリート敷きの()(いけ)に、池のヌシ的なものがいるはずは無いのに!」


 私は池に引きずり込まれないよう全身に体重を掛け、反り返ると同時に、助太刀(すけだち)をもらうべく辺りを見渡した。

「だれか、誰か助けてくれ! 金は幾らでも積む。ただし必要最小限に(とど)めておくが!」

夜がふけた公園に、私の(むな)しい声が響いた。


 私はずぶ濡れを回避するため、未練を残しつつも竿を手放した。漆黒(しっこく)の池に釣竿は沈み、(またた)()に吞み込まれていった。

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