第二十三話
幼い頃に、自分にかけた魔法は解かれてしまった。変わらない現実から目をそらそうとし、白い翼に小さな傷が刻まれていく。抜けていく羽も、傷ついていく翼も、本人にはどうにもできない。たとえ満身創痍になったとしても、少女は自分に出せる精一杯で空を駆け抜ける。彼女に追いつけたのは黒い翼を宿したくろうと、たった一人。
翼は空音の姿を見失うことなく、手を伸ばす。距離は開いているというのに、四年も同じ時間を過ごしてきた少女の声は耳元で鳴っているようだった。
「……どこで間違っちゃったのかな……」
くたびれて空音は減速していく。くすんだ真紅の瞳に希望の光は映らず、一粒一粒こぼれていく滴がさらに視界をにじませ、方途を見失う。
「魔法少女になったとき? じいじが死んじゃって、一人ぼっちになったとき? じいじに預けられたとき? ガラスの中で生まれたとき? 子供は親を選べないのに? 生まれ方を選ぶこともできないのに?」
空音は勢いよく振り返る。
「教えてよツーちゃん! 空音はツーちゃんと一緒にいたいから頑張ったのに、ツーちゃんはなんで、なんでッ! 夢を終わりにしようなんて言うの!?
……初めてじいじが見せてくれた写真が……空、だったぽよ。言葉も忘れるぐらい綺麗だった……何日も何日も見続けちゃって、じいじにご飯はちゃんと食べなさいって怒られちゃった。空音は多分、そのときに『好き』を知ったぽよ。じいじが目をさまさなくなって、どうすればいいのかわからなくなって、魔法少女なら空音も役に立てられると思った。子供でもなれるってじいじが言ってたもん。だから……」
数秒遅れてやってきた翼に、空音は昔を懐かしんで笑顔を作る。
「魔法少女になりたい……それしか言えなかった空音を拾ってくれたのは、ツーちゃんだったね。立札っていえないものに『まほーしょーじょにさせてください』って書いて。……空音、覚えてるぽよ。それからの日々も、今日までの日々も。
ねぇっ、こんなに好きなのに……! 外に出ちゃいけないの? ツーちゃんは空音のこと哀れだって思ってたのかな? 一緒に見に行こうっていうのも、ご機嫌取りの嘘だったのかな……」
「空音、違うぞ。私はそういう風に思ったことなど一度もない。アンドロイドとして生まれた私を、人間社会に引き入れたのは他でもないお前だよ、空音。私はお前を家族のように思っていた。血の繋がりなんて知らないが、家族とはこういうことなのかと知ることができた。空音は私にとって大切な家族なんだ。
――だから、早まらないでくれ」
「いい……聞きたくない。空音には……空だけで十分ぽよ……」
遅かった、遅かった。翼が時間をかけてしまったせいで、空音の凝り固まった心を動かすには、いや漠然としてしまった心に命を吹き返すことは、もはや叶わない。
「ありがとね、ツーちゃん。ツーちゃんのおかげで、空音さみしくなかった」
愛想笑いを浮かべて、空音は飛行機械一式の出力を最大にまで引き上げた。噴き出すような金切り声を上げ続け、機械は己の運命を悟る。高出力を出せるほど頑丈には作られていない。耐久力を削り、空音は視界を覆う霞をかき分けるようにして加速し始めた。
狙いは天蓋、その天頂。
空音の狙いに気付き、翼は直ちに加速体勢をとる。
「邪魔しないでツーちゃん!」
その一言がなければ、翼は今頃空音を捕まえていただろう。
空音は泣き叫びながら、耳をつんざく爆発音とともに天蓋に衝突した。黒い煙が立ち込める中、翼の「空音」という叫び声だけが確かなものとして響く。
硬い天蓋に穴が空いた。
肉体を守り、力の向上を助ける魔法少女のパワードスーツと、幸運というスパイスが上手く働いた結果だった。そしてなによりも、空音の訴えが天蓋にまで届いたのだ。
夢にまで見た光景との対面で、感極まった空音は息を詰まらせた。
「これが、空――」
穴が空いた傘の奥に見えた光は青かった。ビー玉よりも済んだ青色で、写真よりも淡く見える光は遥か彼方に続いている。青色の絵の具はドロドロしているが、眼前の空はクレヨンを転がして描いた彩りだった。
この一瞬のために生きてきたのだと、空音の目が光輝く。思い返せばこの日を待ち望んで早四年。天蓋の向こうを知った今日に。たとえ天蓋が人間を守るために作られたとしても、これまで我慢できなかった。写真の中に現実を求めて、写真の中に夢を求めて、いつだと確約されない日を身を砕いて辛抱していた。
衝撃で翼が壊れてしまったのか、空音は空に留まれずに下降していく。天蓋の外に出られそうだというのに天蓋内へ吸い込まれていく。
手を伸ばしても空に触れることはできなかった。雲をつかむこともできず、だんだんと空から遠ざかっていく。
空を飛びたいと思ったのは空を近い場所で見たかったから。現在人間用飛行装備は飛行警備隊魔法少女が有する最先端技術であり、おいそれと一般人が手に入れられるものではない。
魔法少女になりたいと願ったのは空を見たかったから。空を見られる方法が他にもあるならば、訓練までして魔法少女入隊試験を受けなかった。
「――あ」
プス、と何かが空音の眉間を撃ち抜いた。同時に制御を失い、空音は墜落する。速度を出しすぎた代償として、両翼といった装甲が剥がれ落ちては光となってボロボロに砕け散りゆく。
落下していた空音を、翼は優しく抱きしめた。右腰のガンホルダーは重く、一丁の拳銃にはまだ煙が漂っている。近辺で最も高い建物の屋根の上に空音をゆっくり降ろし、ピピピと通信機を操作して、翼は重い口を開いた。
「天蓋への破壊行為により、空音二級魔法少女を射殺しました」
『ご苦労様でした。辛かったでしょう。遺体はこちらで引き取りましょうか?』
辛かっただと?
自分の立場を思い出し、翼は怒り混じりの反論を胸先三寸に収めた。
「……埋葬は私にやらせてください」
『了解しました。終わり次第通常業務に戻りなさい』
通信が途切れると、翼は空音の遺体に覆いかぶさるようにして慟哭し始めた。高い場所を選んだため、鳥以外には聞かれていない。
翼の手によって撃ち抜かれた空音は、死ぬ間際に幸せそうな顔をしていた。今まで浮かべていた笑顔とは違うそれを見て、なんてことをしてしまったのだと翼は手を震わせる。
この手で空音を撃った。撃ってしまった。この手がなければ、狙撃せよという命令は下されなかっただろうか。この知能がなければ、空音を追い詰めることもなかったのだろうか。ただ空を飛ぶ"からっぽ"になれたのだろうか。
相手の感情を予想しようと思い悩んでしまうぐらいならば、直接聞くべきだったのだ。回りくどいことをせず、向き合うべきだった。
九藍の言葉を思い出し、翼の懊悩は極まった。空音が死んだのは自分のせい。安直な考えが毒のように体を蝕んだ。
どこで間違えてしまったのだろう。どこからならばやり直せたのだろう。人生は一度きりだというのに、空音は一人しかいないというのに、彼女の声を聞きたくてたまらない。顔を見せて、もう一度笑ってほしい。
空音の頭を愛おしく撫でようと、血の気を失った体はピクリともしない。
世界が壊れていく。
何分割にもされた視界は歪み、聞こえてくる音を騒々しく感じ、自身の手が動いているのかもわからなくなり、感覚が麻痺していく。空音が戻ってくるというならば何をしたっていい。彼女が心を教えてくれた。ならば彼女がいない世界に心はいらない。かつてのように鈍な木偶の坊に戻ってしまおう。
メモリーチップは首の後ろにあったはずだと、翼は手を伸ばす。髪をかきあげて探すも、丁寧に閉じられているせいか開けられそうにない。叩こうとしても肘の可動域ぎりぎりで、力の加減を誤る可能性もあった。
魔法少女は夢を見た。人間になり、人と心を通わせる夢を。自分は人間になれるという驕りに溺れ、機械は己にしかできないことを忘れてしまった。己にしか許されていないことも忘れてしまった。
現実は枕元までやってきている。夢は終わりだ。
2016/01/26 挿絵追加




