滑り台
「それでは時田さん。私は今から別の患者のところへ面会に行きます。
また夕方頃に時間がつくれると思いますから、その電子端末で呼び出してください。
私の番号はこの名刺の裏に記載されています。それでは」
北山先生はそう言って私をドアの前に残したまま、通路の奥へ向かって歩いていこうとした。
私は一応、記憶の中にある自分の呼び名をうっすら思い返しながら、先生に誤りの修正をしておくことにした。
「先生ーーー。私の名前は、時乃です。ときの あかり です」
北山先生は少し意表を突かれたような表情を浮かべながらも、「わかりました」と言ってドアの向こう、滑り台が設置されているらしき空間に吸い込まれていった。
あらためて部屋の中を見る。
靴を脱いで、一歩、二歩、三歩と室内に侵入してみた。
床はフローリング。
玄関には、そこが玄関だと示すような小さなカーペットが一枚敷かれているだけだった。
壁に埋め込まれているスイッチを3つとも全部押すと、天井のシーリングライトが3個、一斉に点灯した。
かなり明るい。
室内は一組のふすまを使って、部屋のサイズを調整できるようになっているらしかった。
ふすまはかなりの軽量で、簡単に壊れてしまいそうだった。
壊すと何か請求されそうなので、慎重にスライドさせることにする。
「エアコンがないわね……」
それでも部屋の空気は適度な温度を保っていた。
おそらく外壁を厚さ1mのコンクリートで覆っているせいで、年間を通じて内部の気温にそれほど変化が生じない仕組みになっているのだろう。
部屋にはいくつかの備品が無造作に置かれていた。
サーキュレーターが1個。
木製の机が1個。電気スタンドが1個。
同じく木製の椅子が1脚。
布団が一枚。その上には枕とかけ毛布が。
天井の照明3つに、この電子書籍端末とを合わせて、生活に必要な最低限度の道具は揃えられているようだった。
室内の壁にはいくつかのコンセントが取り付けられていて、一番奥の壁にはドアが一枚張り付けられている。
開いてみると、そこはどうやらトイレのようだった。
使い方がよくわからなかったので電子書籍端末で検索してみると、1枚の画像が出てきた。
「手押し車式トイレ……タンク内部に2割ほどたまった段階で回収、排泄物は肥料として売却……」
江戸時代のように排泄物を売ることができる様子だった。
小便タンクと大便タンクが別々になっていて、大便タンクの底に排出口が設置されている。
排出時には小便タンクからポンプで小便を送り込み、その圧力で大便を押し出す仕組みらしい。
「使用時は紫色のホースを装着し、内部の空気を吸いだし続けることで悪臭に悩まされずに済む……」
狭い個室には天井から一本のホースが垂れ下がっていた。
指を近づけてみると、結構な勢いで空気が吸い込まれているのが分かった。
このホースが、どうやらこの室内全体の空調システムにもなっている様子だった。
ちょっと恥ずかしいけど、背に腹は代えられないか。
ここまで見て分かった。
おそらく、この建物内部には上下水道とガス管が、無いのだ。
だからお風呂も洗面所も洗濯機もないのだ。
おそらくそれらは別の場所、建物の外か1階にでも集約的に設営されているのだろう。
「安いはずだわ……」
エアコンを排除したのもおそらくはコストダウンが目的だったのだろう。
暑くなったらサーキュレーターを使用して、寒くなったらふすまを利用して部屋を最小化させることで自分の体温で室温を上昇させる仕組みになっているのだ。
結構考えられているわね。
しかしこれ、洗濯はどうするのかしら?
いくつかの疑問符を頭に思い浮かべつつ、私は部屋を出てカギをかけ、廊下の奥に歩いて行って、滑り台のマーク(棒人間が滑り台を滑っている図)が記載されたドアを開けた。
小さな踊り場があり、その先には左から右に下る形でコンクリート製の傾斜路が設置されていた。
踊り場の隅には、ジーンズのような生地で作られた長方形の座布団のようなものが何枚か無造作に壁に引っ掛けられていた。
おそらくこれが【そり】なのだろう。
数秒間だけ無言でたたずんだ後、私はそりをおしりに敷き、態勢を整え、薄暗い滑り台の通路を勢いよく滑り降りていった。