閑話7. 王太子はその手に掴む
熱を持った息が短い間隔で力強く吐き出される。
湿り気を帯びた呼吸が室内に響く度に、部屋の主は眉根を寄せて耐えていた。
「ふんっ、はっ、いい。いいぞっ。キてる。んぉお!キてる!キてるぞぉ!!」
激しく動く度に、肌に浮かんだ汗がつぅと滑り落ちる。
「まだだ。まだ、イケるだろう?そう!もっとイケる、はずだ!んっ、ふっ、これで、どうだ!」
ローガンは鼻息も荒く激しく体を上下させながら、にやりと笑った。
こめかみから滑り落ちた汗は、太い首筋を通りぽたりと落ちた。裸の背中や胸も細かな汗が吹き出している。
部屋の主でもある王太子は、耐えきれずに目を閉じると唇を嚙み締めた。
憂いを帯びた表情にいたたまれず、他の侍従たちはそっと目を逸らすのだった。
「ふっ。震えて、いるのか。可愛いな。大丈夫だ、ここを、越えれば、更なる、高みに、連れていって、やるっ」
激しく動きながらしゃべるせいで言葉が切れ切れになるが、ローガンの表情にはまだ余裕があった。だが、先に音を上げたのは王太子のほうだった。
「ローガン!いい加減にしろっ!!」
我慢の限界がきた王太子は、机を思いっきり叩いて立ち上がった。
斜め横で高速腕立て伏せをしていたローガンは、目をパチリと見開いて動きを止めた。
「いい加減にしてくれ。やるなら黙ってやれ。ここでの鍛錬を禁止にするぞ」
「はっ。申し訳ありません。この天気でいつもの鍛錬ができなかったものですから」
立ち上がればその巨躯から湯気が立ち上り、部屋の温度と湿度を上げている気になる。
確かに、昨晩から続いている雨のせいで外での活動は無理なのだろう。王太子も部屋でやるなとは言いたくないが、ローガンは運動中に筋肉へ語りかけるので非情にうるさいのだ。
「まったく、静かにやれないのか」
諦め半分に文句を言うとやや乱暴に椅子に座った。
叱られたローガンは眉を下げて体の汗を拭うと侍従服に袖を通す。筋トレで厚みがでたのか若干着づらそうだ。
「しかし、筋肉は褒めれば褒めるほど良い成長をしてくれるのです。さっきも大胸筋と上腕二頭筋が素晴らしい成長を遂げてくれましたし、もう少しで腹筋も仕上がりそうで…」
胸を張って左右の胸筋を交互に動かすが、王太子の心にはなにひとつ響かなかった。
侍従がそこまで鍛えてどうするつもりだ。
頭が痛い。
ただでさえ忙しいのに、休憩時間にこんな暑苦しいものを見せられたのでは休まるものも休まない。
癒しが欲しい。
心からそう思った時、専属侍女になったばかりのアンナが戻ってきた。
室内の様子と、四苦八苦しながら服を着るローガンを見ておおよそ状況を把握したのか、何事もなかったように王太子に向き直る。
まだ短い付き合いだが、めんどくさいと感じている時は表情を変えずに見なかったことにする傾向にある。
彼女を推薦してきたクリフォード侯爵には悪いが、最初はあまり期待していなかった。
なんとかして近づいてこようとする女性が多いなか、アンナはなんというか、変わっていた。
帝国でマルグリッドの代理を頼んでみれば、淡々とこなしていくだけでこちらに色目を使うこともない。
試しにルイーズのいない時に「私を見てどう思う?」と微笑んで尋ねてみれば、少し考えてから「容姿は両陛下の良いところを受け継いでおりますね。ご政務も真面目にこなされておりますし、ご夫婦仲も円満で羨ましい限りです」と真面目に答えてきた。
この状況で口説かれることもアピールされることもなかったのは、本当に久々だった。思わず笑ってしまい、不思議そうな顔をされた。
そういうアピールかとも思ったが、婚約者のルカリオ・ガルシアンとの様子を見れば、ただ単に婚約者以外をそういう対象と見ていないのだろう。
仕事ぶりも悪くない。なによりルイーズが採用に頷いてくれたことが一番大きい。彼女が太鼓判を押したのなら大丈夫だろう。
悪くない。
何より、ローガンたちほど暑苦しくない。
「賑やかですわね」
侍女と共に現れたルイーズは室内の様子にくすくすと笑った。視線の先ではなんとか服を着たローガンの着方をアンナが注意している。身長差のせいか熊を叱る猫のようだ。
見ていて面白いが、そろそろ切り替えてもらおう。声をかければ素早くに己の業務へと戻るところは優秀なのだがなぁ。
ルイーズと共にお茶を楽しみながら、雑談を交わすひとときに癒される。
王妃から届いた頭の痛い手紙さえなければ、まだ気持ちも楽だったろうに。
「なにか、悩み事ですの?」
無意識に出たため息にルイーズが心配そうに声をかけてきた。
「ああ。だが、今は君との時間を大事にしたい」
「私もですわ」
柔らかな返答に自然と顔が綻ぶ。
大抵の人間はルイーズの外見を褒め称えるが、彼女の魅力は人を癒す笑顔と全てを包み込むような包容力にあると思っている。
王子を産んだことにより、母としての魅力が加わり更に美しくなっている。
「このまま君と帰ってしまいたいな」
そして我が子と戯れて癒されたい。
「まぁ。貴方をお迎えする楽しみを奪わないでくださいませ」
「仕方ない。君のために頑張ってくるから、帰ったらたくさん癒しておくれ」
「もちろんですわ」
そっと重ねられた手の上に自分の手を重ねる。
愛おしさに目を細めれば、頬を淡く染めて微笑んでくれた。
その微笑みだけで疲れが吹き飛ぶ。
斜め向かいでローガンが「尊い…」と感動に打ち震え、それを見たアンナが「キモ…」と呟いたが、ルイーズに集中して気がつかないふりをした。
グロリナス宮殿の私室で、握りつぶしたせいでシワだらけの手紙を取り出す。
「面白いことがしたいわ」「間近で観劇したいの」などと好き勝手書き立てられた内容は頭痛の種にしかならない。
ついにとち狂ったのかと説教してやりたい。
社交シーズンが終わり、領地へと帰った貴族も多い中で国王主催の大規模なパーティーを開催できると本気で思っているのだろうか。……思っているんだろうな…。開催できないなど微塵も考えていないはずだ。今までの経験上、無理だと言ったところで聞かないことは分かっている。
仮にも王妃という立場だというのに、何も考えていない。あれが自分の母親かと思うだけで頭痛がしてくる。
昔はまだマシだった。文句を言いながらもちゃんとしていた気がする。
年々肩代わりする量が増えていき、ルイーズと結婚した後は、王妃の仕事はほぼ彼女に任せっぱなしだ。やることといえば、お茶会や舞踏会などの華やかなことばかり。
最近では、国王も私に丸投げし自分は裁可のサインを記すだけだ。
調教された猿でもできる仕事だ。余計な金を使わない辺り、猿のほうがマシかもしれない。
王冠を被った猿を思い描いて苦笑が漏れた。
「なにをお考えですの?」
隣に座っていたルイーズがピタリとくっついて手元を覗き込む。シワだらけ手紙を見えるように位置を変えれば、一読したルイーズが「まぁ…」と目を丸くした。
「困った方ですわね」
頰に手を当てて吐息を吐く。
彼女もこの提案を無理矢理押し進められそうな気配を感じているのだろう。
「けれど、いい機会だと思わないか?」
「と、申しますと?」
「計画を前倒しにしようか」
小首を傾げる彼女に簡単な説明をした。
国王の退位。
何年も前から一部の貴族や官僚から示唆されていたことだった。その先陣にいたのがクリフォード侯爵だが、彼は機会を待ちつつ水面下で準備を進めていた。
王太后と面識のある彼は、私の教師の一人として昔からの知り合いでもある。十代前半は、身分を隠して外務省の見習いとしてこき使われた。毎日のように無能だ無知だと言われた日々はいまだに忘れられない。
「父上を退位させて、私を即位させるだけでしょう?」
なんで時間をかけるのか不思議で尋ねた時は、凍りつくような目で見下された。
その後、回りくどく嫌味のような授業で教わったのは、先を見据えた話だった。
国王を退位させ、私が即位するだけならば簡単だ。その場合、年若い私は傀儡となる可能性も高い。それを避けるためにも経験を積め、結婚し子を儲けよと教えられた。足場を固め、国王と王妃から少しずつ権限を奪えと。
なぜ私に肩入れしてくれるのか。教え子というだけではあり得ない。
訝しむ私にクリフォード侯爵は皮肉な笑みを浮かべ「愛国者だからですよ」とうそぶいた。
どんな思惑があろうが、私の敵でなければ良いと思うことにした。
現時点で侯爵に勝てる自信はないからな。
侯爵と王太后から教わったことのひとつに、婚約者への対応がある。
誠意を持って大事にすること。周囲に何か囁かれても鵜呑みにせずに相手に確認を取ること。
ルイーズは、王太后が推薦した女性だった。
ふたつ年上で、落ち着いた物腰に柔らかな話し方がとても好印象で、数回の逢瀬で互いに気が合って正式に婚約が決まった。
婚約してから結婚するまでの間、色んな女性や男性に「真実の愛」を告げられたが、心動くようなことはなかった。些細なことも話し合う私とルイーズの間には秘密など無く、固い絆で結ばれているという自負もある。
上滑りな「真実の愛」が入り込む余地などない。
例えば、私の両親のように。
「真実の愛」で結ばれた国王と王妃。
実情は砂上の楼閣だというのに。美談として広めたせいで嘘に嘘を重ねすぎて、もう限界にきている。だからこそ、犯罪にまで手を染めるまでになったのかもしれない。
「好都合だがな」
侯爵とは別に調べた証拠も増えた。
あとは、不穏分子を追い詰める確実な証拠をもう少し集めなければならない。
退位のついでに王宮の掃除をしてしまおう。
今回の王妃の思いつきは都合が良い。誠実な領主は領地に帰っているし、王都に残っている貴族の分別は既にできている。
「国王の退位を早めよう。迅速に、穏便に、確実に」
ルイーズに告げた言葉は、自分への再決意でもあった。知らずに握りしめた拳を温かい手がそっと包み込む。
視線を移せば心配そうに見つめる瞳があった。
「王妃も一緒に、だ」
「ええ。それがよろしゅうございます」
もう随分昔から決めたことだ。
国王と王妃の退位。そして幽閉するための離宮も建てた。
全部、納得して決めたことだ。
「ルイーズ…」
「はい」
「…ルイーズ」
「セオドア」
柔らかな口調と共に体を引き寄せられる。あらがわずに身を任せれば、優しい抱擁に包まれた。
温かな肢体と香しい匂いに目を閉じた。
髪を梳く優しい手つきに涙が出そうになった。
「私は、人として欠落しているのやもしれぬ」
血が繋がった両親を排除しようとしている。そのことに対してなんの罪悪感もない。
すでに賽は投げられているのだ。国の為にも、民の為にも、退位は必然だ。
なにを迷う。親子としての情?いや、そんなものありはしない。
先に手放したのは彼らだ。情が湧かなくても当然だ。
王妃は、上手くいかない子育てを早々に投げ出した。私と第一王女を育てたのは、今は亡き王太后だ。
第二王女は王太后がお年でもあったことから乳母が育て、第三王女はなんの気まぐれか王妃が育てた。
王太后を苦手とした王妃が私たちに会いにくる回数はほとんど無く、同じく滅多に顔を合わさない国王に対しても親子の情というものは皆無と言ってもよい。
だが、親子という事実は変わらない。その両親を切り捨てる。
躊躇いつつも、必然だと割り切る自分がとても非情に感じる。
「まるで、怪物になった気分だ」
「いいえ。それは違います」
ぽつりと零れた弱音を、優しい声がきっぱりと否定をする。
「セオドアは、良き夫であり、良き父親です」
「ルイーズ」
「あの人達に情が湧かなくて当然ですわ。私は、王妃様が幼い貴方に言い放った暴言を今でも忘れていませんわ」
思い出したのか、私を抱く腕に力が籠もる。
頰に押しつけられる柔らかな感触は嬉しいが、少々困る。
「生んだから親になるのではございません。慈しんで育てるから親になれるのです。それを放棄した王妃様と国王様のことでセオドアが苦しむ必要などございません」
見上げれば、母として一層強くなったルイーズの凜々しい瞳とぶつかった。
たおやかな彼女の凛とした強さに心臓を貫かれる。
「私の愛しい人」
手を伸ばしてまろやかな頰に触れると、とろりと甘やかな視線が落ちてくる。
触れるだけの優しいキスが顔中に下りてくる。
今までの人生で、そんなキスをくれるのはルイーズだけだ。
乳母のマルグリットも愛情をくれた。でもそれは臣下としての愛情で、一歩引いたものだ。
真っ正面から与えられるルイーズの愛情が初めてでくすぐったくて愛おしい。
「大丈夫よ。私が側にいるわ」
「ああ。そうだね」
「恐れないで。貴方にはたくさんの味方がいるわ」
そう。国王たちの「真実の愛」の陰で犠牲になったたくさんの者達が協力してくれている。
もうすぐ、自分達の行いの結果を知ることになるだろう。
そして、私は立ち止まる訳にはいかない。
「大丈夫。共に進んでくれる君がいるから…」
彼女の抱擁から抜け出し、真っ正面に向い合う。
惹かれ合うように近づき、唇が重なる。
戯れのようにキスをしながら彼女に押し倒された。
覆い被さる彼女の絹のような髪がはらりと滑り落ちた。欲の見える瞳と同じものを返せば、妖艶な笑みが浮かんだ。
「ねぇ、セオドア。今朝、マルグリッドから新しい衣装を貰ったのよ」
「本当かい?」
「もちろんよ。着てくれるでしょう?」
「当たり前じゃないか」
彼女の提案に一も二もなく肯いた。
恋人で、夫婦で、戦友でもあるルイーズとの間に隠し事などなにひとつとして無い。
私は彼女が嬉しそうに見せてきた可愛らしいベビードレスにその手を伸ばした。
明日の12時と19時に投稿し、完結となります。
どうぞよろしくお願いします。
⭐︎お知らせ⭐︎
「王宮侍女アンナの日常」2巻が6月5日に発売になります。




