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戦姫サイサリス




「サイサリス様あ!」

「魔具使いでごぜえます!」

「駄目です、太刀打ちできやせん!」

 ゴブリンたちの言い訳がましい訴えを、サイサリスと呼ばれた騎兵は槍の一振りで黙らせた。恐るべき風切り音が、聞く者の心臓を凍りつかせる。

「次から次に、何なのよ!」

 事態の展開速度は、既にマリーベルの脳の容量を遥かに上回っていた。勇者、魔王、ゴブリンに四天王。物語として見るだけなら申し分ないお歴々だが、こうして目の前に全部並べられると、はっきり言って「盛り過ぎ」である。


 サイサリスは頬面を上げて、その顔を露わにした。どちらかと言うと中性的な、完成された美。陶磁器のような白い肌、青い瞳は美しさと冷たさを併せ持ち、何者も寄せ付けない厳しい冬を連想させる。

「そこのでかいのは人間族ではないな。所属を明らかにせよ。我らの敵は人間族のみである。そちらの態度次第では温情を与えよう」

 軍人然とした口調は一切の陰りなく、彼我の立場に圧倒的優劣がある事を前提としたものだった。

「……え? 何? 仲間じゃないの? なんなの?」

 混乱した様子でマリーベルは呟く。

 それに対して魔王の返答は実に簡潔で明瞭だった。

「ヘル・フレイム」

 石畳から獄炎の柱が立ち上ると、サイサリスに向けて襲いかかった。慌てて頬面をかぶりなおしたサイサリスは、手綱を操って間一髪のところでこれをかわす。

「魔法だと!?」

 しかし炎の蛇は執拗にして俊敏。頭上から再び襲いかかってきた灼熱の濁流をかわす事ができず、戦姫はあっという間に劫火に包まれた。

 ゴブリンたちは驚きと恐怖で声も出なかった。


 魔法使い。


 彼らが知る魔法使いはこの世に魔王だけ。しかしそうではない存在が、無敵と疑わなかった自分たちの将をあっさり焼き殺してしまったのだ。


 マリーベルも生きた心地はしなかった。「魔王は地獄の劫火を放った」と、本で読めば一行の文章に過ぎないが、実際その「地獄の劫火」とやらが目の前で放たれ、熱波が全身を打ち、網膜を焼き、大気の渇きに喉をひりつかせ、屠り去られる生命の断末魔を耳にすると、ワクワクする要素など一つも無い事が分かる。

 ただただ、アレがこちらを振り向きませんようにと祈るばかりであった。

 だが無情にも、その歩く厄災はすぐに次の標的に顔を向けた。

「……さあ、女。言え。魔法陣はどこだ?」

「ひぃっ」

「待て! お前の思い通りに……」

 そこまで言って、勇者は異常に気付いた。まだ燃え盛る魔王の炎から、重厚な鎧の音を響かせながら人影が歩み出てきたのだ。

 ゴブリンたちから驚愕と歓喜が入り混じったどよめきが起きる。


「火属性の完全耐性持ちか? 手を誤ったか……」

「どっちかって言うと、魔法の完全耐性じゃないの? あんたの魔法、闇属性も入ってるでしょ」

「ほう……気付いていたか。そうか、王都奪還戦の時だな。神聖術しか能の無い意気地なしの王子が一人で我が前に躍り出てきたのは血迷ったが故と思っていたが、まさか冥力の性質解析のためだったとはな」

「テオは勇気のある人よ。彼がいなければ、私たちはお前の所にたどり着く事もできなかった」

「城門を守らせていたはずの冥界獣がやられたのも、奴めのせいか」

「そうよ。テオが研究した複合属性防御魔法が、あいつの攻撃を防いでくれたわ」

「ふん、一番の雑魚と侮ったのは間違いだったな。奴こそ、いち早く息の根を止めておくべき漢だったか」

「胸アツな会話中に申し訳ないんですけどッ! 来ますよ! 来てますよッ!」


 万物を食らいつくさんばかりの獰猛な炎であったが、サイサリスは夏の日差しほどにも感じていないのか、くすぶり続ける篝火の中から悠然と姿を表した。

「驚いたぞ。魔女討伐のためにと、この廃魔の鎧を下賜されていなければ、今頃我が騎竜と運命を共にしていたろうな」

 サイサリスが搭乗していた生物は、まだ魔法の火に貪られている。辺りには既に、肉と脂が焼け、血と臓物が煮える異様な匂いが立ち込めていた。

 固い外皮に身を包み、荒野でも砂漠でも適応できる大型爬虫類の旺盛な生命力も、魔王の放つ大魔術の前には塵芥同然だった。そしてそれは稀代の戦士であるサイサリスにも言える事のはずだった。

「貴様の戦力は個が持ち得るそれとしては容認すべからぬ水準。何者かは知らぬが、我が主のためにまとめてここで死ね」

「ちょっ! ひと括りにしないで下さい!」

 マリーベルの悲鳴をよそに、サイサリスが剛槍を振って進撃してきた。

 魔王はもちろん、エルザとマリーベルも生かしておくつもりはない。そんな殺意がオーラとして立ち上っているかのようであったが、声の様子からは隠しきれない喜びが漏れ出ていた。

 一方、先程の魔法に恐れをなしたゴブリンたちは、遠巻きにこれを眺めるだけだった。ほとんどの者が弓矢はおろか、槍さえ構えていない。自らの将に加勢するつもりは無く、危なくなったら助勢しようという意志も感じられない。



 サイサリスはこの遠征において、率いる兵を厳選した。屈強無比の精鋭をではない。むしろその逆、練度も士気も最下級の弱兵を参集したのだ。

 廃魔の鎧がある以上、今回の目的である魔女討伐は赤子の手をひねるように容易い。簡単ではあるが重要な任務、そして下賜されるのが貴重な魔具であるが故、誰でもいいという訳にもいかず、結果四天王の中でも特に忠節に厚く勇猛なサイサリスに白羽の矢がたった。

 任命された栄誉も重要性も理解していたが、勇猛ゆえにその容易さが不満であった。

 だからサイサリスは己に枷を架す事にした。兵力を結集しているという情報を人間にもらし、これを迎え撃とうとする軍勢を最低の兵科で打ち破る。途上にある、小なりとは言え人間の街を速やかに落とし、そのまま攻め上って魔女を討つ、と。

 目論見はすべてが思い通りにいっている訳ではない。迎撃部隊は期待したより兵力が少なく、ただ野戦で力押しするだけで撃破できてしまった。反対に、迅速に攻略すべき都市は想像以上に善戦し、今日に至るまで陥落しなかった。

 おまけに全く未知の魔法使いに騎竜を奪われる始末。

 そして大剣と小剣の二刀を持ち、奇形の構えをとる剣士。この娘に葬られたゴブリンの数も無視し難い。

 だが、サイサリスは喜んでいた。まさに思惑通りに、思い通りにならない。枷は正しく機能し、頼れるのは己の武具と武勇のみ。

 武人の矜持を慰めるべく、戦姫は愛すべき敵に向かって駆けた。



「おい」

 魔王はサイサリスを注視しながらエルザに語りかけた。

「何よ」

「貴様、あれの相手をしろ」

「はあ? 何でお前なんかの言う事聞かなきゃいけないのよ。自分で相手すればいいでしょ」

「救いようの無い愚か者め。足腰の萎えた我が、練達の戦士を前に魔法抜きで戦える訳がなかろう。死にたくなければ貴様が奴を抑えるしかない。決着は、しばしおあずけだ」

 はっきり言って、エルザ自身にも相手が務まる自信は無かった。

 今まで理力やマジックアイテムを利用した戦い方だったので、真の戦士に剣の技量だけで立ち向かえるとは到底思えない。一年前はただの村娘だったのだし、旅立ってから戦った相手も殆どモンスターばかりなのだから無理もない。

 しかし窮地に立たされて四の五の言うのは彼女の性分ではなかったし、誰かがやらなければならない事を誰かに押し付けるのも彼女の流儀に反した。

「……別にあんたに言われたから戦うんじゃないからね。勘違いしないでよね!」

「ツンデレか!」

 マリーベルのツッコミを背に受けながら、エルザはサイサリスに突貫した。


 剣呑な穂先が唸りを上げて迫るのを、エルザは間一髪でかわす。理力が使えないためパワーとスピードは常人並みになったが、異常な勘の良さは健在だった。

 正統の剣筋でないが故、エルザの剣は予測困難な軌跡を描く。しかしサイサリスの反射神経も相当なもので、それぞれが独特な軌道で襲いかかる二刀を見事に捌ききり、痛烈に反撃した。

 マリーベルの目には互角の攻防に見えたが、魔王は早くもこの戦いが絶望的である事を悟っていた。

 エルザにはサイサリスの鎧を貫く腕力も、鎧の隙間を突く技術も無い。一方サイサリスの武力は、麾下の中でも突出した精兵だった憤怒のイグナーツと比べても見劣りしない。微かな読み違えも、理力の無い今のエルザには致命的となる。

「あぐっ!」

 案の定、槍がエルザの腹部を深く切り裂いた。鮮血が飛沫となって宙に散る。

 たまらず膝をついたエルザにとどめの一撃を浴びせようと槍を振りかぶるサイサリス。しかし穂先がエルザのおもてを割る寸前に、サイサリスは槍を引き戻して背後から繰り出された三叉槍を受け止めた。

 およそ剣戟とは思えない爆音が轟き、戦姫は吹き飛ばされて石畳を転がった。女の身でありながら、サイサリスは剛力で知られていた。だが、魔王の腕力はそれを軽々と凌駕した。彼女が身を起こす動作が緩慢であったのは、肉体よりも精神的なショックによるものだ。

 だが、魔王の方も少なからずショックを受けていた。

「ちっ、あれを防ぐか」

「……一応礼は言っとくわ……」

 結果的には魔王に助けられた形だが、タイミング的には、勇者がとどめを刺される瞬間にサイサリスを仕留めようという意図が透けて見える攻撃だった。

 他人の助勢や善意の裏側を疑わないのは、エルザの美徳にして致命的欠点である。

「大した膂力だ。次はお前が相手か」

 サイサリスが完全に身を起こす。倒れている隙を突けない事が、魔王には歯がゆかった。脚が思うように動かない今、ほんの数歩が途方もなく遠い。

 千里を踏破するが如き苦心で背後に忍び寄り、これ以上ない好機を捉えた乾坤一擲の不意打ちだったが、何が作用してか見事に防がれた。

「こやつが敗れた今、我が相手する他あるまい。技の限りを尽くして打ち込んでくるがいい。貴様の貧弱な攻撃など、悉く弾き返してくれる」

 安っぽい挑発以外に、魔王ができる事は無かった。

「まだ終わってないぞ!」

 その時、しばらくうずくまっていたエルザが突然立ち上がった。傷口を押さえていなければ内臓が飛び出てしまいそうなほどの深手だったはずなのに、裂けた服の隙間から見える白い肌には傷跡一つ残っていなかった。

 これにはこの場にいる全員が絶句した。

「何で!?」

「バカなっ!」

「バカかっ!」

 魔王だけは、驚きのニュアンスが少々違った。魔王だけが、エルザの治癒魔法の速度と深度を理解していたからだ。

「そのまま死んだふりをしていれば、不意を打つ機会を作ってやったものを!」

「あ、そっか。ゴメン。つい……」

 しょぼくれるエルザを、サイサリスは戦慄と共に見つめていた。

「……不死身……なのか?……ならば次は蘇れないよう、その首落としてやる!」

 サイサリスの抱いた畏れは、彼女の神技を僅かとは言え鈍らせた。絶え間ない猛攻でエルザを苛烈に攻め立てるが、あと一歩という所で直撃に至らない。

 躍起になって娘を追い込もうとすると、巨漢の異形から致命の一打が降ってくる。しかもその三叉槍は例外なく、巨象の如き強大なパワーを乗せて、蛇のように陰湿なタイミングで繰り出された。


 マリーベルは固唾を飲んで見守っていたが、やられてもやられても立ち向かっていく勇者の姿に、段々いても立ってもいられなくなった。元々何かに影響されやすい娘なのだから、勇者の放つ圧倒的な吸引力に引っ張り込まれないはずがなかった。

 胸の奥に燃え上がった戦意に突き動かされて、マリーベルは近くにあった瓦礫を拾い上げると、それを全力で投擲した。手にすっぽり収まるくらいの小さな礫だ。例え当たったところで、全身を鎧で覆う戦姫にはいささかの痛痒も与えまい。それを理解しながらも、マリーベルはそうせずにはいられなかった。

 小さな小さな攻撃。だがそれは、戦局に大きな一石を投じる事になった。

 修道女の投げ放った石は、案外いい角度で魔王の後頭部にぶち当たった。

「ぬおっ」

「そこだ!」

 一瞬の隙。サイサリスの放った必殺の一撃が魔王の胸板を正確に捉えた。切っ先が魔王の背中から銀の光を覗かせる。

 魔王の腹を蹴りつけて素早く槍を引き抜くと、エルザの斬撃を身を翻してかわし、そのまま槍の柄をエルザの脇腹に叩き込んだ。

 魔王は後ろにヨタヨタとさがると、もんどりうって倒れ、その傍らに吹っ飛ばされたエルザが叩きつけられた。

「……女よ……」

「すっ、スミマセン! 手元がトチ狂って!」

 魔王は丁度マリーベルの足元で仰向けに倒れていた。恨み言を言うためだけに、最期の力を振り絞ってここまで来たのかも知れない。


「魔王、まだ力は残ってる?」

「……白兵戦は望めんな」

「分かった。じゃあ今から私がアイツに突撃するから、あんたは私の背中に魔法をぶつけて」

 エルザはそう言いながら、大剣を鞘に納めて背中の掛け金に鞘を接続した。

 エルザの策略を即座に理解した魔王は、驚嘆と共に言わずにはいられなかった。

「……正気か?」

「頼んだわよ」

 言うが早いか、エルザはサイサリスに駆け出した。


 圧縮した瘴気の爆発力は凄まじいが、女神の祝福を受けた剣なら防げない事もない。その一撃で死ななければ、爆発の勢いで加速したエルザはサイサリスの鎧をも穿つ一撃をお見舞いできるだろう。

 要諦は二つ。

 一つは魔王を信じる事。命を散らせ、挙げ句にその死さえ弄ばれた仲間たちの事を思うと、この瞬間にも頭が沸騰しそうになる。

 だがマリーベルの存在が、衝動的な行動に出る事に歯止めをかけていた。

 魔王一人を討ったところで、エルザだけでサイサリスを含めたこの包囲を突破できるとは思えない。肝を嘗める思いで、勇者は魔王と共闘する道を選んだ。


 二つ目は集中力。

 急加速する世界の中で、正確に刃を突き立てなければならない。曲芸まがいの離れ技になる事は疑いない。当然にして、尋常ならざる集中が必要不可欠である。

 エルザはサイサリスだけに神経の全てを注ぎ込んだ。周りの景色が失せ、音は死に絶え、暗闇の荒野の中に、ただ二人だけがいるように錯覚する。時間は圧縮され、瞬きさえも緩慢に思える極限状態。

 髪の毛の一本一本の動きさえ掌握できそうな万能感の中、エルザは跳躍し、サイサリスに文字通り飛びかかった。

 戦いの申し子とでも言うべきサイサリスはこの好機を捉え、兜の下でニヤリと笑った。さあ来いとばかりに得物を大きく振りかぶる。エルザの無謀な特攻を迎え撃ち、一撃のもとに屠り去ろうという気構えが伝わってくるようだった。


 ある意味で、エルザの集中は不完全だったと言える。

 なぜなら、それに気付いたからだ。

 背後に膨れ上がる、禍々しい強烈な殺気に。


 エルザはとっさに小剣に封じられた風の精霊力を解き放って、空中で無理矢理方向転換する。

 刹那、魔王が投擲した三叉槍が凄まじい速度でエルザの鎧を掠めた。ほんの少し当たった程度だったが、その衝撃は一瞬にしてエルザの意識を刈り取った。

 そして槍は反応すらできなかったサイサリスの右腕を食いちぎり、赤い鮮血の軌跡を宙に描きながら、街を守る壁の一部を破砕して空の彼方へ飛び去った。

 槍がまとっていた衝撃波はサイサリスの頬面をかち上げていた。彼女はその端正な顔を驚きで彩りながら、槍を握り締めたまま石畳に転がる自分の腕を見た。そして何が起きたのか殆ど理解しないまま、白目をむいてゆっくりと後ろに倒れた。


 包囲していたゴブリンたちは、今度こそ恐慌状態に陥った。

 不死身の魔具使いは倒れたが、死んだとは思えなかった。と言うか、死なない者をどうやって殺せるのか、彼らには想像がつかなかった。しかも、サイサリスを討った巨躯の魔法使いは未だ健在である。アレの剛腕にかかれば、得物があろうと無かろうと関係無い。矮躯のゴブリンなど雑巾をねじ切るよりも容易くひねり潰されてしまうに違いない。そもそも魔法に対抗する手段が無いのだ。

 ゴブリンたちは恐怖の叫びを上げて逃げ惑った。元々士気の低い兵たちだ。サイサリスが討たれた現場にいなかった者も、教会から逃げてくる仲間たちの有り様を見て即座に戦意を失い、我先にと街の外へ駆け出した。



 敵を少しでも多く、深く誘い込むために道の入り組んだ区画で抵抗を続けていた兵士たちは、この流れを鋭敏に感じ取った。にわかには信じがたい気持ちで、総崩れになったゴブリンたちを追い立てる。

 生き残りは総勢十数名。対する敗残兵は二百余り。

 数だけを比較すれば、人間族の軍は確かに敗北していた。

 だが実際、大将を討たれ、戦意を失い、背を向けて遁走するのは魔王軍の方だった。


 ナイセル伯爵は叫んだ。恐怖に顔をひきつらせるゴブリンどもに剣を振りかざしながら、有らん限りの声で。

 それは勝ち鬨だった。

 傷一つ負っていない二百の兵を、ボロボロになった寡兵が散々に追い散らす。

 痛快なまでの大逆転。ナイセル伯爵は、この戦いは人間史に残ると確信した。奇跡の大勝利だと。

 そして奇跡の立役者は自分ではない。伯爵はマリーベルがそれなのだと疑わなかった。


 戦端が切られた直後、兵士の一人が、超然とした表情で教会に向かうシスターの姿を目撃していた。その後、光の柱が顕現したのも同じ方角。

 この驚くべき奇跡は敵の勢いを挫き、少なくない兵力とサイサリス自身を教会へと向かわせた。

 誘い込みには失敗した形だが、しかしだからこそ生き長らえる事ができたとも言える。

 そして、戦姫サイサリスが討たれたという吉報。あちらには一人の兵もいないはずなのに。

 恐らくマリーベルは、教会で神に救いを求める祈りを捧げたに違いない。そして神はその清らかな乙女の願いに応え、力をお示しになったのだ。きっとサイサリスは、神の怒りに触れて神罰を下されたのだろう。

 まさに奇跡としか表現しようがない。


「あなたのお陰です、シスター・マリーベル。いや、聖女マリーベル」


 彼方へ逃げ去っていく敵の背を見つめながら、彼は祈りのように呟いた。



 魔王は槍を投げ終えた姿勢のまま舌打ちした。

 正真正銘、最後の力を振り絞った攻撃だった。エルザは話も聞かずに飛び出していったが、実のところ魔王には魔法一発撃つだけの魔力さえ残されてはいなかったのだ。だがマリーベルの投石が、魔王に着想のきっかけを与えた。どうせ今少しで動かなくなる体ならと、思い切って唯一の武器を力一杯投げつけた。エルザの体を死角にして、二人共討ち取るつもりで投げたが、エルザが突如空中で身を翻した為に思惑は狂った。

 女神の祝福を受けた鎧にかすった槍は軌道を僅かに逸らし、サイサリスの片腕を奪うにとどまった。しかも偶然揚力のようなものが働いてしまい、槍は回収不能な彼方へ飛んでいってしまった。

「勇者め、悉く……我が邪魔ばかりしおって……」

 そして魔王は動かなくなった。


 マリーベルは倒れ臥した勇者に近付いた。先程までの激闘が嘘だったかのような、安らかな寝顔に見える。まさかと思って口元に顔を寄せると、息がある事がわかった。単に気を失っているだけのようだ。

 マリーベルは改めてその異世界から来た少女を観察した。剣も鎧も工芸品のように優美で、無骨さの欠片も感じさせない辺りが、この可憐な容貌に似合っていた。歳はマリーベルと同じくらいか、あるいは一つ二つ下かも知れない。栗毛色の髪は絹のようになめらかで、指通りにほんの微かな引っ掛かりも無い。

 はっきり言って、マリーベルは自分の容姿に自信があった。少なくとも並以上とは思っていたが、目の前の少女の美しさには比べるべくもなかった。

 強く、美しく、勇敢で、優しく、正義の心に満ち溢れている。

「これが男子だったらなぁ……」

 マリーベルの呟きは、彼方から響く勝ち鬨に溶けて消えた。


 突然、倒れていたサイサリスがむくりと上体を起こした。

「ひいっ!」

 マリーベルは心臓が止まるかと思うほど吃驚した。白目を剥いて口が半開きなのがまた恐ろしい。死者が蘇ったら丁度こんな感じだろうとマリーベルは震えた。

 しかし蘇ったサイサリスは、マリーベルの方を向いたまま、両脚を引きずりながら後ろ向きに移動し始めた。よく見れば一人のゴブリンがサイサリスを担いで逃げようとしているだけなのが分かった。

「なーんだ、驚かせないでよ……って、ちょ、ちょっと!」

 サイサリスは死んでいない。普通あの傷では助からない可能性の方が高いのだが、マリーベルが読んできた幾つもの物語では、大抵こういう場合一命を取り留め、腕と誇りを奪われたとかで復讐心を燃え上がらせ、後々大きな障害となって勇者の前に立ちふさがるものなのだ。

 彼女はこうした一連の流れの起点となる事象や発言を、独自に前振り(フラグ)と呼んでいた。無闇に「生きて帰れたら○○○するんだ」などと言う登場人物は早死にするという法則も、この発言がフラグになっているというのがマリーベルの持論である。あとは「聖女」という肩書きも、死亡率を格段に上げるフラグの一種に分けられる。

「ど、どうしよう? 私がやる? ムリムリ! 絶対できない!」

 サイサリスにとどめを刺す前に、あるいは上手くとどめを刺した後でも、あのゴブリンが襲いかかって来るだろう。ゴブリンの力は魔王軍における最底辺に当たるが、か弱い修道女ではその最低戦力にさえ太刀打ちできない。

 だいたい、ここで「やらせるかっ!」と躍り掛かる事自体が死亡フラグなのだから、絶対にそんな事をすべきではない。

 結局マリーベルは、サイサリスを抱えたゴブリンが、魔王が槍を投げて壁が崩れた所から逃げ去るのを、ただオロオロしながら見ている事しかできなかった。




 サイサリスは動かなかった。四肢を欠損するほどの激痛だ。豪勇無比の戦姫といえども、気を失わずにはいられなかった。

 二の腕の半ばから先は失われ、放置されたままなら、それ程時を待たずして絶命していただろう。

 サイサリスをおぶうゴブリンは、武勇も知恵も品性も持ち合わせていないという点では並のゴブリンだったが、他の仲間とは相容れずによく諍いを起こし、常に上官の手を煩わせたために問題児扱いされ、今回サイサリスが求めた「劣等兵」に推挙された。

 彼はよろよろと走った。矮躯のゴブリンのどこにそんな力があったのだろう。その足元は不確かながらも、決して休む事はなかった。

「サイサリス様、ご辛抱下せえ。必ず助けてご覧にいれやす……!」

 このゴブリンの異端は、ゴブリンらしからぬ忠義にあった。残虐で臆病で野卑ではあったが、魔王や四天王に対して並々ならぬ忠誠心を持っていたのだ。

 ゴブリンたちは暇さえあれば誰かを妬み、自分たちより優れた者を罵っている種族だ。だが鉾先が魔王や四天王に向くと、このゴブリンは黙っていなかった。必ず掴み合いの喧嘩になり、結果として仲間から疎外され、落伍者の烙印を押された。

 だが、それも彼にとっては幸運だったのかも知れない。持て余していた忠義心を、こうして満足させる事ができたのだから。

「そうだ、生きて帰れたらサイサリス様の直属にしてもらおう。きっと聞き届けて下さるに違えねえ!」

 ゴブリンは嬉しそうに、マリーベルの言うところの「絶対に言ってはならない言葉」を口にした。


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