20年後
二十年後 15枚
高岡啓次郎
(1)
村に一軒しかない理容室には若い女性店主の他に都会からきた一人の客しかいなかった。田舎道には通る人も少なく、ときおり山麓にある温泉場を目指す車や背中に荷物を背負ったハイカーの姿が目につくだけだった。
簡素な店の周囲を囲むように生えたハコヤナギが萌黄色の葉をいっせいに茂らせ、細枝を飛び交う野鳥たちのさえずりが聴こえてくる。高原の林を通り抜けてきた湿った風が、晴れやかに咲き誇った庭の水仙やナデシコをゆらし、花影をぬうように白い蝶たちが飛び交っている。ここは都会の喧騒に疲れた人が心を癒すことができる申し分のない平和な農村風景なのだった。
空色に塗られた理容室の内部には客をリラックスさせるための柔らかな香りのアロマがたかれ、五月の陽光を受けて気持ちのいい日だまりが顧客用の回転いすの足元にできている。すぐそばには、花柄のエプロンをつけた、ほっそりとした小柄な理容師が聡明そうな白い額と形のいい鼻稜をみせて横を向いている。左手には鯨の骨で作ったしなやかな串をもち、右手は細い鋏を自分の指の一部にして流れるように動かしている。十年ほど前から村で開業しているが、年齢がいくつかは分らない。ひどく若く見られることもあるし、四十はとっくに過ぎているという人もいる。腕のよさに加えて、聞き上手で、どんな話題に関しても豊富な知識を有している女店主は男性のみならず婦人たちからも人気がある。客は店から帰るとき、身ぎれいになるだけでなく、心に溜まっていた澱をすっかり吐きだしたような気持になり癒されて家路につくのだった。
いま回転椅子に座っている昼下がりに初めて訪れた男も例外ではなかった。髪を切られているあいだ、店の大きな鏡には何かに解放されたような穏やかな表情が映っていた。長年の常連客のように、何もかもを女にゆだね、安心しきっているのだった。年のころは五十を一つか二つ超えたくらいの痩せぎすな男だが、若いころはさぞかし美男であったに違いない面影が残っていた。
少し前に店に入ってきた男の肩まである長い髪の毛がみるみる短くなっていった。上半身をおおっている白い布やリノリュームの床には油気のない男の長い髪が無造作に散らばっていた。
女は涼しげな視線を鏡の中の男にそそぎ話しかけた。
「お客さんはどこからいらしたの? 村の人ではなさそうだけれど」
「東京から来たんです。長期の休暇がとれたので懐かしさに惹かれて昨日からこの村に来たんですよ」
「わざわざ東京からこんな田舎へ? 懐かしさといいますと、以前このあたりに住んでいらしたの?」
「いいえ、そうじゃないんですが、この道をずっといったところに昔きたことがありましてね。知り合いに誘われて、お寺参りを兼ねた旅行でしたが、そのときのことが忘れられなくてね。やっと海外勤務から解放されたので念願が叶いました」
「何かいいことがあったのですね?」
「まあ、そういうことです。ですが遠い昔の話なんですよ」
すっかり髪が短くなった男はどこか少年っぽい表情になり、甘酸っぱい思い出を話すときのように顔を赤らめた。
「何ですの、そんなにニヤニヤなさって。旅の置き土産に話してくださいよ」
女はキラリとした視線を鏡の中の男に向け、かすかに妖艶な微笑をうかべた。
「どうしようかなあ」
男は何かをためらうようにイタズラっぽく女を見た。
「そんな、もったいぶらずに話してくださいな」
女は調髪の最終段階に入りながら男の背中を軽く叩いて促した。
「そうですねえ。話してしまうかな。もう二十年もたったんだからいいだろう」
「二十年?」
と女は訊いた。一瞬の思案顔がすぐに微笑にかわり、
「私なんのことか分かった」
といった。女は目を丸くして得心顔になり、切った髪の毛をブラシで払い落としながら続けた。
「あなたは何かの重大な事件、例えば殺人とかを起こしてしまった。海外にもいたから二十年で時効が過ぎたのね、多分」
女は声をたてて笑った。
「そんなんじゃありませんよ。面白い人ですねえ理容師さんは。あなたにはつい何でも話してしまいたくなるなあ」
男は首の周りを覆っていた布を外されて楽になったのか、両腕を大きく伸ばしアクビをした。女が首や肩をマッサージしはじめたので男は気持ちよさそうに目を閉じて話しはじめた。
(2)
「あれは僕が三十一のときでした。東京で医者相手に医療機器の販売をしていたんですが、お客さんのひとりに旅行に誘われたんです。聞くと、その人が信仰している宗教団体が主催するお参りツァーだというのです。気がすすみませんでしたが、断る勇気もなくて参加することにしたんですよ。何ヶ所かを周りましたが、そのとき二日目に立ち寄ったのがこの村だったのです。この奥にありましたよね? 臨光禅寺というお寺が……」
男は女に問いかけたが、今はそういう名前のお寺はないと女は答えた。
「え? ないのですか。三百人以上の信者さんが寝泊まりしていましたが、どこかへ移転でもしたのでしょうか」
男の問いかけに女は首をかしげ、よくは分らないと答えた。
「そうだったのですか。再び訪ねてみたいと思ったんですがねえ。残念だなあ」
そこまで男が話したとき顔中にクリームが塗られた。皮でカミソリを研ぐ乾いた音がする。男はいつカミソリが当てられてもいいように静かに話しだした。
「まあ、そういうわけで、二泊三日の小旅行に僕は参加したわけです。料金も三万円代ということで高くありませんでした。お参りもなにもしなくていいから、お寺や庭を見て温泉に入ってくればいいのだからといわれました。でも集合場所にいったときは驚きました。年寄りがほとんどで九割は女性だったですから。若い自分がいるのは奇異な感じがしたものです。何人もの信者たちが私のことを旅行会社の人間と思ったくらいで、トイレはどこかとか、腰が痛いので枕をふたつ貸してほしいとか、たわいもないことを何度も頼まれました。旅の内容といえば最初は普通の観桜会みたいでしたが、徐々に宗教色が強まっていったのです。お寺では聞きたくもない説法を二時間も聴かされましたし、食事も驚くほど粗末といったら失礼だけど質素そのもので若い僕には物足りなかったですね。そんなすきっ腹で三時間も座禅をくまされるんですから、あのときは旅行に加わったことを後悔しましたよ。二日目にきた臨光禅寺では見たこともない儀式がありました。だいたいが、ここはお寺とはいいますが、いたるところに神社にあるようなしめ縄がぶら下がっており、教祖の格好も坊主と神主を混ぜたような服装なのです。ふつうお寺にはいないはずの白装束の巫女たちがおおぜいいました。建物の内部の作りも普通の禅寺とはまるで違うのです。仏像を描いたものとも違う不思議な曼陀羅の前で全員が教祖の言葉に合わせて経をとなえるまではいいのですが、やがて身をよじらせて踊ったりひっくり返ったりしながら会場が騒乱としたのです。黙って見ている自分が何か罰当たりな存在に思えたくらいです。八十を過ぎている老婆でさえ畳から十センチも跳ねているのですから驚きです。歩くのもやっとだったお婆さんなんですよ。あのときは、さすがに霊力というものの存在をかいま見た気がしましたね。そのとき教祖を見て私は肝を冷やしました。まだ顔のつくりからして四十そこそこといった感じなんですが、もうもうと渦巻く香の中で白髪交じりの長い髪の毛が総立ちになっていたんです。まるで磁石か何かで上から髪を引っ張られているようでした。教祖の周りには巫女と思われる比較的に若い年齢の女が十人ほどとりまいていましたが、どの女も何かに酩酊したといいますか、変な話ですが、性的なエクスタシーを感じているかのように恍惚と喘いでいるのです。私は恥ずかしながら思わず自分の体が熱くなりました。何せ僕も若かったですから」
(3)
男がそこまで話したとき、理容師の女は研いでいたカミソリを男の頬にあて滑らかに剃り始めた。男はなるべく唇を動かさずに腹話術のように小声で話を続けた。
「実はその夜、驚くべきことがあったんですよ」
女は無言で男の眉のふちを剃りながら聴いていた。
「私が風呂からあがって部屋に帰ろうとしていましたら、昼間に教祖の一番近くにいた若い巫女が声をかけてきたのです。年齢はまだ十代に違いないあどけない顔をしていましたが、肌の色が抜けるように白く、真っ黒な長い髪の毛を乙女がりとでもいうのでしょうか、額の上で真ん中に分けている美しい少女でした。その子がか細い声で僕を手招きし、奥のほうへ導いたのです。僕は酒で多少酔っていましたから何も考えずに引き寄せられるように少女のあとをついてゆきました。いや、正直にいいますと多少何かを期待する気持ちがなかったかといえば嘘になります。僕は純朴な少年のようにときめきを感じながら巫女に手をひかれるまま進んでいきました。そのあとはご想像のとおりです。薄絹をひいた柔らかな寝床の上で巫女は全裸になりました。部屋の中には何とも不思議な感じがする甘い香りが漂っていました。僕は少女がなすがままに共に横たわっていました。こんな贅をつくした寝屋に巫女がいるのが不思議でしたが、聞くとその子は教祖の一人娘だというではありませんか。体が自分ではないような快楽の浮遊感に包まれました。僕はあの世界にあれほど酔ったことはありません。巫女のなすままに身をゆだねた僕は少女の麗しさにすっかり魅了されました。人間とは思えないほどの神々しいまでの美しさ、天女が舞い降りたという昔の伝説をつい信じてしまいたくなる少女だったのです。僕は忘我の境地で数時間を巫女と過ごしたのです。ところが夢のような時間が過ぎ去って巫女が再び白装束を身にまとったときゾッとするようなことが起きたのです。少女の形相がみるみる変わっていき、恐ろしい顔で僕を睨みつけて『このことはけっして誰にも話してはならない。このことを口にしたら、あなたが地上のどこにいても私はあなたを許さない』といったのです。声がまるで違いました。さっきまでの少女らしい細い音質ではなく、老婆に男が混じったような低い声だったのです。そのあと少女は、再びここを訪ねてもならないし、いま私が言ったことは生涯を通して守るようにと僕に約束させたのです。そのときの少女の顔の真剣さ怖さといったらありませんでした。下がり気味の優しい目が糸で引いたようにつりあがっていたのですから、あれが巫女にそなわった霊力というものなのでしょうか」
男が話し終えたとき、理容師の女はフッと息をついて、
「アロマがきれたわ」
といって部屋の隅にいき新しいロウソクに火をつけた。さっきまでとは違う、都会の疲れが何もかも抜けていきそうな甘い香りが男の鼻腔に流れてきた。読者はとっくに気づいているだろうが、この男はまだ傍にいるのが誰かを分かってはいない。ドアの方からカチャっという音がしたかと思うとカーテンが閉じられる音がした。そのことを特別気にとめることなく男は目を閉じたままで続きを話しだした。
「いま思い出せば、あのときの巫女には鬼気迫るものがありました。変なことをいうようですが、僕が思うに、あの少女は多分人間ではないとさえ感じます。あの少女はおそらく魔物に違いありません。こんなに年月がたっているのに思い出すだけで身震いするくらいです」
男の二の腕にサーッと鳥肌がたった。理容師の女は何を考えたのか、カウンターに置いてあった口紅のキャップをはずした。目を閉じていた男はそれに気づかずにいった。
「いくら何でも、もう話しても大丈夫です。あれから二十年もたったのですから。僕は、別に女の脅しを信じていたわけではないですよ。ただなんとなく気味が悪いので誰にも話す気になりませんでした。辛かったですよ。誰かに話せば楽になれるに違いないと何度も思いましたが、話そうと思うと金縛りにあったように言葉が出てこなくなりました。でも今日は違います。どういう訳か、あのころのことがスラスラと話せる。この辺りののどかな雰囲気がそうさせるのでしょうか、それともこの甘い香りの 」
といいかけた男はハッとした。どこかで嗅いだ記憶がある。それがどこかは直ちに思い出さなかったが、すぐに全身を恐怖がつらぬいた。
「あ! この香の匂いは 」
そう叫んで目をあけたとき、目の前の大きな鏡に意味不明な呪いのような文字が血の色で書かれており、下に同じ色の口紅が砕け落ちていた。
鏡に映った女は理容室に塗られた空色の壁のように真っ蒼だった。やがてその顔は不気味にゆがみ、目は額の上部まで吊り上がった。
女は男を抱え込むように、真っ白い左手を男の胸にまわした。ずっしりとした重みが男の肩にかかってきた。男がすべてに気づいて身を起こそうとしたとき、女はカミソリの鋭い刃を男の頸動脈に突き立てていた。 了