休戦協定
何が大変と言って、説明より後始末より、まず聖女疑惑を解消するのが大変だった。と言うか、結局解消できなかった。
「聖女」などという称号は、「あれ? 今、物音がしたような……ちょっと見てくる」という台詞と同じくらい危険な代物だ。チヤホヤされるという対価だけでは到底足りない。必死になってナイセル伯爵の誤解を解こうと、マリーベルは舌鋒を閃かせた。ある時は理路整然と、ある時は感情に訴えて、押しては引き、引いては押す巧みな話術の粋を尽くした……つもりになった。しかし実際のところ「ちょっ……いや、ホント、勘弁して下さいよ」という台詞をバリエーション豊富に唱えただけだったので、ナイセル伯爵を始めとする男たちを真実に目覚めさせる事はできなかった。
あの日戦場で生き残った兵士はもちろん、戦列に並べなかった傷痍兵や雑役をこなす少年兵まで、例外なくマリーベルを聖女と呼んだ。
冗談じゃないとマリーベルは憤慨したが、当の本人も聖女疑惑についてあながち否定できない点があった。
勇者召喚である。
伯爵が言うには、この無駄にでかい教会は、かつて魔王を討った勇者が召喚された場所に建てられたというのだ。そしてそれを行ったのが聖女であった。
かつて起きた奇跡が、同じ場所で同じように起きたのだから、それを執り行った人物もまた同じような存在であろうという理屈だ。
ナイセル伯の目から見れば、エルザは「儀典用の優美な武具に身を包んだ謎の少女」というところだったのだが、マリーベルには「これぞ、まさに勇者のいでたち!」としか見えず、また他の人にもそうとしか見えないだろうと思い込んでいたため、気絶したままの名も知らぬ少女を勇者様と呼称した。彼女が勇者と呼ぶなら、間違いなく勇者なのだろうと男たちは認識した。そして勇者がいるなら、その傍らにいるのは聖女だろうと、彼らはその認識を一層強固にした。
どうやっても脱出不能な深い深い墓穴を自分で堀り抜いた訳だが、マリーベルはそれには気付かず、何でこんな事になったのかと頭を抱えた。
魔王については嘘八百を並べたてるしかなかった。
勇者召喚で聖女扱いも充分ヤバいが、魔王を召喚してしまうのはもっとヤバい。聖女なら「いずれ高確率で死亡」のところを、魔女なら「すぐ火あぶり」なのだから。
マリーベルはまたしても弁舌を冴え渡らせた。「これは勇者を守る自律稼働型ゴーレム的なアレです」という台詞を男たちがどこまで飲み込んだのかは分からないが。
とにかく強引にその場を凌いだマリーベルは、勇者様を介抱しなきゃと大きめの独り言を述べてから、小柄な少女を抱えて一迅の風のように立ち去った。長居は無用である。
広大な教会には無数の空き部屋がある。マリーベルはその最奥の部屋に勇者を寝かせると、汚れた体をぬぐい、洗濯したての自分の寝間着に着替えさせた。
剣と鎧には傷一つついてはいなかったが、血糊や埃に汚れていたので、自分の部屋に持ち込んで綺麗に磨く事にした。
清潔な布で拭きながら、マリーベルはそれらの武具の優美さに目を奪われていた。その美しさと言ったら、どんなティアラやネックレスよりも輝かしく、満天の星の光を全て束ねても、鞘の隙間からこぼれる刀身の僅かな煌めきにさえも遠く及ばなかった。
「……の僅かな煌めきにさえも遠く及ばなかった。そこでマリーベルがこの優美なる剣を鞘走らせたのは無理なからぬ事であった」
マリーベルは独りでぶつぶつ言いながら無造作に大剣を引き抜いた。燭台の明かりを照り返す白金の刀身を見つめ、熱に浮かされたように恍惚とする。
既に鎧も装着済みであった。
剣も鎧も羽根のように軽い。その上、身に着けるだけで腕力や気力が増したような気になる。
マリーベルは意気揚々と剣を振りかざした。
「後の世に歌われる彼女のサーガは数知れないが、それらは概ねこの瞬間から歌い出される。凛々しくも愛らしい、勇者マリーベルの勲しき物語が!」
ガシャン!
狭い室内で長い物を振り回してはいけない。花瓶の破片を惨めに片付けながらそう反省し、鎧をそこら辺に脱ぎ散らかしてから眠る事にした。
流石のマリーベルも、色々な事がありすぎて体力の限界だった。まるで魔女の呪いのような、夢さえ見ない深い眠りへと瞬時に落ちていった。
朝日でエルザが目を覚ますと、全く見覚えのない部屋のベッドで寝かされていた。
いつの間にか鎧は脱がされ、粗末だが清潔な服に着替えていた。
身を起こして狭い部屋を見回すと、旅の初めから愛用している魔法の小剣と、気を失う前まで着ていた服が棚の上に置いてあった。
一瞬何もかも夢だったのかと思ったが、起き上がって何となく服を広げてみると、サイサリスに裂かれた腹の辺りがそのままに残っていた。
陽向でまどろんでいた猫科の猛獣が、微かな気配でも一瞬で覚醒するように、突如エルザは産毛が逆立つほどの緊張感を全身に漲らせた。
「魔王はっ!?」
エルザは小剣を引っ掴んで部屋を飛び出すと、行く先も決めないまま全力で疾走した。
大きな教会だった。無類の持久力を誇る彼女でさえ、息切れするほど走っても出口に到達しなかった。散々道に迷っている間中ずっと、エルザは仲間たちの名を心の中で唱え続けた。そうしなければ不安で立ってもいられなかったに違いない。
やがてエルザは、かつてサイサリスと死闘を繰り広げた広場にたどり着いた。朝靄と静寂がたちこめる中、肩で息をするエルザはそれを見つめていた。
視線の先には、何かを投げつけ終わった格好のまま微動だにしない異形が佇んでいた。
「魔王……」
勇者はゆっくりと近付いた。何の気配も感じられない、ただの無機物と化したそれに、震える指先でそっと触れる。生命力はおろか、あの禍々しい冥力さえ微塵も残されてはいない。
それは、確かに魔王の亡骸であった。
突如、少女の双眸に涙があふれ、頬を伝ってしたたり落ちた。
「……みんな……みんな!」
届かない呼びかけ。
かすれる彼女の声を聞くには、仲間たちはあまりにも遠い。
「……終わったよ……私たち勝ったよ!」
嗚咽に混じって、エルザは仲間たちに勝利を告げた。異世界の空の下でたった独り、誰に聞かれる事もなくひっそりと。
朝、装備一式を抱えて勇者の寝ている部屋に入ると、そこはもぬけの空だった。武具を取り落としたマリーベルは慌てて辺りをキョロキョロ見回したが、求める姿を発見する事はできなかった。
マリーベルは駆け出した。その足取りに迷いはなく、霊感のような確信に突き動かされていたのだ。
(私が勇者様なら、真っ先に行くところは!)
風のように駆け抜けるマリーベルは、目的地の前にたどり着いた。彼女は少しためらったあと、扉を遠慮がちに叩いた。
「……あれ、こっちのトイレじゃないのかな?」
マリーベルが広場で泣き崩れる少女を発見したのは、厠と厨房と食糧貯蔵庫を全て回ったあとだった。
しかし、汗だくになってやっと見つけたにも関わらず、マリーベルは物陰からコソコソと様子を窺っているだけだった。
「……声、かけづらいなぁ……」
死んだ魔王の前で孤独に咽び泣く少女の涙は、歓喜を分かち合う者のいない悲壮なものであったため、こんな所に呼び出してしまった張本人かも知れないマリーベルには合わせる顔がなかった。
その内、少女はしゃくりあげながらトボトボと歩きだした。せめて泣き止むまで見つかってはいけないが、見失ってもいけない。マリーベルは完全に不審者のような動きで後を追った。
ふと、マリーベルは井戸の滑車がガラガラ回る音が微かに聞こえる事に気付いた。まだ泣きやまぬ少女もそれに気付いたのか、音のする方へ吸い込まれるように進んでいった。
井戸にたどり着くと、少年が水汲みをしていた。
「こんな朝早くから、偉いなぁ……」
さっきまで泣いていた異邦人の少女は感心したように呟いて、しばしその様を眺めていた。そして袖で泣きはらした顔を乱暴にこすると、少年に向かって歩き出した。
井戸に桶を放ってからそれが着水するまでは、三つ数える程度の時間でしかない。しかし少年には、その三つがうんざりするほど長く感じられた。井戸は、まだ声変わりもしていない少年の細腕には深すぎたのだ。
歯を食いしばって綱を引くと、古ぼけた滑車がガタつきながら回る音が、早朝の街に小さく響いた。
辺りは静まり返っていたが、それは時間帯のせいではない。住民の殆どが避難したためだ。
彼はやっとの事で桶を引き上げると、それを瓶に移し替え、空になった桶をまた投下する。
少なくともあと一杯汲みたいところだったが、腕の筋肉は既に限界を迎えていた。少年は美しい顔を歪めて綱を引き絞った。天使のように輝かしい癖毛の金髪は、さして暑くもないのに汗で額に貼り付いている。
その時、少年に背後から近付く影があった。
「手伝おっか?」
少年はビクッと肩を震わせて振り返った。完全に作業に没頭し、誰かがすぐ後ろに来ているのに全く気付かなかったのだ。
声をかけてきた少女は親愛の笑みをたたえていた。柔らかな栗毛色の髪は乱雑に後頭部に束ねられており、服装も夜間着のままのややだらしない格好だったが、彼女の健やかな美しさを損なうことはなかった。
ただ、泣き明かしたような跡だけが、その少女が生来持つひまわりのような明るい笑顔の瑕疵となっていた。
勇者エルザであった。
「……いや、いい……」
半ば虚脱したようにエルザを見つめていた少年は、ややあって絞り出すような声で何とか答えた。
「いいからいいから、遠慮しないで」
しかしエルザは明るく言い放つと、少年持つ綱に手を添えた。気丈に振る舞ってはいたが、精神的に参っていた。誰かの役に立って、それを心の慰めにしようとしていたのかも知れない。
しかしそんなエルザの行動に激しく動揺した少年は、エルザを強く拒絶した。
「は、放せ!」
「まあまあ、お姉さんに任せなさい」
エルザも退かなかった。このくらいの男の子が、年頃の娘に過剰反応する事を承知していたからだ。
だが少年の態度は頑なで過敏だった。エルザも善意を押し売りする気など無かったが、こうまで拒まれると何となくムキになってくる。そして二人が揉み合っている内に、バランスを崩した少年が瓶を蹴倒した。少年の苦労の成果が、あっと言う間に流れ出して二人の足元を濡らす。
気まずい沈黙が満ちる。どちらともなく綱を放すと、桶が井戸の底で飛沫を上げる音だけが虚しく響き渡った。
「ご、ごめん……」
エルザの謝罪に、少年は何も答えなかった。ただ俯いて握り締めた両手の拳を震わせた。
建物の陰から様子を窺っていたマリーベルも、あーあやっちゃったと呟いた。
「……何を……」
「本当にごめんね。私、急いで汲み直すか……ら?」
突如、おぞましい気配に鳥肌がたった。少年の右手に、強大なエネルギーが集約されている。
マリーベルはそこに至ってようやく気付いた。生き残った少年兵の中に、あんな美少年はいない。あそこで水を汲んでいたのは、異邦の何者かである事に。
「何をする、この馬鹿者め!」
少年が右手をエルザの顔面にかざすのと、エルザがひっくり返るほど仰け反るのは殆ど同時だった。
栗毛色の前髪の先端をかすった一条の漆黒は彼方に飛び去り、遥かな山嶺に消える。遠くそびえるその山肌の一部が音も無く消し飛ぶと、かなり遅れて遠雷のような音が微かに響き渡った。
「……あんた……魔王?」
尻餅をついたまま、エルザは目の前にいる天使の如き風貌の少年が、柳眉を逆立てて怒っているのを茫然と見つめていた。
激憤する魔王と呆然とするエルザの間にマリーベルが躍り出たのは、はっきり言って、ただの勢いだった。気が狂ったのかと自分でも疑わしく思ったほどだ。
しかしやってしまったものは仕方ない。マリーベルは勢いのまま「ご飯っ! 朝ご飯にしましょう!」と叫んだ。
辺りは水をうったように静まり返った。あまりの静寂に耳が痛い。マリーベルは後悔のあまり「神様、今すぐここに隕石を落として!」と本気で願った。しかし願いは聞き届けられなかった。
マリーベルにとっては永遠とも思える数瞬の後、なんというタイミングだろう、三者の中の誰かが「グウゥゥゥゥゥッ!」と、なかなか威勢のいい腹の虫を鳴らせた。誰のものであったのかは神のみぞ知るだが、とにかくその場の毒気はそのささやかな生理現象によって拭い去られた。
「……よかろう」
少年魔王は尊大に頷いた。
「う、うん……」
エルザはまだ精神的ショックから立ち直っていなかったが、空腹感は彼女の首を無条件で縦に振らせた。
(神様、空気読んだな。グッジョブ! あと、分かってるとは思うけど、隕石はキャンセルで!)
無神論者だった筈の修道女は、神の存在を身近に感じるようになっていたため、心の中で感謝の言葉を忘れずに呟いた。
しかし、神はマリーベルにとって必ずしも都合のいい存在ではないようだった。神がもしもいるとしたら、相当な悪戯者だと彼女は確信している。
教会の粗末なテーブルを挟んで顔を合わせているのが勇者と魔王で、しかもそれを一時的とは言え仲裁したのが、信仰心薄弱な落ちこぼれの修道女なのだから。
従軍聖職者にさせられた件といい、神様はよっぽど私が困る様を見るのが好きなんだわと、マリーベルはうんざりしながら思った。
「あんた……随分見た目が変わったわね? 魔法で変身したの?」
エルザの台詞に、マリーベルも心の中で激しく同意した。はっきり言って美少年である。年の頃は十一か十二といったところか。まだほんのりと薔薇色のほっぺが愛らしい。
マリーベルは物語文学を愛好する者の中に、特にこういった容姿の登場人物を嗜好する一大派閥がある事を知っていた。彼女自身はそうした趣味はちょっと合わないなーなどと思っていたのだが、実際こうして目の前に現れると、その破壊力を認めざるを得ない。
テーブルには皿が幾つか並べられていたが、全て綺麗に平らげられていた。マリーベルから供出されたパンは固く、スープも昨日の残りを水で嵩増ししただけなのに。
マリーベルは一応念のため、万が一という事も考えて、食卓を礼拝堂にセッティングした。天井は半分ほど粉砕され、壁にも大穴があけられていたが、ひょっとしたら魔王の力を抑制する何かが働くかも知れないと思ったのだ。面倒だったが、そうせずにいられなかった。
そうして勇者と魔王の会食に同席するという非常に稀有な体験をした修道女だが、マリーベル的には全く生きた心地がしなかった。いつ剣や魔法が飛んでくるか分からないのだから。
しかし当人たちはとりあえずのところ敵愾心を胸にしまい込み、食糧を胃にしまい込む事に専念しているようだった。
マリーベルが出した、決して旨くはない食事をペロリと平らげると、心に余裕ができたのか、あるいは沈黙に耐えかねたのか、エルザが魔王に口を開いたのだった。
少年はエルザの問いには答えず、静かに立ち上がると、昨日自分がぶち抜いた壁に近付き、無言のまま外を顎で指し示した。誠にクールな所作であったが、外見とのミスマッチが甚だしい。娘二人は怪訝な表情で顔を見合わせると、席を立って外の広場を見下ろした。
「あ」
エルザがポツリと呟いた。眼下には、何かを投げつけ終わった格好のまま微動だにしない異形が佇んでいた。
「あれは我が最高傑作、魔装鎧。膂力においては巨人族をも凌ぎ、剣も魔法も弾き返す無類の頑丈さを誇る」
魔王の声は平坦だった。喋り方や言い回しは確かに魔王のそれと同じであったが、声はあの恐ろしい胴間声には似ても似つかないボーイソプラノであった。
「あれの中に入ってたんですか?」
「そうだ」
思わずこぼれたマリーベルの問いに、魔王は律儀に首肯した。もしかしたら自慢したいのかも知れないと、マリーベルは鉄面皮の下に潜むドヤ顔を思い浮かべた。
「しかし、駆動には莫大な冥力が必要となる。我と冥界門の繋がりが絶たれた今、満足に歩かせる事もできぬ。その上、先の戦いで胸部から後背部にかけて破損した。もはや動かせぬ」
マリーベルは、魔王の後ろに「しょんぼり」という言葉が浮かぶのを勝手に幻視した。
「長きに渡り、我が手足となって働いてくれた愛機の汚れを、せめて清めてやろうと思って水を調達していたら……」
魔王は言葉を区切ると、エルザをじろりと睨みつけた。
「勇者め。我が行いの、こんなささやかなものさえ挫くとはな」
「ご、ごめん……」
エルザは謝った。魔王を憎む気持ちはあるが、どうしても目の前の美少年と結びつける事ができない。
しかし本性はやはり魔王なのだ。「せめて綺麗にしてやろうと思ってたのに」とは、ただエルザを責めるための口実に過ぎない。
戦闘後、冥力切れで昏倒していた彼は、朝日が上る前に意識を取り戻して、操縦席から這い出した。それから愛機を修理しようと思ったが、やはり動力源を確保しない事には真価を発揮しない。彼は、とにかく隠せるような場所までは自分に内在する限られた冥力で動かそうと画策した。
そこで、少しでも機動負荷を軽くするために間接部、接続部の洗浄や駆動部の冷却など、何をするにも水が要ると思い、それで井戸にいたのだ。
黙っていれば正体は分からないだろうと思っていたが、激昂してあっさり馬脚を現してしまったのは手痛い失敗であった。
「まあよい。我は寛大であるがゆえな。それより……」
魔王はエルザを見つめた。エルザも彼の真剣な様子を読み取り、少し神妙な顔をした。
壁にあいた穴からは、二人の話し合いに耳をそばだてるように沈黙を守る街並みと、彼方に広がる山嶺、清々しい青空が覗いていて、平凡ながらも美しい風景を一枚の絵画のように切り取っていた。
それを背景に佇む異邦の少年と少女は、大聖堂に描かれた宗教画よりも神聖で荘厳で、侵しがたい清廉さを秘めていた。
マリーベルは突然、途方もない物語を目の当たりにしている事を強く自覚した。これから始まる、いや、既に始まっているそれが、手を伸ばせば触れられる場所で進んでいると感じた瞬間、胸が激しく高鳴った。
先週読んだ冒険物語は素晴らしかった。登場人物の台詞を一字一句違える事なくそらんじる事もできる。
だが現実の臨場感にはかなわない。何しろ、マリーベル自身もこの物語の登場人物の一人なのだから。
「勇者よ、決着はいずれつけるとして、一時休戦としよう。ここで我らが争ったところで、互いに益が無い」
「どういう事?」
「貴様ら人間族の目的は魔族の支配者たる魔王の廃絶であり、我が異世界に飛ばされた時点でそれは達せられている。ここで急いて戦いを再開したところで、我が愛する臣民や貴様の仲間どもには何の価値も無い」
「意味ならあるわ。みんなの仇を討てるもの」
エルザの視線が微かに揺らいだ。固い決意に裏打ちされた闘志が、彼女の全身に満ちるのを魔王は感じた。だが魔王は一向にたじろいだ様子も無く、むしろ怒気を込めた目で睨み返す。
「我も直属の臣下を喪った怒りと悲しみを、一時とは言え飲み込んでやろうというのだ」
「……」
「貴様も私怨は飲み込め。殺し合いは帰ってからでも存分にできる」
破裂しそうなほど張り詰めた緊張感が二人の間に満ちる。互いに一歩も退かないという戦意と敵愾心が、オーラとなって立ち上っているかのようであった。
心臓に悪い静寂が随分長く続いたあと、エルザはついに溜め込んだ闘氣を吐き出すように大きく息を吐いてから言った。
「……いいわ。分かった。今は帰るのが先決ね。それまでは一時休戦」
エルザにとって一番大事なのは、仲間たちとの約束を果たす事だった。魔王を倒し、みんなで帰ろうと誓い合った。
元の世界に戻るという一点において、不倶戴天の敵であるはずの魔王は同志であった。
寄る辺なき異邦の勇者は、目的を同じくする者は例え魔王であろうとも拠り所とせざるを得ないと判断したのだ。
マリーベルは呼吸の仕方を忘れたように止めていた息を吐き出した。
だが魔王はまだ満足していなかった。
「剣に誓って?」
「剣に誓って」
対等に話し合っているように見えて、実は魔王は圧倒的不利な立場で綱渡りをしていた。
何故なら、彼は目の前の少女に対抗すべき武力的背景を持っていなかったのだ。冥界門から無限の冥力を受け取る事ができた時とは違い、今は己に内在する冥力のみが頼みの綱である。しかしその容量は酷く乏しく、大魔術一発分で空っぽになってしまう。そしてその一発は、つい先ほどぶっ放したばかりなのだ。今の戦力は人間の兵士一人にも劣る。
彼は用心深く言葉を選び、エルザの言質をとる事に成功した。
女神の力が宿った剣に、すなわちエルザが崇める女神そのものに誓わせた。
たかが口約束ではあるが、魔王はエルザにとってこの口約束が枷になり得ると確信していた。彼女の純朴な性質を見抜いていたのだ。
「では我は誇りにかけて……」
だが魔王は忘れていた。かつて全く無策のままの勇者が、彼の目論見の悉くをぶち壊し、踏み潰してきた事を。
「待って」
「何だ?」
「名前にかけて」
「……何?」
「名前にかけて誓って」
「っ……!」
痛恨の一撃であった。エルザに特別な意図は無く、そう言えば名前を知らないぞと思って口にした言葉であったが、魔王にとっては致命打であった。何故なら魔王は普通の魔法使いなら誰もが持つ「術師名」を持っていなかったからだ。
ある種の魔法を使う者にとって、名前は重要な役割を果たす。それは力源との契約の鍵となり、術そのものの心臓となる。術を術たらしめる楔となるが、どんなに強い魔法の戒めも、術者の名前が分かればたちどころに綻びるのだ。
魔法使いは生来の名前とは別に術師名を作り、それを誰にも知られないように秘匿する。だがこの術師名を作らずに本来の名で術を行使した場合、その効力は飛躍的に高まる。分散される力が一つに集約するように。
「……わ、我が名は……」
例え偽りでも、他の名を名乗ってはならない。それを行った瞬間、収束された力は拡散される。名前とはそうしたものなのだ。
元の世界にあっては、名乗らないという選択肢もあっただろう。
しかし、この会話の流れから言ってそれはできない。流れをぶち壊せば、あとは暴力的解決に向けて転がり落ちるだけだ。
魔王にできる事と言ったら、弱味を弱味と悟らせる事なく、この場をサラッと流す事だけである。まさに苦渋の決断であった。
「エストパッリダ モルス ニヒルデーテレット インスピリトゥ エト サピエンティア アンネスシス トゥーフイーエゴエリス、この名前に誓おう。一時休戦だ」
魔王は弱点を知られた事に酷く動揺していた。それを顔に出さないよう平素に振る舞うのに必死になり、エルザとマリーベルが唖然とした表情で一瞬視線を交換するのに気付かなかった。