閑話1. 男爵は神に祈る
実家の男爵家の話です。
ぶもぉ〜。と牛の鳴き声を背中に、ロットマン男爵は額の汗をタオルで拭った。
牛舎から出ればもう陽が高い。
「お疲れでした」
「いやー、難産でしたな」
「無事に産まれて良かった、良かった」
同じく牛舎から出てきた人達も汗を拭ったり、凝った腰を叩いたりして互いを労わる。
昨夜から続いた牛の出産は朝を越えて昼前にやっと終わった。
背後の牛舎では母牛が生まれたばかりの仔牛の世話をしている事だろう。
牛を育てて売る繁殖農家のコルドから、昼食を誘われたがそれを断って屋敷に帰る事を告げれば、惜しまれながらも土産にと新鮮な野菜や卵を渡された。
礼を伝えて屋敷に帰れば、迎えに出てくれたマルムに頂いた野菜などを渡し、風呂へと直行する。
一晩中牛舎にいたせいか家畜の臭いが染み付いている気がした。
汗と土や埃で汚れていた体をさっと洗い流し、アンナが土産にくれた石鹸を使って体を洗っていく。柑橘系の爽やかな香りの石鹸は泡立ちも良く重宝している。
最初はこんなおじさんがこんな洒落た石鹸を使っていいものかと躊躇ったが、愛娘の気遣いを無碍にする事はできずに愛用している。
誰にも言った事はないがお気に入りだ。
身も心もサッパリとさせて執務室へと向かえば、長男のゲイルが書類から顔を上げた。
「お帰り。無事に産まれた?」
「ちょっと難産だったけどね。昼前に産まれたよ」
「カインがいたなら手伝いに行けたんだけどな。まさか足止めくらって帰ってこれないとは思わなかった」
「天気はどうしようもないからね。次は行けるといいね。やはり経験に勝る物はないよ」
ロットマン男爵は、領地に畜産を営む農民が多いせいか獣医の資格も持っている。
あれば便利なので嫡男のゲイルも取得している。
ちゃんと獣医もいるのだが、獣医の仕事が重なった時や緊急の時は男爵に声がかかる事も多い。
要請すれば駆けつけてくれる気さくな男爵は、領民にとても親しまれていた。
「旦那様。お嬢様から荷物が届いております」
執事のショーンが男爵の執務机の上に置かれた箱を指し示す。
箱を開けると一番上に置かれた手紙を取り上げ、執事に差し出されたペーパーナイフで封を切ると手紙を読み始める。
読み進めるたびに嬉しそうに目が細められる主人をショーンはにこやかに見守った。
「アンナからのプレゼントだ。午後のお茶の時にみんなで食べよう」
綺麗なリボンで飾られた箱を執事に渡す。中身は最近王都で流行り始めた焼き菓子らしい。
次に簡素に包装された小さな包みを取り出して、これも執事へと差出す。
「これはいつものように」
「かしこまりました」
ショーンはその包みを両手で受け取り、部屋を出た。
「読むかい?」と差し出された手紙を一読したゲイルが呆れた声を出した。
「いつもの倍じゃないか。臨時収入って、何やってるんだあいつは…」
「あの子の事だから、変な仕事ではないと思うよ。それより、こんなに送ってきて、ちゃんと食べてるのかな」
「そこは大丈夫だって。『王宮侍女は三食寝床付き!きゃっふー!』って喜んでたからな」
「無理してないといいけどね」
「俺は無理よりも無茶をしてないかが心配だけどな」
誰かに迷惑をかけてませんように。と、ゲイルは聖句を唱えて神に祈る。
それを見た男爵も苦笑いを浮かべて「本当だね。元気でいてくれればそれだけでいいよ」と同じように聖句を唱えて神に祈った。
お互いにアンナの為に祈っているのだが内容が微妙に違っている。
「送った金が全く使われてないって知ったら怒り狂うだろうな」
「それでも、使う気はないよ。あの子が頑張って貯めたお金だからね」
男爵は微笑み、手紙を綺麗に折りたたむと机の引き出しに仕舞い込んだ。
ゲイルは、愛おしそうに目を細める父親から書きかけの書類へと視線を戻した。
前回の帰省の折、アンナから馬車が揺れて寝れないから大通りだけでいいから道を平にしろと煩く訴えていた件の予算案だ。しかし、大通りだけだとしてもかなりの高額になる。いつかはやりたいと思っているが、それよりも他に優先する事案がある。
やはり見送りだな。次の帰省でも煩く言うであろう妹を想像し、ため息と共に保留の箱へと入れた。
侍女として働き始めたアンナから定期的に仕送りが届くようになった。
『美味しい物を食べて』だの『食堂の扉を直して』だの『たまには服を仕立てて』だの小言付きの手紙と共に届くお金を父親はお礼と共に受け取り、手をつける事なく全て貯めている。
いずれ嫁ぐ時に持たせてやるのだと言って。
伯爵家に嫁いだ長女に無理して多目の持参金を持たせた事でアンナに気を使わせてしまったと、父親は未だに気にしている。
ゲイルとしては王宮に上がる日に『そこそこの金持ちイケメン捜してくるわ!』と意気揚々と出かけて行ったアンナはたぶん全く気にしてないと思っている。
「結婚ねぇ。………できんのか…」
なんだかんだ言おうとも妹なのだから幸せになってもらいたい気持ちはあるが、あの性格とたまに斜め上な方向へ行ってしまう行動力を考えると、結婚相手など想像でも思い浮かばない。
蓼食う虫も好き好きと言うし、あの妹を受け入れられるような懐の深い御仁がどこかにいるのかもしれない。
ましてや王都は人が多いし、王宮ならば色んな人と出会う事もあるだろう。
その中に1人ぐらいは物好きがいるかもしれない。
遠い目で王都にいる妹を想い、もう一度聖句を唱えて祈った。
どうか妹にまともな彼氏ができますように。
父親よりも長男の方が、小さい頃から面倒を見ていた分 妹をよく分かっている感じ。
仕送りのお金は音がならないようにタオルなどに巻いて送ってます。貴重品を送る宅配便がありますが、制度とか仕組みとか書く様な本格的異世界話ではないのでふんわりとお考えください。