9.王宮侍女は酔いしれる
しっとりと濡れたように艶やかな琥珀色。ふんわりと柔らかいその姿。そして魅了してやまない豊潤たる香り。
白い皿に鎮座するそれをフォークで切ればしゅわと音をたててふわりと揺れる。口に入れた途端に広がる熟成された深いコクとまろやかな甘味。そして、鼻を抜けていく芳しい香気。
ほろりと口の中で崩れるたびに、深い味わいが口の中を蹂躙する。
「……んぅまい」
ため息と共に感想を吐き出し、うっとりと目を細める。
漏れ出た吐息さえもったいない。全て体の中に留めたいぐらいだ。
さて、もう一口。
「うぅんまぁいいぃぃぃ」
ヤバイ。めっちゃ美味い。
ほんの十数年しか生きてない私の人生の中でもトップクラスの美味しさだよ。
「おばちゃん、これ、すっごく美味しいよぅ。こんな美味しいの初めて食べた」
半分になった皿を捧げ持つ。
もう崇めてもいい。これは神の食べ物だ。
なんて尊いケーキなんだ。
場所はいつもの休憩室。
ようやく『天使の間』の天井掃除が終わり、手洗いと着替えを済まして後は帰るだけとなった私たちに「良かったら食べない?」とおばちゃんがお誘いをしてくれた。
そして、いつも助言や楽しい話題を提供してくれるマチルダおばちゃんが手作りのブランデーケーキと振る舞ってくれている。
このケーキがめっちゃくちゃ美味しい。
豊潤なブランデーが奥の奥まで染みに染みている。決してベチョベチョではない。しっとりなんだよ。
ケーキの形を取ったブランデーと言っても過言ではない。
ブランデー自体はちょっと苦手なんだけど、あの香りは好きなんだよね。それがパウンドケーキに浸されただけで、こんなにも変わるなんて!
今、私の人生観が変わったよ。
「そこまで気に入ってくれたのなら、作った甲斐があったよ」
カラカラと笑うマチルダおばちゃんは勤続20年にもなる大ベテラン。私が尊敬する数少ない人です。
たまにクッキーとカップケーキを差し入れてくれるが、ブランデーケーキは初めてだ。
前に店で一切れ買った事はあるけど、こんな味じゃなかったよ。
たぶん、いいブランデーを使ってるんじゃないだろうか。
「私もこんなに美味しいのは初めて食べたよ。さては、いいブランデーを使ってるね」
同僚のおばちゃんも同じ結論に達したようだ。
マチルダおばちゃんは自分の分をパクリと食べて、なんだか妙にしんみりした顔をした。
「まあね。25年物だよ。それを2ヶ月浸してたからね」
「それは勿体なくないかい?」
「いいんだよ、そろそろ頃合いだったからね。みんなで美味しく食べれたら嬉しいじゃないか」
そう言って笑ったおばちゃんはちょっとだけ寂しそうに見えた。
何か訳ありなブランデーなのだろうか。
まぁ、だからと言って、小娘の私にできる事はこの美味いケーキを食べる事以外にないだろうと、もう一口食べる。
はぁう〜、至福。
さて。休日を経て、次は『愛の間』です。
………ぷっ、くふっ、くくく。
ヤバイ、笑える。
頑張れ腹筋、負けるな表情筋。
大判マスクがあって良かった。揺れた肩は隠せないが。
『愛の間』は『天使の間』よりも少しだけ小さい。小さいと言って500人は軽く入るんだけどね。
彫刻は薔薇が多くて、小ぶりで装飾の多いシャンデリアがいくつも下がっている。
薔薇は陛下が王妃様にプロポーズした時に贈った思い出深い花なんだそうだ。会場の四隅に、置かれた女神像は王妃様がモデルらしい。
……………ぶふっ。
両陛下は、どんな顔して開催してるんだろう。
まぁ、そんな笑い話はいい。
薔薇の彫刻って溝が多いんだよね。それが、天井や柱に絡みついてんだよ。
お分かりの通り、すっごく面倒くさい。
柔らかなブラシで埃を落として、柔らかな布で乾拭きして艶出しをする。
溝が多い分埃も多いし、変に写実的な物は溝が深いし、掻き出すのが大変。
次からは掃除の事をを考えた装飾にして頂きたい。
シャンデリアが小ぶりなのはいいけど、これにも薔薇の装飾とかガラスや水晶とかの装飾が多い。
あれを最後に磨くのか…。ため息しか出ない。
とりあえず目の前の薔薇だ。
もうみんな無言で拭いてる。
職人に言葉は要らない。
天井掃除で何がいいかと言えば、他人の情事に遭遇しない事だろう。
ばったり出会う気まずさも、変に気を使う事もなく、ただひたすらに掃除に没頭できる。
平和だわ〜。
なんて。油断した私が悪いのだろうか。
私は今、ドレスの着付けとメイクを手伝わされている。
うん。侍女の仕事だよね。
元々、侍女の名目で入ったのだから出来ますよ、一通りの事はね。
「やはり、胸が余るな」
「もう少し詰め物を致しましょうか」
「うむ。頼む。出来れば柔らかい物にしてくれ」
「かしこまりました」
今、ドレスの着付けを手伝ってる相手は、男性です。40代くらいのナイスミドルなおっちゃん。
なんでこうなったかなー。
仕事終わりに、客室に備品の補充を頼まれて向かった内の1室に彼?彼女?がいた。
ドレスに手こずっていた様子に思わず「手伝いましょうか?」と言ってしまった。
振り向いた顔がどう見ても男性だった事に、一瞬時が止まったが、なんとか目を逸らしながらも普通に振る舞った私って偉い。
それが良かったのか、着付けとメイクまで頼まれた。
ええ、やりましょう。こうなればヤケだ。
柔らかな布をベージュの薄布で包み、それを胸の部分に詰めていく。
自然な盛り上がりに満足。ちゃんと左右同じぐらい。
そっと視線を下げて見る。
………。詰め物……いやいやいや。
だがしかし。しかしだが。
……今葛藤するのはやめておこう。うん。
次は鏡台に座ってもらい、下地をじっくり作る。
髭の剃り跡があるから、とりあえず隠す方向で厚くなりすぎないように塗っていく。色味は大事。
オレンジのコンシーラで髭剃り跡を隠して、明るめファンデーション。
アイラインは少し太めにして目をパッチリとさせて、眉は剃ると女装を解いた時におかしくなるのでベースで隠しながら眉を描く。後は前髪を下ろして目元に泣き黒子を入れると、視線が下がって眉は目立たないんじゃないだろうか。
四苦八苦しながらもなんとかメイクを終える。
「いかがでしょうか?」
声をかけると、ゆっくりと開けた目が驚きに見開かれる。
恐る恐る手が頬に触れ、鏡の中の自分を見つめて一言。
「これが、私…?」
言うと思った。
野太い声なのがマイナスですが、魅入っているおっちゃんには些細な問題なのだろう。
元の顔を知ってるだけに、いい仕事した!って思える。
普通の支度より充実感があるのはなんでだろうね。
「君、ありがとう。これは礼だ」
美魔女風になったおっちゃんが私の手に金貨1枚と小さな箱をくれた。
金貨は多いんじゃないかと思ったが、返すのも失礼だし貰っておこう。
正当報酬ですよ。
「君が良ければ、またお願いしてもいいだろうか」
不安そうな野太い声の美魔女に頼まれ、笑顔で「私でお役に立てるならば光栄です」と猫被って答えておいた。
上客ゲットだぜ!
って、そんな商売してねーよ。
名前と所属を伝えて、元おっちゃんの美魔女は颯爽と部屋を出て行った。特注のデカいヒールを履いて。
なるべく喋るなよ、外務大臣。
しかし、あのおっちゃんを変身させるとか、自分の変身メイク術が怖いな。
貰った小さな箱を自室で開けてみたら、中身はブランデーケーキだった。
なんて、奇跡。
早速一口食べて、その美味しさに酔いしれた。
夜中に美味しいブランデーケーキを食べました。
太る。けど、美味かった。至福。