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ファイナルバトル

長いです。

「開け、冥界門」


 魔王の厳かな声が広大な玉座の間に朗々と響き渡った。 

 魔王が召喚した大きく禍々しい扉が、地鳴りのような音をたてながらゆっくりと開いていく。

 何もない空間に扉だけがある状態なのに、開いた扉の隙間から見える景色は玉座の間の向こう側ではなく、瘴気渦巻く暗闇の世界だった。

 山羊の頭骸骨のような頭部を持つ魔王の眼窩で、紅い光がチラチラと揺らめく。そして黒い衣を翻すように独特のリズムで足を三度踏み鳴らすと、にわかに瘴気の潮流が変化して、扉の外へと動き出した。


「くそ! これじゃキリがねーぞ!」

 禍々しいレリーフの刻まれた、しかしある種の荘厳さ放つ冥界の扉は、この戦いが始まってから幾たびも死せる兵士たちを吐き出してきた。

「もうへばったか? 少年。俺の後ろに隠れて休憩してても良いんだぞ?」

「……! 誰が!」

 魔術師リヒターのひねくれた激励に、再び士気を取り戻した騎士レオンハルトは、赤い炎をまとったランスを構えなおした。


 勇者エルザは愛らしい桃色の唇を一文字に結んで魔王と冥界門を睨みつけた。

 魔王が召喚した骸骨兵士たちの残骸が眼前にうずたかく積み上げられている。

 冥界から召喚され、無理やり戦わされる哀れな兵士たちは、残念ながら一刻も早く打ち倒してこの苦しみから解放してやる以外に救済するすべはなかった。

 エルザは怒りに燃えていた。暗く開け放たれた冥界の扉から何が飛び出してこようとも、必ず一刀の下に打ち砕く。一撃必殺を決意して剣を構えなおした彼女は、しかし暗黒の彼方から現れた者を見た途端に剣を取り落としそうになった。

 冥界から呼び出された3つの人影は、全て彼女がよく知っている人物だった。

「ベルント兄ぃ、ハインリヒ様、フローラ様まで……!」


 魔王の大軍に王城が攻め滅ぼされた時、エルザたちを逃がすために魔王軍に寡兵を率いて突撃し、無敵と呼ばれた黒竜騎兵たち相手に一歩も退かずに凄絶な討ち死にを遂げたハインリヒ卿。

 エルザが故郷の村で兄と慕っていたベルントは、四天王が一角、絶望の将ザイスミッシュと相討ちになったはずだった。

 聖剣の封印を解くために大儀式を行い、女神の寄代となって奇跡を起こしたその代償に命を失った聖女フローラもいた。

 懐かしい顔ぶれは、決して二度と会えないと思っていた仲間たちだった。

 しかし今、彼らは魂を辱められ、いまわの際の無残な様相のままエルザたちの前に姿を表した。

 魔王の奴隷として、勇者を殺す為に。


「……魔王っ! 絶対に許さない!」

 エルザはそう叫びながら、床の敷石が砕け散るほどの勢いで駆け出すと、剣を振りかざしながら魔王に突進した。

 閃光と見紛う、空間ごと断つような一撃は、重戦士ベルントの分厚い戦斧に受け止められる。

 そして一瞬の間断もなく振るわれたハインリヒの剣がエルザを捉えた。切っ先がエルザの体に触れた瞬間、凄まじい電撃が炸裂し、小柄なエルザが吹き飛ばされる。

「ホーリーレイ……」

「13番、死神の鎌!」

 追い討ちとばかりに、フローラの放った無数の光弾がエルザに襲いかかるが、間髪入れず発動させたリヒターの呪文がその全てを打ち消す。

 空中で体をひねったエルザは、怒りと悲しみが入り混じった表情で着地する。

「どうだ、かつて我の手を煩わせた実力者をそろえたぞ。お前たちのためだけにな。光栄に思うがいい」

 魔王が愉悦の色を混ぜた声で命令する。

「さあ、殺せ。勇者を名乗る不心得者とその一味を悉く誅戮するのだ」

 かつて命を賭してエルザたちを助けた者たちが、一斉に襲いかかってきた。




■□■□■□■□■




 魔王城の外郭たる城壁、城門、そびえ立つ外殻塔、門塔は恐ろしく堅牢であった。

 対空、対地、対魔術、あらゆる方面に完璧な防備を施され、万の軍勢に包囲されても小揺るぎもしない。

 一方、玉座の間がある居館や、そこに併設された大尖塔は禍々しくも壮麗な芸術品のようだった。その妖しい美しさは傾国の毒婦の如き魅力と危うさを兼ね備え、戦略的機能を持たずとも敵兵の士気を挫き、屈服させ得る威圧感を放っていた。


 そんな魔王城の心臓部とも言うべき場所に行くには、空を飛ばない限りは必ず中枢区へと通じる中央階段を通らなければならない。

 今、その見事に磨かれた大理石の階段には魔王軍の兵士が累々と横たわり、床に敷かれた豪奢な絨毯は余すところ無く血に染まっていた。


「こんなもんか? 不甲斐ないな。近衛ともあろうものが、たった一騎にこのザマか」

 階段半ばで傲然と胸をそびやかすように佇む男が吐き捨てた。

 ここに殺到した近衛兵の数は百をゆうに超えていた。しかし魔王軍の中でも特に精強である彼らがその数を半分に減らしてさえ、ただの一兵たりとも男の後ろにある居館へ進む事ができなかった。


 侮辱され、怒り心頭に発した魔族の近衛兵が一人、雄叫びを上げて階段を駆け上った。鎧兜に身を固めた偉丈夫であったが、手にした得物を振りかぶる前に男の拳に顔面を砕かれた。

 巨体が高々と宙を舞うと、美しい放物線を描いて階下の兵団の足下にぐしゃりと着地した。

 歴戦の兵たちが、我知らず一歩後ずさる。

「骨のある奴は居ないのか? 退屈過ぎてムカついてきたぞ」

 男の両手に闘氣の輝きが宿る。四天王の一角、憤怒のイグナーツ。単純な肉弾戦においては魔王軍随一の強者である。その彼が裏切ったという動揺を抜きにしたとしても、近衛兵団にはイグナーツに互する戦闘力を持つ者はいなかった。


 イグナーツの遥か後方では、勇者一行が魔王と交戦している。

 しかし最後の防衛線であるべき中央階段が押さえられた今、魔王城の強固な防御機能は魔王軍にとって足枷でしかなかった。

 近衛兵は歯噛みして裏切り者を見上げるしかなかった。


 その時、屈強な近衛兵たちの間から魔族の青年が進み出てきた。スラリとした痩身で、礼服を見事に着こなしていた。端正な顔立ちではあったが、感情や生気のようなものが一切見受けられず、二重の意味で工芸品のような雰囲気をまとっている。

 戦場には全くそぐわないエレガントな動作で、青年はイグナーツに軽く一礼した。

「お久しぶりでございます、イグナーツ様。陛下のご命令に背いて勇者どもに挑み、その後音信不通になられたので、名誉ある戦死を遂げられたのだとばかり思っておりましたのに」

 青年の慇懃な態度にイグナーツは眉をしかめた。場違いな装いの執事が荒事のど真ん中に現れたのを訝しんだというのもあるが、イグナーツはかねてからこの青瓢箪が気に食わなかったので、単に不快感を露わにしたというのが実情だった。

「おめもじ叶ったと思えばこの有り様とは……一体どういう風の吹き回しでございましょう」

「どうもこうもねえ。ちょいと退屈だから、魔王軍にいるのをやめにしただけだ。すっこんでろ、クラウス」

「いえいえ、イグナーツ様。そちらの事ではございません」

 クラウスと呼ばれた執事は無表情のままかぶりを振った。

「誠に恐縮ではございますが、あなた様がいずれ無為に野垂れ死になさるか、あるいは薄汚く裏切るかどちらかになる事は誰もが察するところでございました。ただ……」

 イグナーツは今度こそ疑問のために眉根を寄せた。

「狂犬の如き凶暴さと目的意識の無さでは並ぶ者無きあなた様が、ここを守る。そう、敵の喉笛に食らいつく事にしか関心を示されなかったイグナーツ様が守るなどと……」

「わーかった、わかった。らしくねーって言いたいんだろ?」

 絶え間なく毒を垂れ流すクラウスを遮って、イグナーツは呆れたように言った。

「別に変わっちゃいねえよ。俺は強くなる事と、それを確かめる事しか興味が無え。ただ……」


 イグナーツは勇者たちとの戦いを思い出した。憤怒などという号をつけられ、自分でもそれが正鵠を射ていると思っていたが、エルザの怒りはイグナーツの憤怒を遥かに凌駕していた。

 仲間が傷つけられる度に、彼女の力は無尽蔵に高まった。

 そしてその力が最大限に発揮されたのは、逃げ遅れたらしい幼い少女を後ろに庇った時だった。


「その守るってやつが、案外強くしてくれるらしい事がわかったんでな」

 イグナーツは肉食獣のような顔には相応しからぬ険の無い笑みを僅かに浮かべた。

「やれやれ、あのような小娘に骨抜きにされるとは。恐れながら、やはりあなた様は四天王には相応しくない犬畜生であったようですね」

 そう抑揚無く言い放つと、黒服の若い執事は定規で計ったような淀みない足取りで、静かに階段を上り始めた。

「誠に差し出がましいようですが、近衛の皆様はおさがり下さいませ」

 クラウスは振り返りもせず、凍りついたように動けない近衛たちに冷然と言い放った。


 イグナーツは驚嘆すると共に感心もしていた。いつも魔王の陰に隠れて毒を吐くだけの太鼓持ちだと思っていたが、どうやら評価を改めなければならない。

 一定の歩速で階段を上るクラウスは、イグナーツの間合いに無造作に侵入した。イグナーツほどの練者ともなると、それを引き金にして考えるより早く体が反応する。無拍子と呼ばれる予備動作ゼロの神技は、瞬く間も与えずにクラウスの顔面を捉えた。

 だが、痩身の執事は何の痛痒も感じていないように、反撃の拳を繰り出す。意表を突かれたイグナーツはその拳打をまともに食らって吹き飛ばされた。

 信じられないものを見るような目で、元四天王の男は毒舌家の執事を呆然と見つめる。

「このような事をお伝えするのは大変心苦しい事ではございますが、あなた様は重大な勘違いをなさっておられます」

 クラウスは全く心苦しくはなさそうに言葉を続けた。

「【憤怒】【絶望】【悲哀】【憎悪】……忌々しい勇者どもめに不甲斐なく敗れたとはいえ、四天王の皆様は大変に強大な存在ではございました。しかしながら、我が魔王軍の特級戦力は皆様だけではないのでございます」


 イグナーツは確かに気付くべきであった。かねてから、魔王の傍らに立つこの執事からは全く闘気を感じなかった事に。ほんの少しも。微かにさえ。


 奇妙にしんと静まり返った中央階段に、クラウスの声が虚ろに木霊した。


「私が授かった号は【虚無】。僭越ながら、四天王の皆様に優越する位を戴いております」




■□■□■□■□■




 弓弦が鳴るたびに、羽を持つ魔獣が甲高い咆哮ひとつを残して墜落していく。


 しかしそれを最後まで見届けることは無い。つばの広い帽子の陰から覗く鷹のような眼差しは、矢を射る一瞬を除いて常に一体の魔物を見据えていた。

 それは小屋ほどもある巨大な眼であった。暗灰色の皮膜に覆われた、眼球と瞼だけの不気味な姿。それが魔王城の尖塔に陣取った狩人アルムブレストさえも見下ろすような高度に浮かんでいた。


 魔王城最大の航空戦力、魔獣ストームアイ。


 虚ろな眼差しの半眼を中心に風が渦を巻く。ゆっくりと瞼が持ち上げられ、矢をつがえたアルムブレストを見据える。魔性の瞳が妖しく輝く。

 刹那、魔王城の上空に立ち込めた暗雲から一条の雷が降り注いだ。

「ホーリーサークル!」

 あわや直撃というところで、神官テオドールの防御魔法が雷を防いだ。

 次の瞬間、アルムブレストの手から矢が放たれた。しかし矢は風によって逸らされ、魔眼の脇を抜けて遥か彼方へ消えていく。


 幾度となく繰り返された攻防。もはや尖塔の屋根は跡形もなく消し飛び、最上階に立つ彼等を隠す物は無い。壁もほとんど崩れ落ちているため、本来なら弓箭部隊の恰好の餌食となるところだ。

 だが、既に対空兵器を操る地上兵科は粗方沈黙している。アルムブレストによって叩き潰されたのだ。

 残っているのは僅かな弓兵と飛行能力がある魔物、そして最大の障害であるストームアイ。

 終局は近づいてきている。


「やはり、奴はこれ以上接近してこないですね」

「俺の間合いを完全に見切ったのだろうな……」

「この距離なら風の壁を貫通されず、なおかつ雷の威力と精度を保てる、と……」

 テオドールの言葉は冷静だったが、その声には焦りの色が見えた。

「これではジワジワなぶり殺されるのを待つだけです」

「いや、奴も苛立っている。自慢の雷を立て続けに防がれているのだ。しかもお互い防御にはまだ余力がある。必ずもっと近づいてくる」

「……分かりました。アルムブレスト、貴方を信じます」

 アルムブレストは何も言わなかったが、内心では嘆息していた。こういった場面では必ず取り乱していたテオドールが、恐怖を感じながらもそれを御している。

 彼等は旅の間に強くなったが、精神的な成長率はテオドールが一番かも知れない。


 アルムブレストが再び矢を射る。魔獣の一匹がまた墜落していく。

 もはや残り数匹となった魔獣は、ついに尖塔から離れて遠巻きに旋回するだけになった。

 するとストームアイが空中を滑るように、ゆっくりと塔に近づいていく。


「来ました!」

「決めにきたな」

 アルムブレストが張り詰めた表情で弦を引き絞る。ストームアイの瞳が危険な輝きを帯びる。

 嵐のような暴風が吹き荒れる中、テオドールは一瞬、全ての音が死んだかのような奇妙な静寂を感じた。


 射撃と雷撃はほぼ同時だった。


 鋭い風切り音をたてて矢が放たれる。轟音と共に落雷が襲いかかる。

「ホーリーサークル!」

 重たい金属同士を叩きつけあったような音が鳴り響き、雷撃は白く輝く光の盾にかき消された。

 だが、空にかざしたテオドールの両手に、更に衝撃がはしる。稲光と雷鳴が次々に発生し、いびつな光の柱が幾条も尖塔に降り注ぐ。

 対するアルムブレストもテオドールの魔法に守られながら、有らん限りの速度で矢を連射した。だが、矢の全てが軌道を逸らされ、あらぬ方へと消えていく。

 テオドールはアルムブレストが矢を射る一瞬だけ結界を解除していたが、ストームアイが接近するほど次の雷撃までの間隔が短くなり、ついには間断なく襲いかかる電光に反撃する隙さえなくなった。

 障壁にはじかれた雷撃は、魔王城や塔の下部の壁を穿ち、破砕する。

 両手を頭上にかかげたテオドールも、まるで何かに押し潰されそうになっているかのように、苦悶の表情を浮かべて片膝をついた。

 アルムブレストの右手は、超人的な回転数の速射に耐えきれず、革の手袋がズタズタに破れて中から朱に染まった指が痛々しく覗いている。


 何もかもが限界を迎えているにもかかわらず、敵の損耗は皆無であった。誰が見ても状況は絶望的。

「アルムブレスト! 僕が必ず貴方を守ります! だから!」

 テオドールの少女のような顔は苦痛に歪んでいたが、それでもその中にある決意と覚悟は微塵も揺らいではいなかった。

「ああ」

 アルムブレストは短く答えた。そして血まみれの右手を見つめて、その手を握ったり開いたりしてみせる。テオドールはその無表情の中に僅かな喜色を見て取った。


 ようやく本気で撃てる、と。


 敵を欺くためとは言え、ここまで好き放題に攻撃されながらも弓勢を抑えることは、プライドの高い彼にとって度し難い苦痛であった。

 アルムブレストは腰に束さんだ美術品のように優美な矢を引き抜き、今度こそ全力でそれを引き絞った。

弓と弦がギリギリと小気味良い音をたてる。

 いや、雷鳴によって耳が利かなくなってきたので、本当に聞こえた訳ではない。ただ腕に伝わる微かな振動が、記憶の中にある音を再生したに過ぎない。それほどに矢を撃ってきたのだ。幼い頃から培ってきた感覚に身をゆだね、彼は最大まで引き絞った弦を解き放った。


 ドワーフの名工が鍛え、エルフの女王が魔力を注いだこの世にただ一本しかない無敵の矢は、あらゆる盾を撃ち貫き、あらゆる魔力を打ち砕き、あらゆる生命を討ち滅ぼす。


 閃光のように疾る一条の輝きがテオドールの魔法障壁を貫き、万雷と暴風を砕き、そのまま真っ直ぐに魔眼の中心を捉えると、魔王城の上空で猛威を振るった魔獣を撃ち抜く。遠目からその光景を見たなら、まるで空へ流星が遡っていくように映っただろう。矢は煌めく軌跡を虚空に焼き付けながら分厚い黒雲を裂いて彼方へ消えて行った。


 魔王城からゆっくりと、暗雲が退いていく。


 そしてそれが合図であったかのように、北の空から白く仄かに光る翼が飛来した。




■□■□■□■□■




 劣勢という言葉さえ生ぬるかった。


 最大戦力であるはずのエルザは精神的なショックを引きずったままで動きに精彩を欠いていた。しかも相手は兄のように思っていたベルント。いかに魔王に操られるだけの骸であるとは言え、両手に握った剣を叩きつけることはどうしても躊躇われた。


 レオンハルトの相手は剣の師たるハインリヒだった。素行は悪くても、レオンハルトは騎士である。進軍を阻むものは親兄弟でも敵として扱うという戦場の習いを心得てはいたが、情より何より、基本的に相性が悪すぎた。

 突進力、防御力、殲滅力に於いて他の追随を許さないレオンハルトであったが、その長所がハインリヒには役に立たない。

 ハインリヒはレオンハルトに肉迫し、その流麗な体術によって攻撃を軽やかにかわす。そして雷を帯びた魔法剣は強固な金属鎧にこそ絶大な適性を見せた。


 最も絶望的な戦いを強いられていたのはリヒターだ。

 聖女フローラは高い能力を持ってはいたが、戦闘経験の少なさから言えばリヒターを相手どるには甚だ力不足である。

 しかし、リヒターはフローラを排しつつも魔王と魔法戦を慣行しなければならなかった。

 2人の強力な術者を同時に相手どり、薄氷を踏むような危険な駆け引きで凌いではいたが、それは一手でも最善手以外の手を打てば、即座に趨勢が傾く戦いであった。


「エルザ、しっかりしろ! おめーがやられちまったら、こいつら全員浮かばれねーぞ!」

 レオンハルトは叱咤したが、エルザは完全に取り乱しており、満足に彼の忠告を聞ける精神状態ではなかった。

「お願い、みんな! 正気に戻って! お願いよ!」

 エルザが叫んだ。魂の叫びだった。しかし、無情にもそれはかつての仲間たちには届かなかった。


 ベルントの一撃が、ついにエルザを捉えた。戦斧は狙い違わずエルザの胸を直撃する。女神に祝福された装甲は刃が肉体に触れることを許さなかったが、しかしその衝撃力を打ち消す事まではできなかった。

 短い悲鳴を上げて壁に叩きつけられるエルザ。


 リヒターはその時ようやく理解した。魔王は今まで自分が足止めしていたのではなく、エルザを確実に葬り去る機会を待っていたことに。


 魔王が骨しかない腕を高々と掲げると、中空に何十本もの禍々しい刀剣が出現した。そして腕を振り下ろすと、それらの全てがエルザに向かって襲いかかった。避ける事も防ぐ事もできないタイミングで、耐える事が不可能な威力を込めた広範囲殲滅用の大魔術。

 エルザが迫り来る致命の刃を前にできた事といえば、ただ覚悟を決めてギュッと目をつぶる事だけだった。

「エルザ!!」

 レオンハルトの叫びは幾つもの凶刃が壁に突き立つ轟音にかき消された。



 もうもうと立ちのぼる砂煙の中で、エルザはいつまでたっても予想された苦痛が訪れない事を訝しんで、閉じていた瞼を恐る恐る開いた。


 すると、すぐ目の前にいたリヒターの美しい青の瞳が、気遣わしげにエルザの顔を覗き込んでいた。


 胸や腹から生えた切っ先が、彼の瀟洒な衣服を見る見るうちに朱に染めていくのに気付いたのは、数瞬たってからだった。


「リヒター……!」

 彼の名を呼ぶエルザの声は驚きと悲しみで掠れた。

 いつもの軽口ばかりのお調子者は居らず、ただ眉根を寄せた端正な顔をエルザに向けていた。その表情が苦痛ではなく、ただ彼女が心配であるためのものであるのが何よりも悲しかった。

 震える手がリヒターの頬に伸びる。リヒターは死力を尽くして耐えながら何かを言おうとしたが、遂に大量の血を吐き、伸ばされた手をすり抜けるようにエルザに向かって倒れ込んだ。

 二人は抱きしめ合うような格好になったが、そこに甘やかなものは微塵も混じりはしなかった。

「悪い。汚した」

 結局言いたかった言葉とは全く違う台詞を耳元で囁くと、リヒターは全身の力を抜いた。


「ふははははっ! ようやく貴様らとの忌まわしい因縁も終わるようだな。この1年の間、長きに渡って我を煩わせてきた貴様らの絶望的な死によって!」

 魔王は高らかに宣言した。狙い通りとはいかなかったが、結果的に戦力バランスは大きく傾いた。魔王が注意すべきは、自爆覚悟の特攻か撤退、城内で暴れている者たちが闖入してくる可能性だけである。

「もはやなす術は無い。貴様らの首を掲げて、今こそ人間族に覆しようのない真の敗北というものを……」


 勝利を確信した魔王の台詞は、不自然に中断された。

 茫然自失だったエルザも、ハインリヒとベルントを牽制していたレオンハルトも少し遅れてそれに気付いた。


 遠く彼方から響く、微かな旋律。段々と明瞭になっていくその音源は、確かにはっきりと近付いてきていた。


「歌……?」


 魔王の呟きが、玉座の間にやけにはっきりと響き渡った。




■□■□■□■□■




 イグナーツは幾度となく、その剛腕で敵をなぎ倒してきた。彼は魔王軍にいた頃から率先して強者との戦いを求め、その度に勝利の数を増やしていった。正直なところ、敵に煮え湯を飲まされたこともある。最近では勇者たちとの戦いがそうだ。しかし、いずれにしても彼のずば抜けた膂力と気闘法は、常に相手を苦しめてきた。


 だがそれが今、全く通用しない。力量不足とか、防御の魔法とかではない。まるでこの世が誕生した時からそういう法則であったとでも言うかのように、イグナーツの拳は相手の体に破壊の力を伝えなかった。


「恐れながら、無意味にございます」

 黒い礼服の痩せた男が、何の感情も乗せずにつぶやいた。

 男は自分の胸板を打った拳をつかむと、洗練された鋭い蹴りをイグナーツに叩き込んだ。さして力を入れていないように見える軽い動作であったが、イグナーツはエントランスホールを高々と舞って硬い大理石の階段上部を粉砕した。

「がはっ!」

 叩きつけられたイグナーツは苦痛の呻きとともに血を吐いた。


「何度なされようとも無駄でございます。私は虚無。あらゆる攻撃は私の中に蓄積され……」


 大理石が砕けるほどの勢いで跳ね起きたイグナーツは、目視さえ困難な速度でクラウスに襲いかかった。実際のところ、それは確かにクラウスには見えていなかった。しかし彼の能力は瞬間的に発動させる類のものではない。知覚の可否は意味をなさなかった。

 猛り狂う拳がクラウスの体にめり込み、その接触点からイグナーツが練り上げた闘氣が破壊エネルギーの奔流となって叩き込まれる。

 瞬間、途方もない爆発が起こり、巨大なドーム状に広がった衝撃波が中央階段を、天井や壁などの外殻ごと木っ端微塵に破砕した。

 受けたダメージを蓄積するのはクラウスだけに許された力ではない。イグナーツが憤怒の名を冠する由縁である。

 離れて見守っていた近衛兵は衝撃波の範囲からははずれていたが、丸ごと落ちてきた天井が瓦礫の雨となって頭上に降り注ぎ、悲鳴だけを残してその中に埋もれていった。


 だが、クラウスは傷一つ負っていなかった。


「……そのエネルギーを少しも損なわずにお返し差し上げられるのです」


 クラウスの手が軽く触れるだけで、イグナーツは紙切れのように吹き飛ばされた。

 イグナーツを殴っているのはイグナーツ自身であった。鍛え上げた必殺の拳技は、彼自身の肉体を完膚なきまでに叩きのめした。


 瓦礫の山に大の字に倒れたイグナーツの胸板を、クラウスの革靴が踏みつけた。その痩身のどこにそれほどのパワーがあるのか、イグナーツの頑健な肉体は所々で不吉な音を奏でた。

「グッ……!」

「終わりでございます」

 冷たく見下ろすクラウスに、イグナーツは苦しげに笑った。


「……ああ、終わりだな……俺たちの勝ちだ……!」


 クラウスは不思議そうに小首を傾げ、ややあってから鋭く空を見上げた。

 ストームアイによって保たれていた制空権は失われていた。雲一つ無い星空を、白く清らかに輝く飛行体が横切る。


 それは歌っていた。


 春の日差しのように優しく、夜空から星が降るように冴え冴えと、美しく儚い旋律が遠く高く、どこまでも伸びやかに響き渡る。


 クラウスは驚きに目を見張った。

 竜族の長い歴史の中で最も脆弱な、しかしその長い歴史の最後に残った白い竜。その竜は徹底的に争いごとを拒み、どのような勢力にも与しないはずである。

 だが、今まさに紡がれる歌は、魔王の力の根元たる冥力を弱め、死者の魂を安らがせる呪歌であった。

その効力には、流石の魔王も抗えまい。まさに致命の一手である。


 しかし、クラウスの驚愕の正体は他の所にあった。彼のまなじりから頬に向けて、一雫の涙滴が走った。

 どのような事にも心動かされる事のなかったクラウスの胸に、百万の言葉を弄しても伝えきれない感情の大波が去来する。

 それは感動という心の挙動で、彼と同年代の若者であれば、ごく身近な精神状態だった。だが、生まれ落ちて以来泣く事も笑う事もなかったクラウスには、これが何なのか全く見当もつかなかった。


 イグナーツはゆっくりと立ち上がった。

「これは何でしょうか?」

 悄然と立ち尽くすクラウスは赤子同然であった。

「それは心だ」

 もはや力の残されていないイグナーツが放った拳は、万夫を薙ぎ倒す修羅のそれではなかった。

 だが、どんな攻撃も受け付けなかった魔王の腹心は、その一撃で速やかに意識を手放した。

 クラウスは、既に虚無ではなかったからだ。


 倒れ伏したクラウスを見下ろすイグナーツは、空を見上げた。

「クラウス、ムカつく事に、俺もつい最近までそれを知らなかった」

 憤怒と呼ばれた男の視線の先には、魔王と勇者が戦っている居館があった。


「勝て、エルザ……」




■□■□■□■□■




 突然、魔王に操られていた三人の動きが硬直した。刹那、レオンハルトが電光のような動きで重戦士ベルントを貫いた。


「呪歌、それも鎮魂曲か!」

 そして魔王が驚愕に彩られた声を上げた時には、ランスから放たれた灼熱の炎がベルントの体を包み込んでいた。


 ハインリヒが振るった剣を盾で受け止める。魔法剣の電撃がレオンハルトの体を駆け巡るが、レオンハルトは激痛の中で獣のような雄叫びを上げると、有らん限りの力でそれを押し返した。

 ハインリヒを体ごと弾き飛ばしたレオンハルトは、間髪入れずに燃え盛るランスを魔王とフローラがいる方へ投げつけた。

 驚愕から立ち直って魔法の準備をしていた魔王は完全に虚を突かれた。

 まさかランスを投げ槍のように扱うなど、思いもよらなかったのだ。

 ランスの先端が床に触れた瞬間、爆音を響かせ、渦を巻きながら灼熱の花弁を撒き散らす巨大な炎の花が咲いた。

 熱波がレオンハルトの頬を打つ。肌を焼くような風に後押しされるように、素早く体勢を立て直したハインリヒが、自らの秘技とも言うべき神速の突きを繰り出した。電光と異名をとったのは、その手にした魔法剣に由来したものではなく、迅雷の如き剣速故である。その証左である必殺にして必中の直突。武器を投げ捨てたレオンハルトには迎撃する事もできない。


 鎧も盾も、万物を貫く雷帝の一撃を前に、レオンハルトはむしろ一歩踏み込んだ。神速の領域での攻防であるが故に、考える暇さえなく、ただ直感と反射だけでの動きであった。半身をひねったレオンハルトは鎧の表面をこそぎとられながら、体を入れ替えた。切っ先から放たれた衝撃波は遠く離れた壁を貫き、幾つもの部屋をぶち抜きながら直進して、遂には城壁の一部を木っ端微塵に破砕する。


 かすっただけでも全身の骨という骨を砕かれたような衝撃が体内を駆け巡る。しかしレオンハルトは苦痛に苛まれながらも、突き出されたハインリヒの手をつかむと、目を見張るような遅滞ない動作で手首をひねりあげて、その手に握られた剣を持ち主に突き刺した。

 本来の彼からは想像もできない、師のお株を奪うような流麗な動きであった。


「見事だ。強くなったな」

 既に死んでいるためか、剣で刺された程度では何の痛痒も感じないらしく、ハインリヒは淡々と言ってのけた。

 ただ微かにつらそうであったのは、剣以外のものに苛まれているからだ。

「つらい思いをさせる。すまん」

「すまんと思うなら、コイツでくたばって下さいよ? 師匠……!」

 レオンハルトは心の中で魔法剣を起動させる呪文を唱えると、そこにありったけのエネルギーを注入した。

 魔法剣の刀身が眩い輝きを放つと、ハインリヒの体内で雷が炸裂した。

 当然レオンハルトも無事では済まない。ハインリヒに一瞬遅れて、糸が切れたように垂直に崩れ落ちると、ゆっくりと倒れ込んだ。




 紅蓮の炎を腕の一振りで打ち払った魔王は、鉄壁の布陣と疑わなかった死せる従僕どもが全て打ち倒された事を知った。

 思えば、勇者に関わる全ての策や罠は、いつだって完璧だった。だがその度に、想定を遥かに上回る力に突然目覚めたり、予想だにしなかった援軍が来たり、必ず思い通りにならなかった。


 今回もそうだ。


「なぜだ!? 人間族に滅ぼされた竜族の最後の生き残りが、なぜ我に盾突くのだ! 人間族こそ憎むべき仇敵であろうが、ディーヴァよ!」

 人間が、エルフが、ドワーフが、配下であるはずの四天王が、最後の竜が、そして女神が、全ての運命が勇者に味方した。

 何の力も無いはずのちっぽけな娘が自分の前に立ちはだかっている事が、魔王にはいまだに理解できなかった。

「なぜだ!? なぜ竜族までもがこんな小娘に肩入れする?」

 魔王はもう一度問うた。

「ディーヴァは私と友達になってくれた」

「友達だと? そんなもののために、奴は500年間醸造した憎しみを忘れるというのか?」

「忘れてないよ。でも、それでもディーヴァは前に進むことを選んだ。憎しみの沼に身を浸すんじゃなくて、大空を飛ぶことを選んだんだ!」


 エルザの体をエメラルドグリーンの輝きが覆う。

 彼女はゆっくりと体を沈み込ませると、爆発するかのような勢いで魔王に突進した。


 魔王は何やら呪文を唱えて傍らの冥界門を槍で差し示すが、竜の呪歌によって門への支配力が著しく乱れ、召喚術を発動できない。

 魔王が毒づいている間に、エルザは魔王の間合いを蹂躙していた。


 エルザの剣技は、それを生業としている者から見れば荒削りで児戯にも等しいものだった。

 しかし自分より遥かに巨大な怪物や、生物としての術理が全く当てはまらない魔法生物相手に細やかな剣捌きなどどれだけ役に立つだろうか。エルザの敵は、常にそうした者どもだったのだ。

 彼女の戦術は極めて単純で、理力によって極限まで高められたスピードで縦横無尽に疾駆し、理力を込めた剣を力いっぱい叩きつけるというものだった。


 しかし魔法戦を本分とする魔王には、これを巧みにやり過ごすだけの技量が無かった。

 結果として、猛烈な速度で繰り出された斬撃を、魔王は手にした槍で防ぐ以外になかった。金属同士が打ち合わされる音が、殆ど爆音のように響き渡ったかと思うと、息をつく暇もなく、それが何度も何度も轟いた。


 可憐な容貌とは裏腹に、エルザの攻めは獰猛な虎のそれに似ていた。

 牽制も陽動も無い。ただ野性的な知覚力で攻撃地点を割り出し、速力に証せてそこに打ち込み、膂力の許す限りこれを振り抜く。およそ正統の剣術とはかけ離れたデタラメな軌道は、桁外れの身体能力と獣じみた直感力によって、どんな剣聖にも到達できない古今無双の必殺剣になっていた。

 そして一つでも直撃すればただでは済まないその攻撃を、持ち前のタフネスでひたすら繰り出すのだ。


 荒れ狂う竜巻のような剣風の渦に魔王が飲み込まれる。

 半ばヤケクソ気味に魔王が槍を横に振るうと、エルザはようやく攻撃の手を休めて跳びすさった。

 恐るべき密度の攻撃にさらされた魔王は、既に幾つもの斬撃をその身に浴びていた。いずれもが致命傷には遠く、苦痛さえ感じていない様子であったが、肉迫されては分が悪いのは歴然としていた。


「ダークスフィア」

 魔王の周りに数個の漆黒の球体が出現する。冥府の底に溜まった瘴気の塊である。

 それぞれが変則的な起動を描きながらエルザの足元に着弾すると、爆ぜ割れて猛毒の霧を撒き散らした。

 視界を真っ黒に塗り潰されたエルザは素早く治癒の呪文を唱え、口を袖で覆う。

 霧に触れる場所から焼き鏝を当てられたような痛みが走るが、理力のガードによって辛うじて治癒力と拮抗しているらしく、大した被害は無い。


 だが普通なら必殺の段取りで放たれる筈の上級呪文でさえ、この戦いではただの眼眩ましであった。

 エルザは突然おぞましい気配を感じて、剣を盾のように構えた。刹那、漆黒の光線が剣の腹を打った。落雷の如き爆音が鳴り響き、エルザの小さな体は壁にめり込むほどの勢いで吹き飛ばされた。

 苦痛にうめくエルザは、消し飛ばされた毒霧の向こうで、魔王が掌に見るもおぞましい瘴気を凝縮させていくのを目にした。

 魔王の掌から解き放たれたそれは一条の黒い光となって、エルザを再び強襲した。

 凄まじい爆発と共に粉塵がもうもうと巻き起こる。

 魔王は追撃の手を緩める事なく、続けて二度三度と煙の中に漆黒の光線を撃ち込む。従来、魔王の冥力には限りが無い。冥界門が呪歌によって封じられていなければ、エルザが完全にこの世から消滅するまで攻撃の手を緩めなかったろう。魔王は収束できる冥力が鈍るのを感じ、舌打ちを一つしてから突き出した腕を降ろした。だが、魔王のように執拗な性格をした者でなければ、その戦果に充分な満足を得たことだろう。雷神ハインリヒの一閃をも凌駕する破壊の力は、広大な玉座の間の一角を見るも無残な様相に変えていた。


 粉塵が晴れると、ぼろぼろになったエルザが姿を現した。理力のガードは鋼鉄を遥かに超える強度の鎧となるが、魔王の攻撃を完全に防ぎきるほどではない。

 髪を後頭部に結んでいた薄紅色の紐が爆発によって緩み、エルザの足元にはらりと落ちた。栗毛色の乱れた髪が、荒い呼吸で上下する肩に掛かる。


 満身創痍の勇者を確認した魔王は満足そうな含み笑いを漏らし、悠然とした態度で言い放った。

「彼我の戦力差は明らかだ。勇者よ、諦めるがいい」

「絶対、諦めるもんかっ……!」

「フハハ! 虚勢だな。策も、援軍も無い。貴様の命では我の首級には届かぬ」


 エルザは髪留め紐を拾い上げ、胸に当ててギュッと握り締めた。必ず帰ってきてと涙を溜めながら、宝物だと言っていた髪留め紐を差し出した幼い少女の姿が思い起こされる。


「……私、負けないよ」


「無駄な足掻きだ。潔く、仲間もろとも散るがいい」

「無駄じゃない。約束したんだ。皆、無事に帰るって。必ず帰るって!」

「その約定は果たせぬ。貴様らはここで死ぬのだ」

 エルザは髪留め紐を懐に仕舞い込むと、呼吸を整えて剣を構えた。

「絶対に約束を守ってみせる。お前を倒して!」


 一瞬か悠久か、両者の破裂しそうなほどの闘気の高まりは、時間の感覚をも狂わせた。

 先に動いたのはやはりエルザだった。

 愚直に突進するエルザに、狙いすました魔法の光が飛来する。エルザはまばたきもせずにそれをギリギリでかわすと、更に加速して魔王に斬りつけた。

 槍で受けた魔王は、そのまま鍔迫り合いに持ち込んで圧力を掛ける。

 いかに理力で強化されているとは言え、体格差は大きく、また魔王の膂力も相当なものだった。

 上から押し潰されそうになり、エルザは苦しげに顔を歪める。


――どうか――


 エルザの頭の中に少女の声が響いた。


「絶対に……!」


――どうか……お救い下さい……勇者様――


「絶対に負けるもんかあああああ!!」

 エルザは気勢を上げると、渾身の力を込めて槍を押し返した。

「何っ!?」

 突然の事に動揺した魔王は、続く斬撃の雨を防ぐ事ができなかった。

「死にぞこないめが!」

 しかし幾度も体を切り裂かれながらも、魔王は冷静さを取り戻し、再び鍔迫り合いに持ち込んだ。

 先ほどと同じく力を溜めたエルザは、魔王の双眸が怪しく輝くのを見た気がした。

「ヘル・フレイム!」

 魔法の発動とエルザが跳びのくのはほとんど同時だった。

 足元から赤黒い劫火が立ち上った。炎の柱は天井付近まで上昇すると、意志を持つ大蛇のように、その先端を鎌首にして襲いかかってきた。

 エルザは人間離れした機動力でかわし続けるが、炎の蛇はその攻撃の手を緩める事はなかった。

 エルザは大きくバックステップしてから、気合いの雄叫びをあげて襲い来る大蛇に突っ込む。両者が激突する寸前、理力をまとった剣が炎の蛇を打ち砕いた。

 エルザはその勢いのまま魔王に突撃するが、これは魔王の仕掛けた罠であった。蛇と戦っている間に瘴気を圧縮し終えていた魔王は、手にした暗黒の塊をエルザに向かって突き出す。

 邪悪な光線はこれ以上ないタイミングで放たれたはずだったが、それは僅かに狙いを逸らしてエルザの頬をかすめ、遙か背後で爆散した。


 魔王の足には魔法の蔦が絡まっていた。

「……半吸血鬼のしぶとさを……甘く見てはいかんね、魔王よ……」

 冷たい床に横たわったままのリヒターの手から、吊られた男の札がこぼれ落ちた。

 魔王の憤怒の叫びと共に足元の蔦が焼き切れた。


 エルザは走りながらリヒターの名を心の中で呟いた。レオンハルトの名を、テオドールを、アルムブレストを、イグナーツを、ディーヴァを、散っていった仲間たちを、全てを託してくれた人たちを想った。涙はひと雫だけ流れて、彼女の遙か後方へ飛び去った。


 今や理力はかつて無いほど高まっていた。女神の力を借りながら、しかし既に女神のそれを凌駕していた。そのエメラルドの輝きの全てを、想いの全てを刀身に込め、エルザは剣を魔王に叩きつけた。

 とっさに構えた槍でそれを受け止めたのは、もはや悪あがきでしかなかった。


「でやああああああああああああ!!」


 エルザが吠える。心の中で、再び少女の声が響く。


――どうか――


 剣を押し込む。


 二人の周りに同心円状の力場が発生し、足元に白く輝く魔法陣が展開される。


――勇者様、どうか魔王を倒して下さい――


(待ってて! 必ず魔王を倒すよ!)

 エルザは心の中で応えた。


 だが同時にどこか冷静な心の片隅で思った。


(この声、誰の声?)


 全然聞き覚えの無い声だった。

 その瞬間、遂に異世界からの召喚陣は完成し、白い光がエルザの視界の何もかもを飲み込んだ。


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