第九話
鳴りを潜める暗闇は凶悪な事件が始まる予兆。
首にまとわりつく死期に背を向けて、朝を告げる時間になるまで体を震わせる。
夜は幽霊が出る時間……という迷信で震えている者も多くいる中、近付く気配は視認できるものだけではない。
心の中で芽生えた衝動は夜の闇に共振し増幅し、壊れた針のように一方的な決断を選ばせる。振り返る余裕もなく、一息つく時間もなく、早く終幕を迎えたいという願望だけを叶えるのだ。
警備の真価が問われるのは夜と早朝だ。社会の目が届かない家の下で、人々は本当に笑っているのだろうか。偽りの仮面で本心を隠し、いつの間にかに本物とすり替わってしまった愛想笑いが貼り付いていないか。個々の家庭に目を向け、異常がないかどうか確認し、事件が起きそうならば止める。その対応こそが現社会に求められているものではないのか。
管理社会が進み、プライバシーを主張する人が増えた時代。過激に権利を主張する人こそ誰にも見えないところ――例として家庭が荒れていたりする。子供に虐待をしたりネグレクトしたり、果てには殺してしまったり。すれ違いから生まれた悲劇もあれば、悪意を孕んだ惨劇もあった。
親がでしゃばってくる家庭に、学校も保護施設も深入りできない。子供の腕にタバコの跡があっても、おかしなアザがあっても見て見ぬフリをさせるのだ。
――と彼女は思っている。
誰も気付かないならば、せめて自分だけは気付いてみせる。
幼くして芽生えた誓いを胸に、青でも紫でもなく……けれどもどちらでもある光を灯して。
夜闇がふける二十四時。一人の魔法少女は眠らずに目を光らせる。
人工風に煽られ紺色のスカートがなびく。飛行用の装備を装着していない体は軽く、シルエットも華奢である。金色のベルトだけが暗闇に浮かび上がり、藍色のマフラーは風を受けて煙のように広がった。
「――見つけた」
対象を補足し、藍の少女はとある民家へと押し入る。魔法のように壁をすり抜けた少女は、肩をならして静かに着地する。
家の中のあらゆる所にガソリンが撒かれており、鼻を曲がらせる臭いが充満していた。テレビの画面は割れ、木製のテーブルには刃物で削られた跡があり、割れた花瓶の欠片の上で数輪の花が萎れている。
家屋から感じる生体反応は一つのみ。この人物が荒らしたのだろうと少女は跳ぶ。
「だめだよ」
放り出されたポリタンクのそばで幼い少年が手と歯を震わせている。
少女はその少年を羽交い締めにし、体格差のおかげで難なくライターを奪い取った。
「放せ! 放せよ! ボクはここで死ぬんだ!」
乱暴に喚き散らす声はさながら散弾銃だ。多くの弾(言葉)を放って自分の心を理解してもらおうとしているのに、一弾(一言)が心をつかむような狙撃にならず、どんなに思いの丈をぶちまけても軽く見られてしまう。多くの人に知ってほしいのに助けてほしいのに、誰にも見向きされないため最終的に対象を己に見定める。
「くそ……っ、放せよ、放せって言ってんだろ!?」
少年は叫ぶたびにきりきりと腕を締め上げられ、苦悶の表情を浮かべた。叫びが悲鳴となるうちに、歯が立たないとわかったのか暴れるのをやめた。そんな少年の胡乱な瞳には消沈の闇が広がっていた。
彼の抵抗が緩んだのを確認し、少女は正面から語りかけるように言葉を紡ぐ。背面ではなく正面を選んだのは警戒心を和らげるためだ。自分が救世主であることを認識させ、ほぐれていく心の中の隙間を通っていく。
――さあ聞いて僕の声を。君の世界に僕は入り込んだ。一人きりだった世界に入り込んできた他人は異物だろうけれども、入り込んだ清流は元の川の美しさを取り戻させる。
「他人にわかるものか! ボクの気持ちがわかってたまるかよ……!」
棘を一つ一つ取り除く。どんな小言にも耳を向け、些細な情緒に向き合い、くすぶった心を包み込むように少女は手を伸ばす。
「……誰も聞いてくれなかったんだね。大丈夫、僕は聞く。君の一言一言を受け止める」
「嘘だ! ボクの言葉なんて誰も聞いてくれなかった! 勝手に言葉を変えて、ボクの言葉を都合のいいように変えちゃう! アンタだってそうなんだろ!?」
「ここには君と僕しかいない。騙すような発言をする大人はいないんだ。話してごらん、僕に。君の悩みと苦しみを」
少女に優しく諭され、少年は抵抗の手を止める。本当に? と目を見開くと、藍の少女は頷いた。
「パパもママもゲームに夢中で、ボクのこと気にかけてくれないんだ……ご飯もないし、ボク腹ペコで……」
少年の腕は細く、十分な栄養を摂取していないことは明らかだ。親は成長が悪いだけと周りに説明し、ご飯をすっぽかすことが当たり前だったという。
「ゲーム……ああシミュレーションのこと。ありがとう、僕に話してくれて。今まで頑張ったね。苦しかっただろう?」
十八歳になった人間は生まれてから死ぬまでの疑似体験映像を見させられる。将来への不安を減らすという名目であるのだが、同時に多くの中毒者を輩出した。恋愛、賭博、殺人……。シミュレーションならば普段できないことも体感することができる。ゲームだから失うのは時間だけ。時間の感覚が狂って現実こそがゲームとなり、食事や睡眠さえも蔑ろにするという。
バーチャル世界は人間の心をつかみ、目覚めることのない甘美なゆりかごに押し込めた。目覚めないで、一生ここで楽しめばいい。現実さえもおもちゃなのさ、と。
少女は何も言わずに少年を抱きしめ、少年は少女の温かさを享受して目を閉じる。
「……親のいない場所でもいいなら、僕は君をしかるべき機関へと送ろう。そこでなら温かい布団もご飯も用意してあげられる」
「本当? 嘘ついてない? パパとママみたいに嘘つかない?」
「僕は嘘をつかないよ。よく嘘だと思われてしまうけど。……捕まって」
少女は少年の体を抱いて、窓から外へ飛び立った。浮く体は重力に逆らい、少年を目的地まで運んでいく。
「わあ……ボク空飛んでる! おねーちゃん、すごい!」
「僕は魔法少女なり。こんなこと朝飯前さ」
上から見た夜の街はおどろおどろしく、死んでしまったかのように生気がない。電気がついている地域はシミュレーションを売りにしているところだ。今夜も中毒者があの場所で欲に溺れていると思うと反吐が出る。そのまま沈んで魂のない抜け殻となればいいのに。
少女は少年に極力地上を展望させない滑空ルートを選んだ。
藍色の魔法少女のベルトが星のように輝いた。その光は幸福な世界へと続く軌跡を描き、小さな希望を地上に降りかける。青色に似た光は尾をひいて流れ星となった。
飛んでいる間にも様々なものが少女へ語りかけてきた。木々が、風が、夜さえも彼女にささやき、少女は淡く微笑むとスピードを上げた。
「――着いたよ」
着地地点には孤児院があった。教育放棄をされた子供達は一度ここで保護され、自ら外の世界へと踏み出すまでの安住を約束されている。傷が癒えた頃に一部は里親を見つけ、一部はパトロンに援助を受けて暮らすことになる。ただこの孤児院は少女が稼いでくる資金で運営しているため、無理やり子供達を外に追い出す真似はない。子供の意志を尊重し、背中を押す機関としてここはある。
「ここは孤児院って言って、子供のための家なんだ。僕は基本お仕事だけど、たまに来る。ここにいる人はみんな優しい人だから、君は何の心配をしなくてもいい。……できたら、子供を放棄しない大人になって。そのための協力は惜しまない。君のゆく道に光あらんことを――」
少女は少年の頬を撫でて笑いかけた。
「おねーちゃんの名前は?」
「僕? ……僕は九藍」
「――クラン?」
「うぬ」
チャイムを鳴らすと、中から初老の男性が顔を出した。九藍はその男性に少年を任せ、深い夜へと吸い込まれる。
魔法少女。九藍は様々な絵本で描かれる、偽りなき魔法少女だった。
「あらあら、また人さらいね」
翌日の昼下がり、連絡を受けた飛行警備隊のうち二級飛行隊員・金糸雀と一級飛行隊員・翼が当の民家へ派遣された。
朝帰りをしてきた両親が家の惨状に目をむき、その上子供がいないということで誘拐だと判断したらしい。
警察という国組織もあるのだが、今回は犯人が犯人ということで魔法少女に事件解決の依頼が回ってきたということだ。
「金糸雀。またってことはこれが初めてではないのか?」
「ええ。事件性のあるただの誘拐なら、民間である私達が駆り出されたりしないわ」
ひどく荒らされた屋内は誘拐された人物が犯人に抵抗した、とも推測できる。ただそう考えると二階にまかれたガソリンと家に鍵がかかっていたという事実が矛盾していると思われた。
現場検証によると家の窓は全て閉じられており、こじ開けられた形跡はなかったという。窓ガラスも割れておらず、犯人が玄関から侵入し鍵を閉めて逃亡したのでなければ、退路はどこにもない。数日前から犯行の準備がされていたら話は別であるが、特に不審な点はなかったと親は供述している。
「ガソリンに火をつけて、どうするつもりだったのかしら……。親の発言の確証性の検査としてデジタルコードによる記憶検証が行われたんだけど、たくさん出たわ子供への虐待が」
「子供への虐待……? 立派な親になるために、須らく全ての人間は大人になるときにシミュレーション体験をするべきじゃなかったのか?」
「……親はその、シミュレーション中毒だったみたい。自分の喜びだけを求めて子供のことが疎かになる現代病よ」
「ふうん……話だけを聞くと、子供が自分から逃げ出したみたいに聞こえるな」
「勘がいいわね、翼くん。育児放棄された子供が行方不明になる事件、一度や二度じゃないの。それに行方不明になった子供は街中の監視カメラにも映らず、デジタルコードの追跡もできない。神隠しじゃないかって一部の人は騒いでいるわ」
「神隠しなんてあるのかよ、この時代に」
神秘的なものよりも科学という「自ら実証できるもの」に重きを置かれた時代に、神様という姿なきものを信じるのは不思議だと旋毛を曲げた翼。翼自身が科学力の結晶であることが持論を後押ししている。
「あるわ。いえ、正確にはいるの……私達魔法少女とはまた違った子がね。藍色の九藍――あなたと同じ一級魔法少女よ。信憑性の低い噂が多くて姿さえもつかめない。十年以上も外見が変わらないとか、デジタルコード自体を刻まれていないとか。国のデータベースにも名前がないみたいで、本名を誰も知らないわ。そんな身元不明の人物に一級の資格を与える会社も会社だと思うけど」
「九藍、か。私達はそいつを捕まえればいいのか?」
金糸雀は首を振った。
「恐らく無理よ。科学じゃ魔法を凌駕できない。たとえもし九藍を捕まえることができたとしても、彼女が魔法少女である以上私達も何かしら罰せられる可能性もある。飛行機械を悪用した……なんてとばっちりが来たらはた迷惑だわ」
「手のかかる相手だな。それで金糸雀は犯人のことどう思っているんだ? 捕まってほしくないのか、あるいは自分で捕まえたいと思っているのか?」
「……捕まってほしくはないわね」
顔を上げて、金糸雀は寂しそうに微笑んだ。昼だというのに明かりで照らされていない表情は、一本の糸だけで繋がっているみたいに危うい。
「魔法少女だって、本来は少女という庇護対象が努力しているという姿を眺め楽しむものよ。一時の疲れから解放され、身近な幻想を追い求める。ヒーローとか救世主とかいう言葉が似合うようにね。九藍だって同じじゃない? 圧迫されて育った子供にとって彼女はヒーローよ。自分を助けてくれる、たった一人の存在――」
深刻な金糸雀の表情を視界に収めないよう、無意識に翼は視線をそらした。
現実から目を背けるような翼の態度に、金糸雀は疲れた笑顔を作る。
「"大人"になるってそういうこと。"大人"にならない翼くんには理解できない話よ」
金糸雀はそう言い切り、再び己の仕事へと戻る。
翼は右手で己の首をつかみ、しばらく足元を見ているだけだった。