閑話2. 伯爵夫人は微笑む
姉視点のお話です。
陽が落ちて少し涼しくなった風が部屋の中に入り込み、読んでいた本のページをはらりとめくった。
数枚めくれていくページをぼんやりと見ていたカレンはため息を一つ吐いて本を閉じた。
最近、気を抜くとぼんやりとしてしまう事が増えた。
悪阻がようやく治ったと思ったら、今度は眠気が襲ってくる。
昼間はいいが、夕方になると疲れからか眠気がやってくるのだが、いざ寝ると眠りは浅く夜中に何度も目を覚ましてしまう。
夫に言えば過保護が悪化するのは目に見えているので相談はできない。
カレンが相談できる大人は少ない。
義母は5年前に亡くなった前クロイツェル伯爵が愛した領地で余生を過ごしたいと、今は領地で暮らしている為に不在。
実家の父や兄に相談する気にはなれず、義姉やマルムに相談するのも違う気がして、まだ妊娠の事実も伝えていない。アンナには伝えたので、そろそろ手紙で知らせなければとは思っている。
結局、相談できるのは出産を経験している友人ぐらいで、頼れるのは夫だけという非常に不安な日々を過ごしていた。
ナシエル様は妊娠を大層喜んでくれたが、悪阻でぐったりしていた様子が未だに忘れられないのか、カレンは最近まで軽い軟禁状態になっていた。
友人と会う事はおろか屋敷の外に出る事さえ許可されなかった。
聖ウルシアス祭の夜会は、本当に久々の外出だったのだ。それも最初からの参加は許可されず後半からの参加になったが、おかげで帰り際に妹に会えたのだから行けて良かったと思う。
2年振りに出会った妹は、昔よりも大人びて見えた。
ドレスは上等な物で化粧で別人の様にも見えたが、目が合った瞬間にアンナだと分かった。
しかも横にいたのはガルシアン伯爵の三男。
彼があのドレスを贈ったとしても経済的に不思議では無いけれど、アンナに似合うかと言えばちょっと違う気がする。
あのドレスを本気で選んだのならば、アンナとの交際に一言二言……いや、数時間ばかり話し合いをしたいところだ。
アンナが言った事を信じるならば、仕事で知り合った知人らしい。
女好きのベネディクト子爵ならばまだ分かるが、王宮侍女のあの子と外務官のルカリオ・ガルシアンとの接点が思いつかない。
侍女ならば遣いなどで執務宮を訪れる事はあるかもしれないが 、それもしっくりこない。
もう一つ懸念がある。
友人から聞いたのだが、今の王宮侍女長はカンドリー伯爵の妹サリバン・カンドリーらしいという事。
「厄介ね…」
カンドリー伯爵の娘はナシエル様に一目惚れして、かなり果敢にアピールをしていたのだが、ナシエル様は全く眼中になく私に『真実の愛』を捧げてしまった。
あの告白後は、夜会で見かける度にこちらを睨んでくるので困っている。隣にいるナシエル様は全く気がついてない。そういう感情に鈍いところが、ある意味羨ましいようでもあり心配でもある。
その令嬢の叔母が王宮侍女長。
それとなくアンナに仕事の話を振ってみたが「大丈夫。ちゃんとやれてるよ」と言われてしまえばそれ以上聞けるはずもない。
こちらでもなんとか情報収集をしなければならないわね。
できるならばお茶会などに出席できると良いのだけれど、難しいわね。
どうしようかと思案をしているとドアがノックされ、侍女がナシエル様の帰宅を知らせてくれた。
カレンは返事を返すと、本を片付ける為に立ち上がった。
本来ならお迎えに出るところなのだが、朝のお見送りさえも禁止されている。そのくらいは歩きたいのだけれど、お腹にいるのは後継かもしれない第一子なのだから仕方ないと諦めて受け入れる事にした。
程なくして、ドアがノックと共に開いた。
ノックの意味がないと思うが、何度言っても治らないので諦めている。もう治す気はないのかもしれない。
「ただいま、私の奥さん。愛しのカレン」
ナシエル様はにっこりと笑って小さな花束を渡し、頰と額にキスをする。
オレンジと白のガーベラの花束は可愛らしく、お礼を伝えれば嬉しそうに微笑んでくれた。流れるようにエスコートされて、ソファに共に座る。
「体調は良さそうだね。顔色が良い」
「ええ。久しぶりに妹に会えましたもの。楽しかったですわ」
貴方にした悪戯の数々も教えてもらったもの。
思わずお説教をしてしまったけど、笑うのを堪えるのに必死だったのよ。
ナシエル様は格好をつけたがる方だから、馬糞に足を突っ込んだり、ヤギに服の裾を噛まれて慌てる姿を見てみたかったわ。
酢入りの紅茶を飲んだ時の顔は未だに忘れられない。
思い出し笑いをしてしまった私の頭をナシエル様が優しく撫で下ろし、一房掴んで毛先にキスを落としたままふっと笑った。
「愛しい君にそんな顔せるなんて、妬けるな」
「まぁ。妹ですわよ?」
「私は存外心が狭いのかもしれない。君の家族にも嫉妬してしまいそうだ」
ここは感激しなければいけない場面かしら。それとも愛を囁き返す場面かしら。
考えるのも馬鹿馬鹿しくて、曖昧に濁しておこうと微笑んでおいた。
しかし続いた言葉に眉をしかめてしまう。
「しかし、君の妹はもう少し自立した方がいいんじゃないか?」
「どういう事ですか?」
「君に泣いて縋っていたらしいじゃないか。もういい年なんだから、身重の君に負担にならないように気をつけて欲しいね」
私を心配しての発言なんでしょうが、少し…いえ、かなり腹が立ってしまうのは仕方ないわよね。
アンナが私の妊娠を知ったのは帰り際だし、泣いて縋ってきたわけでもないわ。それにいい年なんて、いい年の貴方がおっしゃる言葉ですか?
会話は聞かれて無いようだけど、遠くから使用人が見張って……いえ、見守っていたのね。
………それは、それは、全くもって、愉快ではありませんわね。
「私は君がこれ以上家族の犠牲になるのは耐えられないよ」
「犠牲……」
「ああ。母君がいなくなって、君が皆の母となり姉となり娘となって家族を支えてきた事は知っているが、もう自由になってもいいんじゃないだろうか。いや、自由になるべきだ。そして幸せになるべきだよ」
真摯に熱弁を奮うナシエル様には本当に悪いと思うのですが、危うく舌打ちするところでしたわ。
余計なお世話でしてよ。
こういう、自分は何でも分かってますと言うか、さも私も同じ考えだと信じていらっしゃるところは、本当に理解できませんわ。
犠牲だなんて思った事もないのに、私の何を知ってそういう考えに至ったのかしら。
私の幸せは私が決めますわ。
本当に不愉快。
ああ、ダメね。妊娠中は気持ちが不安定と聞いたけれど、本当にそうだわ。
私が如何に大変だったか、ナシエル様がその事にどれだけ憂いたのかと言う話を流し聞きしながら、テーブルに置いていた箱を開けて中身を一枚摘む。
「何も縁を切れと言っているわけじゃないよ。ただ、距離を置いて君は君の幸せをーー」
「はい。あーん」
自論を熱弁するその口にアンナが作ったクッキーを一枚突っ込む。
口に入った物をもぐもぐと咀嚼する度に顔色が悪くなり口元に手を当てるのを見計らって、にっこりと微笑む。
「手作りのクッキーですの。ナシエル様のお身体を考えて薬草を少し入れてみたのですが……お口に合いませんでしたか?」
不安気に上目遣いで訊ねると、ぶんぶんと首を横に振る。
ほっと安心して微笑み、私の名前を言いかけたその口に二枚目をグッと押し込む。
「良かった。食べてくださって嬉しいわ」
涙目で懸命に飲み込もうとする姿に、少しだけ溜飲が下がりましたわ。
残念ながらお茶はありませんの。よく噛んで飲み込んでくださいませ。
口を開けた隙にクッキーを放り込みながら、ナシエル様に話しかけた。
「母がおらず、大変な事はありました。ですが、その事で家族を負担に思った事はございません。まだ私も若くて出来ない事ばかりなのに、父は頑張らなくて良いと諭し、兄弟で支え合ったあの日々は何よりも大切な宝ですわ」
母の事で落ち込む父を何とかしてあげたいと、兄弟で知恵を出し体を動かし懸命だったあの日々。
金銭的に厳しく貧乏だったが、家族の絆はより深まったのではないかと思う。
「特に妹はいつも私を『尊敬する姉』だと自慢してくれていました。それがとても誇らしかったのですわ。あの子の前では自慢の姉でいたいのです」
いつもキラキラと見上げてくるあの瞳に無様な姿を映したくなかった。
「父も兄弟たちもとても大切な存在で、貴方様と同じくらい大切なのです。それでも、疲れてしまう事はありますわ。その時はナシエル様が癒してくださいませ」
「カレン……」
瞳を潤ませ、少し復活したナシエル様が顔を近づけてくる。
少し開いたお口から例えようのない臭いが漏れてるので、蓋をする様に新しいクッキーを入れて差し上げました。
その口とキスは無理ですわ。
それに、さっきの発言には怒ってますのよ。
さあ、クッキーはまだまだ残ってましてよ?
◆ ◆ ◆
どこかの恋愛脳な方々のせいで国や経済が混迷して地方はその煽りをくって大変な時期がありました。
我が家も例外なく大変な時期で、父は兄を連れて領地を駆け回り、私も執事を連れて名代として領民の陳情書を受け取ったり視察に行ったりと皆が忙しかった日々が続いていたのです。
皆が忙しく出払っていて、屋敷には母と妹しかいなかった、あの日。
静かな屋敷で1人呆然と座り込んでいた幼い妹の姿が忘れられない。
どうして一緒にいてあげなかったのか。あの子の心に傷を残したあの日の事を後悔しない日はなかった。
「お姉ちゃんは、今、幸せ?」
どこか不安気に問いかけた妹を安心させる為に微笑む。
「そうね。可愛い妹がたまに遊びに来てくれたら、もっと幸せよ」
素直な妹は私の返事に誤魔化されてくれる。
伯爵と『真実の愛』で結ばれた私は、世間一般から見れば幸運で幸せな令嬢だと言われている。
『真実の愛』だから幸せ?そんな夢物語の主人公みたいな訳ないじゃない。
ナシエル様はそれを信じてるみたいだけど、私に言わせれば互いの努力だと思うわ。
嫌な事を改善してもらえる様に伝えたり、受け入れたり、嬉しい事や楽しい事も話したりして共有したりね。
他人が一緒に暮らすのですもの、何もかも受け入れられるのは無理だわ。
ナシエル様の事、何をかも差し置いて一番愛しているわけではないの。
愛し過ぎず。
嫌い過ぎず。
そのくらいでいいわ。少し足りないくらいでいいの。
物語の様な燃える恋なんて要らないわ。
自分たちの幸せだけを追い求めて、どれだけ周囲に迷惑を振りまいているかも分からないようなそんな無様な恋なんて要らないの。
だから、私には貴方が丁度良い。
「ねぇ、アンナ。『真実の愛』を声高々に謳う女の8割は嘘つきで、『真実の愛』に夢を見る男の8割はナルシストだと思わない?」
「8割なんだね」
「1割ぐらい本物があるかもしれないわよ?」
「どうだか。それで、伯爵は8割?1割?」
「さあ…どうかしら」
あの人がどちらかは、ゆっくりと知ればいいわ。
ナルシストもそんなに嫌いではないのよ?
多少面倒だとは思うけれど。
だから、ナシエル様。貴方を嫌いにさせないでね。
私も愛されるように努力しますから。
「ナシエル様。はい、あーん♪」
カレンは夫に文句言ってますが、嫌悪していません。同じ温度で愛してないだけです。
質問【アンナのクッキーは食べないんですか?】
カレン「世の中には愛はあっても出来る事と出来ない事がありますのよ?」
※ クッキーはナシエルが責任を持って食しました。