失われた力
空気が凍りついてからどれほどの時間が経過したか。マリーベルは勇者降臨の奇跡に、明らかに余計なものが付属している事に完全に虚を突かれ、呆気にとられていた。
これはアレか、勇者が旅をして魔王の根城に挑むという過程をぶっ飛ばし、勇者vs魔王という結果だけが残ったという事か、と荒唐無稽な考えに至ったところで、ようやく時は動き出した。
一番に我に返ったのは魔王であった。打ち合わせた状態のままだった槍を引き戻すと、その拍子に体勢を崩した勇者に向けて横薙ぎの一閃を放った。
呆然としていた勇者も一瞬で緊張感を取り戻し、三叉槍の一撃をかいくぐると、魔王の頭部に強烈な斬撃をお見舞いした。
ガーン! と景気のいい音が礼拝堂に響き渡る。
おお、空前絶後の死闘が始まったとマリーベルは危険も忘れて身を乗り出したが、勇者は剣を取り落とし痺れた手を抑えて情けなく呻き、魔王は酔っ払いのようにギクシャクとよろめいて無様にひっくり返ったのを見て、喜色に輝く目を半眼にした。
「り、理力が使えない!?」
「くっ、冥力が弱い……!」
明らかに本調子ではない二人の異邦人は、マリーベルの眼前で滑稽劇さながらの戦闘を続けた。
ある意味で両者の力量は拮抗していたが、それはマリーベルが求めていた戦闘風景とはあまりにもかけ離れていた。
勇者の剣は素人目にも分かるほど洗練されておらず、魔王はその巨体のバランスを維持する事に全精力を注いでいるらしかった。
戦いは永遠に終わりそうもない。何しろ、勇者は大剣を全弾直撃させていたが、魔王の体は途方もなく頑丈であるらしく、全く通用していない様子だった。一方、魔王は打たれ強さの他に恐ろしい腕力も兼ね備えているようだったが、勇者の動きに全くついて行けず、攻撃が当たる気配が無い。
その内、勇者が剣でボカボカ殴って、魔王がそれを両手で庇うという子供の喧嘩のような状態になってようやく、
「待て! ちょっと待て!」
魔王が休戦を申し出た。
剣を大きく振り上げた勇者は一瞬ためらったが、ついにそれを振り下ろす事はなかった。
「何、降参?」
勇者は荒い息遣いで気炎を吐く。台詞までもが子供の喧嘩じみているとマリーベルは思わずにいられなかった。
魔王は自分から攻撃を再開した事を棚に上げて、尊大な様子で言った。
「愚昧な猪め。貴様を葬るのは後回しにしておいてやると言っているのだ。おい、そこの女」
魔王は山羊の頭骨のような顔をマリーベルに向けた。
「はっ、はい!?」
四脚椅子の背もたれに覆い被さるようなだらしない格好で二人の様子を眺めていたマリーベルは、ぴょこんと立ち上がった。
「さっきのアレは転移召喚陣か? お前が執行者だな?」
文法的には質問形式だが、自信に満ちた声からは、その問いの答えは是以外に無いという確信が伝わってきた。つまりこれは、質問ではなく尋問なのだ。
「ち、違います。無実です。清廉潔白、青天白日、無罪放免、奇想天外なただの修道女です」
よく分からないが、何かの嫌疑をかけられているのは明白だったので、思いつく限りの語彙を尽くして否定した。
「え、召喚?」
エルザの困惑した声に、魔王はあからさまな侮蔑を乗せて言い放った。
「気付け、愚物め。貴様の理力が使えないとなれば、ここはあの忌々しい女神の管轄外の場所だ」
「っ! 女神様のご加護が届かない場所なんて、世界中どこ探しだってある訳ないじゃない!」
「浅慮な虫けらめ。それこそが、あまたある異世界の一つに召喚された証左である事が何故分からん」
証拠はそれだけではなかった。自らが無限の冥力を引き出していた冥界門との繋がりが途絶えた事も、魔王の仮説を裏付けていた。
魔道に長けた魔王は、世界が単一ではなく、位相を変えて幾つも存在する事を知っていた。それらは巨大な樹に茂る葉のように、それぞれが独立した別のものでありながら、根幹を一にしているのだ。
睨みつけてくる勇者を尻目に、魔王はマリーベルにずいと顔を寄せた。
「女、魔法陣はどこだ? 術式を解析し、書き換えて我が居城に帰還する」
「知りません! 私には何の事だかさっぱり分かりません~!」
黒々とした眼窩に灯る光点が危険な色を孕んだように感じたマリーベルは、台詞の途中で踵を返して走り出した。
「待てい!」
「あ、待って!」
2人の異邦人が追いかけてくる。
マリーベルは鍛え上げた脚力にものを言わせて、遮二無二駆けた。
マリーベルがこよなく愛する冒険活劇の中には、異世界からの召喚ものというジャンルがある。その王道といえば、呼び出された勇者は魔王を倒すまで帰れないという設定だ。
しかし、まさか当の魔王に対して「あなたが死ねば帰れるでしょう」とは言えない。
あるいは、これは神の奇跡だから神様に言ってくれと答えるべきだったか。
マリーベルは自問に対して自答した。もし自分が魔王だったら、そんな事言ったやつを全力で張り倒してやるだろう、と。
礼拝堂の扉をくぐって廊下を駆け抜け、階段を飛び降り、走って走って走り抜き、教会から出た所で急停止した。
「ねえ、ちょっと待ってってば!」
少し遅れて現れたエルザも、マリーベルの傍まで来て足を止めた。
警戒感をむき出しにしたゴブリンの軍勢が、槍を構えて十重二十重に教会を囲んでいたからだ。
勇者の表情が緊張に引き締まった。
一方、マリーベルは絶望で表情が抜け落ちた。守備隊は恐らく壊滅。奇跡が起きて勇者が召喚されたけど、はっきり言って期待できない。しかも魔王付き。
終わった。何もかも。年齢=彼氏いない歴のまま、何一つ贅沢な暮らしができないまま死んでいくんだと思うと悲しくなった。
そんな彼女を守るように、勇者がゴブリンたちの前に立ちふさがった。
ああ、流石勇者様。これが強くて格好良い男子だったら申し分ないのに、あんまり強くない上に、自分より可愛い女子なのだから嫌になるわ、とマリーベルは絶望のあまり半笑いになりながら思った。
ゴブリンたちは油断無く槍を構えたまま二人ににじり寄った。その顔は例外なく緊張に硬くなっている。彼らも教会の屋根から光の柱が立ち上るのを目撃したのだ。もし猛将として名高いサイサリスではなく、凡庸な将に率いられていたのであれば、算を乱して逃走していたかも知れない。今まで見たことも聞いたことも無い現象を目の当たりにして、尚且つその偵察を命じられれば、おっかなびっくり教会を包囲する彼らの様子も頷けるというものだ。
エルザはその士気の亀裂を鋭く看破していた。彼女はジリジリと間合いを詰めてくる槍衾を大剣と視線で牽制しながら、片手を腰の後ろに回した。そして、そこに差してあった小剣の柄を逆手に握ると、ゆっくりとそれを鞘走らせた。
その片刃の刀身には、筆致自体に芸術性を持つほど優美な魔法文字が刻まれている。鍔や柄は細緻な装飾が施されており、特に柄頭の緑の宝石は、戦場においてさえ見る者の目を奪った。
左手に大剣、右手に小剣の逆手持ちとアンバランスに拍車がかかった異邦の少女は、小剣を後ろに隠すように構え、
「お願い。力を貸して、シルフ……!」
それを振り抜いた。
途端、離れた場所にいた何人ものゴブリンが不可視の刃に切り裂かれ、血まみれになって石畳に転がった。
何が起こったか理解できなかったゴブリンたちは一瞬固まった。勇者はその一瞬を見逃さず、大剣で槍を払い、小剣に封じられた魔力でゴブリンを次々に屠る。
「魔具! 初めて見た。すげーよ勇者様! カッコイイっすゥ!」
マリーベルは快哉を上げた。勇者の剣は冴え渡っていた。瞬く間に敵の数を減らしていく。先程のアレは何だったのかと問い詰めたくなる。実際のところ、当たるを幸いに風の刃を乱発しているだけなのだが、修道女は両手を挙げて勇者を喝采した。
その時、浮かれたマリーベルに近付く小さな影があった。短剣を胸元に構えたゴブリンは勇者の背後に回ろうとしていた。その途上にあるマリーベルを排除するつもりか、あるいは人質にとろうというのか。
しかし、その答えは永久に分からなくなった。マリーベルたちの頭上、教会の礼拝堂付近の窓が吹き飛んだかと思うと、漆黒の大きな人影が壁の一部を粉砕しながら空中に飛び出し、短剣を構えたゴブリンの上に着地したのだ。ゴブリンは一瞬にして、石畳に咲く真っ赤で歪な花に変わった。
「逃がさんぞ、女」
轟音と共に参上した黒衣の化け物に、ゴブリンたちとマリーベルは完全に恐慌状態に陥った。
ゴブリンたちは総崩れだった。一人が逃げ出したのを皮きりに、次から次へとそれに続いた。勇者はそれを横目に見ながら、再び魔王に対峙した。
「この人を殺させやしないぞ、魔王」
「殺しはせん。少々話を聞くだけだ」
魔王は凶悪な雰囲気の漂う槍を杖代わりにしながら、一歩ずつマリーベルに近付いた。空いた方の手は、関節の駆動とパワーを確かめるようにゴキリゴキリと動かしている。足には踏み潰したゴブリンの残骸が絡まり、ズルズルと引きずられながら魔王の足跡を赤く彩った。
「ひぃっ!」
「そんな怖い話の聞き方があるかー!」
勇者が凛とした態度で高らかにツッコミを入れた時、逃走していたゴブリンたちの足が止まった。
魔王も勇者もただならぬ気配を感じてそちらを見やると、教会前の小広場に奇怪な生物に搭乗した騎兵が一騎入ってくるところだった。体高が人間の背丈ほどもある、巨大なトカゲに似た生物。それに騎乗する騎士は、至るところに奇妙な紋様を刻まれた金属の鎧で全身を覆い尽くし、手には通常のものより遥かに太く長い剛槍が握られている。体格は人間族と同等で、明らかにゴブリンとは一線を画するオーラを放っていた。