第二十一話
寂しさを引き立たせる夕陽を背にして、藍色の少女が佇んでいる。背筋はまっすぐ伸びているというのに、彼女から受ける印象は尖った凜でなく、薄い雲だった。今にも透けて、向こう側が見えそうだ。人から遙か遠いところにあり、手ではつかめず、いくら望んでも人の世には降りてこない。まさしく雲のような魔法少女。
「うぬ、待っていた。僕を呼んでくれたこと、光栄に思う」
人工風にスカートをそよがせ、九藍は目を細める。翼の来訪を予想していたかのように落ち着き払い、感情の振れ幅を一切感じさせない。焦りさえも、奮起さえも、どこ吹く風と通り抜けていく。
視線がかちあった瞬間、九藍の瞳の奥に宿っているほの暗い何かに、翼は一瞬身動きがとれなくなった。
屋根の上を伝い歩き、翼と距離を詰めていく九藍。屋根も木も自分の足場であると言いたげな彼女の姿に、翼は己の処理を超えた「未知なるもの」の息吹を見いだした。動かない足、思考には削除キー。体と心が分離するという感覚を、生まれて初めて翼は経験した。
「どうしたんだい? 顔色が悪い。……ああ。君は"色"だけは変わらないんだったね。あまりにも人間らしく作られているから、ついつい忘れてしまいそうになる」
薄ら笑いを浮かべる九藍に、翼はすかさず銃口を向ける。一度体が動いてしまえば、恐怖なんて空の彼方に吹っ飛んでしまった。
凶器を目にしても九藍の態度に変化はない。風が通り抜けていくような表情で、顎を上げ、翼を質している。存在感は希薄だというのに、藍色の瞳からは渾渾と湧き出る意志が感じられる。人形の瞳だけがつややかであるように、そこだけが異質だ。
「お前はなんなんだ? 見ていて気持ち悪い。お前は本当にそこにいるのか?」
「いるといえばいるし、いないといえばいない」
「またお前のお得意な謎かけか」
「人間の所在は、肉体と精神……どちらが裏付けてくれるかな。肉体だけしかない人は在ると言えるだろうか。精神だけしかない人はそこに居ると言えるだろうか。人間と機械をわける基準が"心"であるならば、君は今、そこにいるのかな。心をなくしてしまえば君はそこにいないことにならないかい?」
「そんなでたらめな理論を作ってまで、私が機械であることを強調したいのか」
「うぬ。君を引き合いに出した方が理解しやすいだろうからね。……だって僕らは真逆(、、)だから」
音もなく九藍は翼に肉薄し、体をひねって翼に回し蹴りを叩き込む。かわされたと知るや否や、直ちに体勢を立て直し、次の一手と繋げるために深く踏み込んだ。
先程の要領で翼は回避しようとするも、九藍が近すぎるために逃げ場所を見つけられない。強烈な一撃を受け、衝撃で翼は足下をふらつかせる。
「逃げられないならば、相打ち覚悟で挑んでくるべきだったね」
九藍はどこか冷めた目で翼を見下ろす。
「期待はずれだったか? 九藍。私がお前の思い通りに動くと思うな」
躊躇といった制限は翼の心にかからなかった。やられたからやりかえす。そんな単純な思考で、翼は九藍を捕まえようと速度を上げる。驚くことに、人が出せるスピード以上になっても、翼は九藍に触れることすら叶わなかった。こちらの行動を寸分の狂いなく予測しているかのような身のこなし。そして九藍の方が速度でも上回っているように見えるのは気のせいか。
「……ふふっ、想定外はつきものだ。ほらほら、僕を倒せないと、君の天使を追いかけに行けないよ? 手段を選ぶ暇なんてあるかな? 力ずくで僕を踏み倒していけ」
「空音は天使ではないッ」
威勢のよい叫びを上げようと、虚しく響くだけだった。
あらゆる方向に活路を見出そうとしても、藍色の魔法少女が巍然と立ちふさがる。上下左右不規則に進み抜けようとしても、翼の思考は九藍に筒抜けだった。
「ははっ、次は上かな」
飛行中である翼に、九藍が突撃していく。まさに捨て身の行為。九藍の左足の蹴り上げは翼の腹部に命中し、その衝撃で翼の電子回路はショートしそうになっていた。翼が無防備になった隙を嘲笑い、九藍は助走をつけて、翼を上から蹴り落とす。
地面に土煙が広がり、やがて翼はむくりと起き上がる。
「……体のどこも痛くない。ああ……私は機械なんだな」
「君は自分が何であるか、忘れていたのか?」
「忘れてはいない。だが、人と感じるものが違うのだと、気付かされたのは久しぶりだ」
人間だから、機械だから。両者の違いを歴史と知識と肉体構造の差としか捉えていなかった。前者は時間をかけて成長し、子供から大人へ身も心も変えていくが、後者は成熟した状態で生まれてくる。失敗を泣いて許される、なんてことはない。一度の失敗でも己の存続の危機に直結する。
人目を気にせず、心から泣き、心から笑える空音がうらやましい。
言葉を飾らず、言いたいことを素直に言える雲雀がうらやましい。
大人になることについて悩み、葛藤を抱く金糸雀がうらやましい。
――どれも機械である自分には許されていない。
立ち上がり、ふと無心になって、翼は九藍に向かって拳を振り上げた。機械が人に手を上げるなど、この街の人間は考えたことがあっただろうか。いや、こんな愚行ができたということは、一人だけいたじゃないか。人への暴力禁止機能を搭載させなかった、木花という技師が。
九藍を殴った感覚が鋼鉄であるはずの手に残っている。
「はははは! やればできるんじゃないか」
半狂乱の状態で、九藍はお返しと翼につかみかかる。
あえて翼は九藍の手から逃れようとしなかった。どんなに力を入れられようと、体のどこも痛くない。少女の力など、たかが知れていることを失念していた。せめてフライパンを曲げられるようになってから、この首を締めてみるがいい。
翼は九藍につかみかかられていることを利用し、自分の出せる最大限の力をつかって体勢を逆転させた。九藍を組み伏せて、翼は彼女に詰め寄る。
「……お前は私に、こんなことをさせたかったのか」
「さあね。まあ一言言わせてもらえば、君は僕を押し倒しているわけだ。どうだい? 人の上に乗る眺めは」
逃がさないように精一杯だったせいもあり、翼は九藍の腰の上に乗っていた。
体幹を圧迫されているため、九藍は体の自由を奪われておとなしくしている。口だけが騒がしい。
激しく動いたせいか九藍の服はやや乱れており、首もとからは白くなだらかな鎖骨が見え、控えめな谷間も露出させている。谷間が控えめということは山との差もお察しだ。普段髪で隠れている首もとは、じっくり見つめてみるとほのかに甘い香りが漂ってきそうだ。
「気持ちいいかい?」
「……言ってみて、たちの悪い質問だと思わないのか」
「思わないね。まっすぐしか飛べない鳥は壁にぶつかって死んでしまう」
九藍は上半身を腹筋の要領で起こし、翼に頭突きを食らわす。
やはり痛くはないが、二つの衝撃を耐えようとしばらく翼は悶絶した。
「まだ甘い。相手の身動きを封じられただけで安心するとはね。背中を見せた瞬間に、味方に斬られるのが人間だ」
九藍は自分と翼の額を撫でて、ちょっとやりすぎたかと首を傾げる。額を撫でた後、そっと両手で翼の首も撫で下ろした。それから翼の顎を持ち上げて、顔をまじまじと凝視する。翼があたふたと視線をそらしているうちに、九藍はくすりと笑って翼の唇を奪っていった。
「……想像と違う」
「当たり前だ。私は機械だぞ」
「知ってる。誰よりも」
まぶたを伏せて、九藍はこぼす。
「おい、待て。お前には聞きたいことが――」
翼の腕は九藍をすり抜けた。
何が起きたのか理解できずに唖然としている翼の傍らで、九藍はふむと喉を鳴らした。
「夢の終わりがやってきた」
ざあざあと耳障りなノイズが聞こえ、翼は防衛反応で集音機器を停止させる。無音の世界の中、厚かましい笑顔を浮かべた少女を翼は黙って見やる。
いかにも挑戦的な出で立ちに、後ろめたい影はなく。足元には七色に光る軌跡があった。
九藍は一瞬だけ気合が抜けたようなぼやけた表情を作り、翼に背を向けて背筋を伸ばす。七色の軌跡は彼女が歩みを進めるたびに地面に刻まれた。
翼がもう一度手を伸ばしても、九藍に触れることはできなかった。
視界を囲っていた青い光は弾け、天蓋の下に空の色が飛び散った。
翼は七色の道筋をたどろうと足を伸ばす。