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エピローグ

 長い夢を見ていたせいか、状況把握に時間がかかった。節々を繋ぐ回路に異常はなく、翼という個体は再び生を受ける。体勢は仰臥ぎょうが。無機質な天井が見える。今は何時なのだろうと見当識が働き始めたとき、印象的な白が視界の隅からひょっこり顔を出した。


「あっ、起きたっ。ツーちゃんのお寝坊さんっ」


 アルビノ特有の紅の瞳が翼の顔を覗き込む。顔色は良く、ほんのりと朱に染まった頬がなんとも愛らしい。表情からも覇気が見られ、若いみずみずしさを全身にまとっている少女はあどけなく微笑んだ。

 翼は目の前の少女の名前を呼ぶことができなかった。忘れた試しはないというのに、音にするのがはばかられた。だからこそ、翼は目で見て、耳で声を聞き、手で触れて対象を認識する。ぺたぺたと触れられて、「んー?」と首を傾げる少女のかたわら、様々な感情が濁流となって襲ってきた。


「ツーちゃん?」

「このままでいさせてくれ……」


 情報処理を終える前に、翼は少女をきつく抱きしめた。

 嘘(空音)と名付けられた少女は死んだのではなかったのか。引き金を引いた手が無意識に震え、訴えかけてくる。目の前にいる少女が空音であるはずがない。身に刻まれた恐怖も証明している。

 いや、と途中で頭を切り替える。内部から湧き出たものを制し、外部から得られるものに心を移す。削ぎ落とされて残った、三つの感覚から導き出された答えは――。


「空音」


 硬い発音に乗せられた感情は柔らかい。名前を呼ぶごとに、翼の中で何かがざわつく。腕の中に収めた少女の顔は、すべてをやり遂げた安らぎではなく、中心から溢れ出る熱に包まれている。触れていると温かい。胸元からはとくんとくんと命を感じる。


「今度はお前を捕まえる。だからお前も強く生きてくれ」

「ぽよ? うんっ、強く生きるね!」


 強く生きるってどういうことかな、と空音は胸に手をあてて自問自答する。

 そんな彼女の様子に安堵し、翼は名残惜しくも腕を離した。


「遅いお目覚めですね、翼さん」

「……っ、いたのか、木花」

「いーまーしーたーよ。起動後すぐ空音さんに抱きつくんですから……。まあいいでしょう。声をかけるタイミングも見つかりましたし」


 椅子に座っていた木花は腰を持ち上げて、翼が横になっている寝台に近付く。すねすねしい口調でありながらも、目つきは鋭く、どんなかげりも見逃さない。


「とても情熱的な抱擁でしたが、悪い夢でも見ましたか?」


 木花に声をかけられるまで、翼が彼女の存在に気付けなかったのは事実。木花の顔を直視できず、翼はきまりが悪そうに髪をいじる。いたずらに視線を向けた先に、電源のついたディスプレイがあった。なんだろうと目を凝らした刹那、一人の少女の姿が画面に映った。ニヒルな笑みは腹立たしく、マフラーぐらいでは隠せられない。目が合ったのは考えすぎだろうかと、もう一度注意を向ける頃には少女の姿はなかった。


「……ああ、悪い夢を見ていた」

「悪い夢を見たらね、忘れちゃうのが一番ぽよ!」


 翼の呟きを聞き逃さずに空音は言った。


「そうだな……」


 一度目覚めたくらいで、忘れられる夢ではなかった。これから万が一、再び夢を見るようなことがあっても、上塗りされないほど強烈で辛辣で色濃い。気を強く保たなければ、あの喪失感が蘇ってくる。作り物の目はありのままの色を写しているはずなのに、青の衝撃に飲まれていきそうだ。本当に今見えているものが真実なのだろうかと思案しつつ、右手で左手首を軽く握った。


「どーしたの? 左手痛い?」

「違うんだ。気にしないでくれ」


 空音を撃った手を野放しにできなかった。何か目的を与えて、自由を奪わなければいけない気がした。


「大丈夫だ、次は失敗しない」


 木花の顔を伺ってみると、なにやら満足気な表情をしていた。翼が空音を連れてきた日のような、驚きよりも興味深さが勝った顔だ。またなにやらきょうなことを考えているのかもしれない。言うなら今か。


「木花、あとで相談したいことがある。いつならいい」

「ほー? 相談事ですか。あの翼さんが。珍しいですね。連絡くだされば時間作ります。くれぐれもレディーを待たせないでくださいね」

「レディーとはお前のことか?」

「まさか。私はしがない探究者ですよ」


 正常に起動しているか木花のテストを受けたところ、別段異常は見受けられなかった。ただ木花は何かに気付き、「機械は面白い」と独り言の回数を増やしていた。

 点検から解放されたときにはもう、夢心地は失われていた。翼は何度も往復した通路を歩き、四年も空音と過ごした部屋の前に立つ。明日には飛行警備隊の寮に移る。この部屋には当分帰らないだろう。発つ準備はできていた。翼はたいした荷物もなく、体一つで行く予定であった。木花には月一で研究所に寄りなさいと言われている。


「ツーちゃん、おかえりー」


 空音は一足先に戻り、部屋で本を読んでいた。内容は太陽を目指して焼け死んだ鳥の話だ。これからのことを考えると不謹慎な内容ではあるが、空音はこの童話を気に入り何度も読み返していた。醜いと罵られながらも、太陽を目指して飛んだ夜鷹は美しかった。夜鷹のどこが醜いのか、空音は何度も翼と木花に問いかけた。醜いアヒルの子という言葉もわからず、翼は頻繁に質問攻めにされた。空音は様々なことを根のように吸収している。吸収したものは体をめぐり、全身に行き渡る。そして体と心は満たされていく。知識に制限をかけようとしても、空音は想像を超えていく。


「ねぇねぇ、明日だよね?」


 空音の確認に翼は頷く。


「明日から空音もまほーしょうじょ!」


 椅子から飛び立って、空音は手を広げて翼の周りをぐるぐる回る。てとてとという小さな歩幅と大きな野望は砕けることを知らず、幾度も磨かれた瞳には曇り一つない。無邪気な少女は恐れを知らない。そんな彼女を愚者だと人々は嗤うだろうか。


「今日は久しぶりに星空を作ろうか」

「うんっ」


 寝る前に二人は部屋の天井をプラネタリウムに変える。テーブルを移動させ、床に寝転んで。暗い天井に瞬く小さな光を繋ぎあわせ、空音は喜びの声を上げる。


「そうだ。どうして忘れていたんだ――」


 はしゃぐ空音を目にし、翼の頭にとある考えが浮かぶ。夢へ至る道は完全に途絶えてはいなかった。夢をつかむために、夢を見ていくために、現状を甘んじて受けるだけではあの夢の再来となってしまう。藍色に染まった幻の中で、数多の可能性を感じてきた。あのときこうすればよかったという後悔とともに、自分という存在の再確認を行えた。


「空音」


 語りかけるような神妙な声に、空音はごろんと体勢を変えた。空音の小さな手はゆるく握られ、猫の手のように指先が丸まっている。


「お前は魔法少女になったら何をしたい?」

「お空飛びたいぽよ!」

「空を飛んで何したい? どこか、行きたいところはあるか」


 空、と答えそうになっていた空音に、翼は首を振ってみせる。


「えっ……うーんと、うーん…………むぅ」


 天井に目を泳がせて、空音は頭をぐるぐるさせる。一つ一つの星座を目で追っても思い浮かばず、うんうん唸り続ける。


「魔法少女になって、空を飛ぶことがお前の到着点ではないだろう? きっと、お前は本物の空を見たいと思い始める。私はそんなお前を、お前だからこそ応援したい。見ていてくれ、空音。私は諦めない。お前の夢を後追いしながら、自分の夢をも探していきたい」

「ツーちゃん……?」

「なあ、他にもやりたいことあるか?」

「魔法少女以外にやりたいこと……?」


 安らかな沈黙は苦しくない。空音が話しだすまで、星座の名前を検索しながら翼は待った。どの星座にも物語がある。それは人が勝手に決めたものではあるけれど、かつてから人々を虜にしてきた証でもある。


「がっこ……。学校に行ってみたい。学校には空音みたいな子がいーっぱいいるんだって。絶対楽しいよねっ! お友達もいっぱい作りたいなぁ」

「できるさ、友達。友達以外にも、たくさん大切なものができる」

「ほんとー?」

「本当か嘘になるかは、空音次第だよ」


 寝っ転がったまま、翼は空音の手をとった。手をつないで二人は語り合い、同じ夢を見るまで眠る。






 空へ飛び立つ夢を見た。蓋をこじ開けて、その先にある世界を見た。

 空へ飛び立つ夢を見た。夢と引き換えに差し出したのは、これからさらに続くはずであった夢であった。

 あの空にまで飛んでいきたい。魔法少女になったら、どこまでも飛んでいけると思っていた。

 でも現実はそんなことなく、あの空までいけることはなく、ただ地面の餌をつつく鳥のようなもの。

 羽ばたきたい。禁じられたあの空まで――。


 空へ飛び立つ夢を見る。さあもう一度、地面を蹴りあげ空へと舞い上がる。






2015/12/13 完結

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