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後編 聖なる夜再び 

 モミの木は柔らかそうな雪ですっぽりと覆い尽くされていた。

 クリスマスから早二か月。不格好な星一つ付けたイブの晩よりも、今の方がよほどツリーめいて見える。図書館前の街頭に照らされたクリスマスツリーもどきをぼんやりと見つめて、節はスロープの手すりにもたれかかった。

 夕方から降り始めた季節外れの雪は、もうじき日付が変わろうという今、周囲を一面の銀世界へと変えている。朝になればこの美しい雪の絨毯も、登校してきた学生たちに寄ってたかって踏み散らかされてしまうのだろう。しかし今は節一人。羽毛のような白い雪はキラキラ輝いてただ綺麗だった。薄く積もった粉雪を指ですくえば、サラサラと音を立てて落ちる。


「やっぱりここに居た」

「礼二郎」


 振り返れば、見慣れた男前が静かに佇んでいた。怒っているような、それでいてホッとしているような。そんな複雑な顔をすると、礼二郎は無言で節に歩み寄る。頑丈そうな黒のマウンテンブーツが白い雪に迷いなく痕をつけるのを、節は何となく羨ましい思いでじっと見つめた。


「なんでここに居るって分かったの?」

「雪が降ったから」


 事もなげに言って、礼二郎は端正な顔をニヤリと歪めた。

 礼二郎はいつもこうやって節の世界に入ってくる。それが少しも不快でないのが逆に不思議だと節は思う。殺風景で熱のない節の世界を、礼二郎は一瞬で温かい何かに変えてしまう。礼二郎の側は居心地がいい。良すぎてちょっと困るくらいに。

 節がそんなことをボーっと考えていたら、いつの間にか目の前まで来ていた礼二郎が節の鼻先数センチの所まで顔を寄せてきた。


「ねえ、節。こうやって会うの何日ぶりだか分かってる?」


 礼二郎がニッコリと余所行きの笑みを浮かべた。ああ、怒ってる。節は少しだけ情けない気持ちになる。繰り返される実験やデータ分析にかまけて、またしても礼二郎のことを忘れていたことにたった今気づいたからだ。


「…えーっと、一週間…くらい?」


 実験装置ヒドラ3号、通称ひーさんの調子は今すこぶる良い。データ取りも順調で、ここ一週間は間違いなく外界と接触を持ってない自信が節にはあった。


「はずれ。二週間」

「えっ、そんなに?でも、なんかそんなひさしぶりに思えないねえ。チカヂカから礼二郎の話を色々聞いてたせいかなあ」

「そりゃそうだろうさ。なんせ近田とは、毎日連絡取り合ってたからね」


 節とは一言もしゃべってないけど、と礼二郎は不本意そうにその形の良い唇を歪めた。

 チカヂカこと近田昌親は、節とは同じ研究室の根っから気の良い穏やかな男だ。節に近づく男は基本排除の礼二郎でさえ、近田と節の交友に口を挟んだことはない。つまり、近田は人畜無害な典型的な「いい人」なのだ。最近では、節の様子を知るためにむしろ礼二郎の方が積極的に仲良くしているくらいだ。


「へえ、そうなんだ。仲良しなんだねえ」

「そ、仲良しなの、俺と近田。なぜだか節とは全然連絡つかないけどね」


 と礼二郎。節が小さい声で「ごめん」というと僅かに目を細めて「いいよ」とため息をついた。


「…ところで、節。今日何の日か知ってる?」


 何かのついでのように言う礼二郎の声が、ちょっとだけ悲しげだったので節は必死で考える。きっと大切なことなのだ。そして、自分はまたそれを忘れてしまっているに違いなかった。

 腕時計をチラリと見れば、日付はすでに変わっていた。ということは、今日は二月十五日。あっと節の脳裏に何かが閃いた。まさに天啓。今日、二月十五日は――


「如月の望月!」


 あまりにも嬉しくて、節はウサギのようにぴょんと跳ねた。節の白い顔がたちまち笑顔で一杯になる。


「…あぁ」


 絶望的な顔で溜息を洩らしたのは礼二郎だ。伊達に八年も側にいたわけじゃない。礼二郎には節が何を考えたのかすぐ分かった。というより、分かってしまった。悪い事に、礼二郎のこの表情に必死に考えを巡らせている節はまるで気付かない。

 節の頭に浮かんだのは、西行法師の有名な歌だった。


――願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ。


 無意識に口に出すと、礼二郎が「やっぱり」と呻いて、今度は酢を飲んだような顔をした。しかし、やはり自分の考えに夢中になっている節は、またしてもそれに気づくことはない。


「礼二郎、分かったよ」


 喜色を浮かべてて、節は本当に嬉しそうだ。


「ああ…俺もだいたい想像ついた」

「今日は如月の望月。つまり、涅槃会(釈迦の入滅の日)だろう!」

「…やっぱり、そう来たか」


 礼二郎が額に手を当てて低く呟いた。そもそもクリスマスだって気付かない節が、バレンタインデーを覚えているはずもなかったのだ。しかし、よりにも寄って涅槃会とは。これが節でなければ、確実に悪意があると思うところだ。


「…いやいやいや、悪いのは節じゃない。期待した俺が間違ってるんだ、きっと」


 悪いのはたぶん自分の方なのだ。惚れた弱みだし、と礼二郎は心中で呟く。


「ち、違った?」


 焦った節もやっぱり可愛い。いや、もう何をしようが節が可愛いことに変わりはないのだ。なら仕方ないではないか。礼二郎はこれ以上ないほど優しく微笑むと首を振った。


「いーや、違わないよ。それで正解」

「本当?良かった」

「良く気がついたな、偉いぞ、節」


 礼二郎はそう言うと、節の髪をくしゃりと撫でた。節がニコニコ笑いながら、くすぐったそうに身じろぎする。その楽しげな顔に心が満たされる。結局のところ、節のその幸せそうな笑顔だけでもう充分なのだ。礼二郎は冷たくかじかんだ節の手を両手で包みこむと、温かい息を吹きかけて温めてやる。


「実験、もう終わったんだろ。ウチに来いよ。節の好きなチョコレートが沢山あるから一緒に食べよーぜ」

「うん、行く!チョコ食べたい」


 チョコレートと聞いた途端、節が蕩けるような甘い顔になる。礼二郎も笑った。

 バレンタインのチョコレートよりも、節の方が絶対に甘い。ならば本当にこれでいいのだ。節の甘やかな笑顔一つが、極上のチョコに勝る。少なくとも礼二郎にとっては。


 ――神様。


 礼二郎は空を見上げると、不敵に笑った。


 ――ねえ、神様。このプレゼントだけは、何があっても手放しませんよ。たとえ俺がどんなに悪い子でもあったとしても。


「行くぞ。節」

「うん。礼二郎」


 礼二郎は節の手を握ると、プレゼントを貰った子供のような顔でもう一度――笑った。



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