末路
部屋は再び薄暗く、密やかになった。事前と事後の違いと言えば、居合わせた人間の表情だけである。フィリップや麾下はもちろん、魔女さえもが頭上に疑問符を浮かべて当惑していた。
空前にして絶後の大魔術は成功したかに見えた。何か途方もない事が起きるという確信を全員が持っていた。しかし、その成果物がどこにも無い。フィリップは幻を見ていたのかと考えたが、部下たちの様子から察するに、この超常現象を目撃したのは自分だけではないと判じた。
ふと、老婆が何やらぶつぶつ呟いている声がフィリップの耳に入ってきた。
「……何故? 確かに術式は正しく作動したし、力ある存在を捕捉した感触もあったのに……触媒が足りぬのか? グリフォンの風切り羽根か、あるいはアマルガムが必要……」
フィリップは愕然とした。この老婆が天才的な詐欺師である事を確信したからだ。
焚かれた香には幻覚、催眠効果があったのだろう。秀逸なのはそれ単体で用いるのではなく、この部屋の雰囲気や老婆自身の風貌をも舞台装置として用い、催眠効果を高めた事だ。長時間に渡って儀式を行い、肉体と精神を疲労させたのも、この周到な罠の一部なのだろう。
今まで散々騙されてきた分、フィリップはこうした手口にかなり詳しくなっていた。だからその思考も手に取るように読み取れる。今の独り言も、フィリップにわざと聞かせたのだ。ともすると聞き逃してしまいそうな呟きであったのが、また憎らしい。恐らく、老婆は「もう少しのところで失敗した。もっと高級な道具が必要になる」とさえずるだろう。
フィリップは死罪人の弁明を待つ裁判官のような、あるいは裁判官の判決を待つ死罪人のような気持ちで、ただただ黙っていた。
すると、老婆はフィリップに向き直って言った。
「殿下、申し訳ございません。今少しのところでごさいましたのに……しかし機会さえ与えてくだされば、次は必ずや成功いたしまする。ただ……同じ事をしていても同じく失敗に終わるでしょう」
ここで老婆はもったいぶるように一拍置いた。
「さらに強力な魔術の行使には、相応の材料が必要となりまする。しかし、それらは往々にして手に入りにくいものでございまして……」
「よい。よいのだ、魔女殿」
言い募ろうとする老婆を、フィリップは手で制した。その表情は冷たい怒りと失望に彩られていたが、老婆はそれに気付かなかった。
「おお、それでは……」
「そなたは真の魔女だ。疑いなく。誰が何と言おうとも、私は反駁を許すまい」
老婆はその固い響きを感じ取って怪訝な表情を浮かべた。
フィリップは後ろに控えた兵に冷酷な声で告げた。
「この魔女を捕らえろ。神に唾吐くおぞましい魔術儀式を行い、人心を惑わし、堕落せしめ、また存在自体が教会を冒涜している罪によってだ」
兵士の反応は素早かった。老婆が驚きに目を見開いているうちに、両脇から腕を押さえつけると、乱暴に引きずりながら部屋を退出した。
老婆の驚きと怒りの声が、残響となって薄暗い部屋に木霊する。
フィリップは虚脱して天を仰いだ。神に救いを求める者の気持ちが、今なら分かる気がした。
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轟音と共に、魔法装置に接続された管の一つが床に落ちて砕けた。
荒海で鍛えられた海賊たちは声こそ上げなかったが、一様にその表情を恐怖に塗り固めていた。
「くそ! なんてこった!」
所々が爆発し、赤い炎を覗かせている巨大魔法装置を見上げながら、女海賊は毒づいた。
苦労して見つけ出した古代の遺産は、ほんの僅かな富も生み出す事無く、たった一回の試運転にも耐えられずに崩壊しようとしていた。
確かに強大なエネルギーが収束したはずだった。正しく機能し、望ましい結果を残すはずだった。
しかし彼女の前には何も無い。装置は発動しなかったのか。しかしそうなると、あれほどのエネルギーが何処へ消えてしまったのだろう。女海賊には全く訳が分からなかった。経験上、あれは爆発を始める前に機能を十全に発揮したように見えたからだ。
歯ぎしりする女海賊のすぐ横に、大の男でも抱えきれない太さの管が落下した。
「船長、早く逃げやしょうぜ!」
宝の山と信じていたために、その落胆は大きい。豪放磊落な女海賊の判断を遅らせたのは未練であった。
「……くそったれ! 野郎ども、退散だ!」
装置の崩壊の余波は古代遺跡全体に及んでいた。地響きと爆発音が海賊たちの怒号をも掻き消す。
息せききって走る海賊たちの背後で一際大きな爆発が起きたかと思うと、ついに本格的な崩落が始まった。
荒波に揺られる甲板の上でも平気な彼らだったが、地震の如きその振動は勝手が違った。足を取られて転ぶ者も多く、そうならなかったとしても酩酊者のように千鳥足になって思うように前へ進めない。
彼方に見える太陽の光は、降り注ぐ瓦礫によって瞬く間に小さくなっていった。
最後に女海賊が上げた怒りと恐怖の叫びだけが、その隙間を縫って外界に飛び出した。しかし内と外を隔絶する最後の瓦礫が落ちた時、遺跡の中からはついに、断末魔の一つさえ聞こえなくなった。
そして絶海の孤島は、今まで何百年もそうであったように、再び冷たい沈黙のヴェールを被りなおした。