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第十七話

 翼が帰ってきた頃、空音は部屋の窓に顔を擦り付けるようにして黒い空を眺めていた。両手をガラスに押し付けても、空に触れることはできない。上を見て、下を見て……自分をとりまく世界の大きさを目で感じ取った。写真に閉じ込められても空は飛び出してきそうなほど果てしないというのに、こうして目で見ているものは限界があって作り物じみている。


「どうしたんだ空音。窓をじっと見つめて」


 空音の後ろ姿がいつもと違う。翼はそう感じて、空音の両肩に手を置いた。


「……ツーちゃん」


 今にもはち切れんばかりの震え声で、空音は両目に涙を溜めていた。くりくりとした瞳に溜まった滴は大きく、瞬きするたびに一粒二粒と溢れ落ちる。瞳を濡らし、頬を濡らし、胸元を濡らし。最後に濡らしたのは――。

 泣き腫らした空音の顔を目にし、激しい剣幕で詰め寄りたくなる気持ちをぎりぎりのところで抑え、至極冷静に翼は話しかける。

 何度か尋ねても、空音は無言で窓にしがみついていた。外出禁止のめいを受けてむずがる子供とはわけが違い、怪我や更なる苦痛を歯牙にもかけずに窓を割ろうと動き出しそうな気配があった。反射的に翼は空音の手を握り、こちらに向き直させる。無意識にとった行動のためか、普段よりも強い力で空音をつかんでいた。痛いと抗議されるまで、翼は力加減を間違えていることに気付けなかった。

 無言の応酬を重ね、やがて外を凝視していた空音は重い口を開く。きつく結ばれた糸は解かれ、長く口を閉ざしていたせいか、口を開けたときに唾液が音を立てた。


「ねぇ……教えてほしいぽよ。空音はいつになったら空を飛べるの? 天蓋の向こうに行けるの?」


 様々な感情が迸っては翼に名答を促した。何かを言おうとしても。それが本当に正しいのかと考えてしまうと袋小路にはまってしまう。翼はものの見事に迷ってしまい、旅人のごとく地図と見比べて正しいと思われる道を選びとろうとしているが。


「ツーちゃんは外に出れるのに、どうして空音はだめなの!?」


 翼の沈思熟考の時間に耐え切れず、空音は声を張り上げた。きりきりとした痛みの発露は声だけでなく動作にも現れる。空音は翼の両腕をつかみ、ぶんぶんと体を揺する。体格差ゆえに翼が受けた力は微々たるものであったが、空音の与える振動に、そこで翼の何かも揺れていた。

 深く考えているというのに、いざとなると何も言えない。四年前のあの日、空音を研究所に連れ帰ろうと思い立った決断力はどこにいったのだろう。


「……答えられないんだね、ツーちゃん」


 謝罪の言葉は火に油を注ぐだけである。ごめんと言うこともできずに、翼は俯いて目をそらす。空音の視線から逃げるようにして目をそらした先に、空音の祖父が遺した光画こうがが飾られていた。

 同じ「青」であるはずなのに、どこか違う色。完全に同じである瞬間はなく、一秒後には全く違った顔を見せてくれる空。

 そもそもこの世に完全に同じものが存在しているということこそが奢りではなかろうか。


「ツーちゃんは機械だから」


 翼が答えを導けなかったために、空音は自己完結をおこなった。空と雲色のワンピースの裾を小さな手で握りしめ、外に出ようと扉まですたすた歩いていく。


「空音の翼は空音のもの。ツーちゃんのものじゃない。ツーちゃんの翼はツーちゃんのもの。空音のものじゃない……」


 呪いの唱えるかのごとく言葉を繰り返し、廊下に出た空音は頭上を仰いだ。


「……天蓋がなければ、空を」






 衝動に駆られ、空音は飛行警備隊本部から抜け出した。行く宛もないというのに走り出さずにはいられなかった。上下する肩、早くなる鼓動。熱がこもり、乱暴に髪をかきあげる。白銀の髪は夕刻を知らせる橙色の街灯で赤く染まっていた。本来ならば人工物の光ではなく夕日の滲むような茜に混じっていくはずであるが、それは外の世界を知っている者だけの常識でしかない。光を吸い込んでいきそうな黒い布に人間は包まれており、照明でごまかそうとしていた。


「天蓋がみんなを守ってる。そんなの知ってるぽよッ」


 黒い傘を睨みつけ、露先つゆさきへと進路を定める。天蓋の果てまでいけば、じいじが教えてくれた空の百面相をこの目で見られるはずなのだ。傘があれば頭が濡れることはない。しかし傘を持っていたら片手がふさがってしまう。視界も遮られ、前方から襲ってくる危険への対応も遅れてしまう。

 足が絡まって倒れそうになっても、すぐに持ち直した。ワンピースが足に張り付いてきてわずらわしくなったので、裾を両手で持ち上げた。走っても走っても望む空は近付いてこない。逆に遠ざかっていっているような気がして、辛さに喘ぐ。

 空音――なぜ自分は"嘘"という名前をつけられたのか。

 叫びが口から漏れた。同時に走る気力を失い、棒になった足が真ん中から折れる。悲痛な金切り声で訴えても、空は耳を傾けて立ち止まってはくれない。離れていく離れていく。空はどこまで続いているはずなのに、どうして自分の頭上にはないの――?

 なびいていたはずの髪が重力に従って落ちる。さらに熱が内側にこもって暑ぐるしい。髪を抜こうと手で引っ張ってみた。でも毛根が元気なのか、疼痛以外に得られるものはない。強いて言えば怒りの方向を移し替えただけ。何の解決にもなっていない。


『お前、魔法少女になりたいのか?』


 四年前、手を差し伸べてくれた人の言葉が脳裏をよぎる。


「……ぽよ……えへ、えへへへっ。なかったんだ、やっぱり――。空も――空音も――」


 親がいない(・・・・・)ということが異常であることが、幼くしてわかった。周囲の目が違うのだ。天蓋下で生きる住民は皆必ず"大人になるための試練"を受けており、一人前になったと認められてから社会というシステムに整然と組み込まれる。ここに例外はない。ゆえに孤児みなしごがこの秩序立たれた平和な世に現れるはずがない、と人々は笑った。


「お父さん……お母さん……。どうして空音を"作った"の?」

「君が望まれたからだ」


 夜空のような濃い青が空音を取り囲んで舞っていた。ちかちかと煌く光は星のように見えて、空音はやっと空を見ることができたのだと心踊りそうになる。右目をこすって首を持ち上げ、黒い幕を目にして、幻想を打ち砕かれてうなだれた。


「ごめん。君が望む"空"ではなくて」


 声が聞こえて顔を上げると、先程まで誰もいなかったというのに一人の魔法少女が空音を見下ろしていた。夕方から夜へと時間が変わり、足元の影は暗闇に溶け込みつつある。目の前の魔法少女は警備中なのだろうかと空音は頭を回転させていると、とあることに気付いて驚愕する。

 藍色の魔法少女の背中には、あるべきはずの飛行装備が一つもなかった。不思議な光に包まれながらぼんやりとその場に浮いてみせた彼女は一体なんだというのだろう。


「……天国。空音、天国に来ちゃったぽよ?」


 足と手で体を支えて立ち上がる。一生懸命飛び跳ねてみても、肝心な飛行装備がないために空中にいられる時間はたかが知れていた。


「君は天国に行きたいのか?」

「天国だったら、みーんな空を飛べるって」


 空音が手を広げて空を飛ぶ動作をしてみると、藍色の魔法少女は苦笑した。その笑いがどのような心象から生まれたものなのか空音は相手の様子を伺ってみるが、季節外れのマフラーが気になってしまいそちらに視線がいってしまっていた。


「これが気になるのかな」


 首に巻いていたマフラーをはずし、藍の少女は己の髪と同じ色を宿したそれを空音に見せた。マフラーとしては薄めな生地に、白い糸で刺繍された"唯来"という文字。年代物であるのか、目を凝らしてみると擦り切れている部分が何箇所か見受けられた。

 空音はマフラーを愛おしそうに撫でていると、刺繍に目を留める。


「この字、なんて読むの?」

「ただ来ると書いて唯来ゆいらさ」

「おねーちゃんの名前?」

「いいや、僕の名前は九藍くらんだ。覚えていてくれたまえ」


 空音からマフラーを受け取り、九藍は丁寧に首を巻きつける。夜の光景へと移り変わった街に、藍色の魔法少女は一番星となって君臨した。金色のベルトが異常な光を発しているのではない。普段ならすれ違ったぐらいでは気にもとめない通行人も彼女となると周囲の意識を惹きつける。物怖じせず、地に足をつけて立っている姿勢。曇りのないまなこ。人を受け入れる包容力。圧倒的な存在感は夜空を焦がす。


「僕は君の夢の一助になれる。君と翼が本当に夢を叶えたいというならば、僕は君達のいしずえとなる」


 九藍の瞳は落ち着いた色を放っていた。嘘偽りなく透明度の高い深縹ふかはなだに染まった少女は永久とこしえを求め揺蕩たゆたい迷いし羊を先導する。群れから離れた場所は静寂に包まれ、一つ一つの音が鮮明に聞こえる。空音そらねに惑わされる余裕もなく、群小の言葉言葉が耳に残り胸に訴えてくる。

 夜を導く星空に、小さく閃く夢を見つけた。彼らは語りかけていたのだと空音は悟り、みるみるうちに活力を取り戻しているが、いかんせん表情だけは暗雲を伴っていた。


「あ、あ、あ、……空音は……空が見たくて……じいじが見ていた空を……空音も見たくて……。ツーちゃんと会ってからは……この夢が間違いじゃないってわかって、空音は……空音は!」

「君の夢は正しい。今の世のことわりに変革をもたらすものであるけれど、僕は応援してる」

「おねーちゃんは応援してくれるの? 空音に答え、くれる?」

「うぬ。濡れたときは、雨宿りをすればいい」


 九藍は膝をやや曲げて、空音と視線を合わせた。


「辛い時は僕を呼んで。病める日も健やかなる日も、君に寄り添う」


 さあ帰ろうか、と九藍は空音の手を握る。空音は逡巡すると九藍の手を握り返した。

 恐る恐る歩く空音と背筋を正して彼女を導く藍色の魔法少女。二人の前には横たわる闇だけがあった。






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