47. 王宮侍女は愛を求める
「………え?」
いつも優し気に垂れた目が驚きに見開かれている。
初めて見る表情を引き出せたのだと、変な優越感が沸く。
ルカリオさんが好きだ。
そう自覚したから、プロポーズは断る。
好きだから、嫌だ。
分かってる。これはただのワガママで、くだらない意地だと言うことも。
「……ど、どうして、ですか?」
少しの静寂の後、うそー!とか、ぎゃー!とかお姉さまたちが騒ぐ中で、ルカリオさんの動揺した声が聞こえた。
もしかして、断られたの初めてなのかな。いやん、初体験ゲット。あっははは……。
「どうしてって…」
そりゃ不思議だよね。
将来有望なエリートで伯爵令息のプロポーズを田舎者の男爵令嬢が断るんだもん。
普通ならありえないし、理由が気になるよね。
「だって……ルカリオさん、私の事好きじゃないでしょ」
言って、間違えたと思った。
好意はある。好きは好き、なんだろう。でも、その「好き」は友人の「好き」で恋人の「好き」じゃない。
だって、知ってる。
浮かれたように恋や愛を語る人たちを見てきたから。
遊びも、本気も、どちらも腐るほど見聞きしてきた。
「好きですよ。ちゃんと、貴方の事が好きだから、プロポーズを」
「嘘っ!!」
ルカリオさんの声を遮り、私へと伸ばされた手を払い除けた。立ち上がった時に派手に倒れた椅子の音が、ざわついていた周囲を静かにさせた。
困惑する周囲などどうでもいいと、目の前の彼だけを睨みつけた。
腹の中がぐつぐつと煮えたように熱い。
あぁ、腹立たしい。ムカつく。
頭の中を、全身を支配するのは純粋な怒りだ。
「嘘、嘘だ!嘘だ!好きなら『愛してる』ならあんな冷静な目なんてしない。あんな温度のない言葉なんて吐かない。あんな熱のない目で、上滑りな声で、私を『好き』だなんて言わないでよっ!!」
腹が立つ。
悔しくて、情けなくて、苦しくて、頭の中がぐるぐるする。
視界がじわりと歪む。
泣くな。こんな事で泣くな。
唇を噛み締めてルカリオさんを睨みつける。
途方に暮れたような顔に、胸が痛む。
分かってない。伝わってない。
なんで私が怒ってるのか。
「っ、なんで! 分かんないのっ」
ああ、やだ、やだ。涙が止まらない。やばい。鼻の奥がツンとして液体が流れそうな感触がある。
涙だけならまだしも、鼻水垂れた顔なんて見せてたまるか!
片手で鼻から下を押さえる。
やばいっ!垂れる。
淑女のマナーなんて忘れて準備室に駆け込む。後ろ手に鍵をかけてドアに寄りかかったまま座り込んだ。
取り出したハンカチで思いっきり鼻を噛めば少しだけスッキリした。
「ゔ〜〜〜」
ぼろぼろと流れる涙もさらさらの鼻水も止まらない。
もう、嫌だ。こんな気持ちなんて嫌い。
胸が痛いの、やだ。苦しいの、やだ。涙が出るのも、やだ。自分が愛されてないと知るのが、やだ。
やだやだやだやだ。
こんな事を考える自分が一番嫌だ。
分かってた。
ルカリオさんが私に向ける好意なんて、友情の先ぐらいしか無い事は。
優しい言葉も、甘い言葉も、嘘じゃない。でも真実じゃない。
だって、彼の目はいつも冷静だった。
「愛してる」と囁き合う恋人達の眼差しとは違う。ただの好意だ。「好き」だけど「愛して」ない。
プロポーズされた時のあの目が忘れられない。
真剣な目だった。冗談や遊びじゃないのは分かった。でも、恋してる目じゃない。愛を告げる目じゃない。
分かってる。
それでもいいかと思ったんだ。
穏やかな「好き」を受け取り、ぬるま湯のような「好意」に浸って、春の陽だまりのような生活なんて最高じゃないか。
「運命」だとか「真実」だとか、訳の分からない激しい愛情なんて要らない。
要らないのに。
それなのに、「愛して」欲しいのか。
自分が「好き」だと自覚した途端に相手にも求めるのか。
虫唾が走る。
なんて自分勝手。
なんて我儘。
なんて傲慢。
自分と同じ熱を、同じ愛情を返して欲しいなんて。ましてや、それ以上を欲するなんて。
なんて、浅ましい。なんて、汚い。なんて、なんて、なんて、おぞましい。
あぁ、嫌だ。
あんな女になりたくないのに。
嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。嫌い。
平穏を壊すのは嫌い。
身勝手な「愛」なんて要らない。自分勝手な「愛」なんて要らない。
こんな感情なんて要らない。
こんなの私じゃない。
こんなの、まるで、あいつみたい。
急に込み上げてきた吐き気に驚いて逆に飲み込んでしまった。
「げほっ、かはっ」
うげっ、喉の奥が酸っぱい。
もぅ最悪。
情けなくてまた涙が出てきた。
止まってよ。泣くと鼻水も垂れるんだってば。
止まるどころかしゃっくりまで出てきた。顔も気分もぐちゃぐちゃだ。もぅ、本当に最悪。
ドン!と背中に衝撃が走った。「アンナさん」とルカリオさんの声と一緒にドンドンとドアが叩かれ、背中に衝撃が伝わる。
「すみません。話をさせてください。お願いですから」
悲壮感漂う声に、背後のドアを見上げる。
開かないドアの向こうから呼びかける声の必死さに驚いた。
あ、びっくりしてしゃっくり止まった。
「お願いです。ドアを開けてください。話をさせてください」
いや、無理。ぐちゃぐちゃな顔を見せろと?
無理無理。まだ鼻水垂れてるんだよ。ハンカチぐしょぐしょだよ。替えが欲しい。
「む、無理ですぅ」
今は無理。本当に無理。
一日いや、せめて半日程時間をください。
「アンナさん。お願いだから」
悲壮感漂う声に申し訳なく思うが、ちょっと無理。
あんな理不尽で我儘な理由で断られるとか思ってなかったよね。そりゃ、温厚なルカリオさんでも怒るだろう。分かる。
でも無理。
人前に出せる顔じゃないし、気持ちぐちゃぐちゃでかなりヤバい。要らん事まで口にしそうだから、無理。絶対に無理。
諦めて回れ右して戻ってください。
「むぅりぃ〜…」
いかん。涙が止まらない。ついでに鼻水も止まらない。顔が大洪水だ。今、絶対に不細工だ。
こんな顔を晒すとか有り得ない。無理無理。
ドアを挟んで向こう側にいるルカリオさんに諦めて欲しいと「むり」を連発するが相手も引き下がらない。
なんだ、この泥試合。こっちが負けてんだから引き下がってよ。レディファーストだろ。
終止符を打ったのは、カチっと鍵が開く音だった。開かないはずのドアが遠慮なく開き、その先にはマスターキーを持つマリアンヌさんが不敵な笑みを浮かべていた。
「痴話喧嘩ほどくだらないものはない。とっとっと話し合って解決したまえ」
そう言うと、片手で横にいたルカリオさんの背中を押しやる。たたらを踏んで転けそうになる彼を咄嗟に支えた。
「終わったら報告を忘れずに、な」
有無を言わさない迫力に思わずルカリオさんとコクコクと頷いてしまった。
迫力すげ…。
マリアンヌさんがドアを閉めると、部屋の中には女装中のルカリオさんとよれよれな私だけ。
「捕まえました」
ぽすんと何かに包まれる。
目の前には、見たことある生地と栗色の髪の毛。しかも温かくていい匂いがする。
「ぅぎゃう」
抱きしめられてると分かった瞬間に変な声が出た。
いや、もうちょい可愛い声は出ないのか。
待て待て。その前にこの体勢。背中にまで腕が回ってますよ。
ヤバイ、いい匂いがする。あ、この前お揃いで買った香水だ。いや、違う、そうじゃない。そこじゃない。
男の人に抱きしめられるとか、兄達に捕獲されて以来初では!?……は!いかん。この体勢では涙と鼻水がドレスに付いてしまう。
なんとか体勢をずらして、両手で顔を覆って俯く。これなら多分大丈夫。
抜け出そうとしたと思われたのか、背中に回った腕の力が強まった。
ふぎゃう。
待て。落ち着け。これは女装したルカリオさん。いや、もう、女性だと思えば……
「アンナさん。そのままでいいので、聞いてください」
無理ーー!!
聞こえる声は普通にルカリオさんだった。
ヤバイ。この体勢だと耳にダイレクトに声が届く。
聞くから、頼むから、離れて欲しい。
そんな言葉は声にならなくて、固まったまま彼が紡ぐ声を聞くしかなかった。
「確かに、求婚した時は貴女を愛しているわけじゃありませんでした。思惑があったのも否定しません。でも、誰でも良かった訳ではなくて、一緒に過ごして、貴女の人柄に好感を持って、熱烈な愛情が無くても共に過ごしても良いと……、すみません。こんな言い方は傲慢ですね」
ごめん。多分、私も似た事を考えてました。
「何を言っても言い訳になってしまいますが、私は、人生を共に歩むなら、貴女が良い」
ふぎゃっす!
な、何を言ってくれてんの!それ、断ったし!さっき、断ったじゃん!
ぎゅっと強く抱きしめられてから、そっと解放される。背中に回っていた手が滑るように私の腕を沿って手首まで到着する。顔を覆っていた両手を優しく外され、指先をきゅっと掴まれた。
ぼろぼろでくちゃぐちゃな顔なのに、ルカリオさんは泣きそうな微笑みを浮かべて真っ直ぐに見つめてくる。
その目が、視線が、明らかに前と違っていた。
「うそ……なんで…」
愛おしい。と、見つめてくる目が語っているようで、心臓が早鐘を打つ。
初めて向けられる熱にどうしていいか分からなくなる。
「恋って落ちるものなんですね」
初めて知りました。
と、微笑むその表情に見惚れた。
じわりと滲んだ目尻から涙がほろりと溢れる。
こんなの、嘘だ。私に向けられるはずなんて無いものなのに。
「貴女の泣き顔を見て、心臓が止まるかと思いました。こんな気持ちは初めてだったんです」
頬を染める美女に、私の顔も熱くなる。多分真っ赤なんじゃないだろうか。確認したくもないけど。
「貴女の強い眼差しから溢れる涙に、私の心臓は射抜かれてしまいました。あの時、思ってしまったんです。
『もっと泣かせたい』と……」
は?
予想外の言葉に涙も鼻水も引っ込んだ。人体って不思議。
それよりも、今、なんて言った?
「泣かせたい」って、誰が誰を?なんで?
追いつかない頭で言葉の意味を必死に読み解こうとするが、ルカリオさんの口から次々と理解不能な言葉が溢れ出す。
「普段とは違った様子に戸惑ったのかもしれないと思ったのですが、やはり何度思い直してもこの想いは変わらなかった。
アンナさん、貴女の泣き顔が、私を恋に落としたんです。
力強く生命力に溢れた目から溢れる涙がとても綺麗で、ずっと見ていたいような、拭ってあげたいような、こんな相反する気持ちは初めてです。それに、私が貴女を泣かせたという事実がとても嬉しかった。
すみません。酷い事を言っている自覚はあるのですが、貴女に嘘を吐きたくない。
貴女を私の手で泣かせたい。幸せや喜びの涙を流させて、私がそれを拭い取りたい。
私の手でぐちゃぐちゃに愛して泣かせてあげたい」
愛おしげに見つめてくる目は、確かに熱があった。愛おしいと訴える確かな甘い温度があった。
「決して悲しませたりしないと誓います。愛してます。貴女の涙を拭うのは私だけの特権にしてください」
かさつきのない少し硬い指先が私の目尻を優しく拭う。
とろりと甘い笑みに体温が急激に上がった気がした。
「だから、どうか、私に泣かされて?」
咽せるほど甘く、体中が沸騰しそうに熱く、どろりと巻き付く情欲。
無縁と思っていた甘い愛の言葉を囁く恋人。
だが、それは私が望んだものと微妙に違う気がした。