前編 聖なる夜に
「良い子にしてたら、きっと本当に欲しいものがプレゼントされるわよ」
「うん。僕、良い子にするよ」
母の笑顔に白々しい作り笑いで応えたのは、確か小学生の頃。
時は流れ、可愛くない本性を包み隠して生きてきた悪い子には、そんなプレゼント貰えるわけないと諦めかけていた。生まれてから丁度二十年目の十二月。クリスマスを二週間後に控えたその日、喉から手が出るほど欲しいもの――性別女、年齢二十歳――は、わずか数十センチ先で静かに苦笑していた。
「あの実験装置、また良い具合に壊れてくれてね」
苦り切った顔はハーフだという祖母譲りで透き通るように白い。決して饒舌ではない赤い唇とか、ひらひら動かすのが癖の細い指先とか、瞬きの極端に少ないハシバミ色の瞳とか。すべて欲しいのに手に入る気がしない。そんなことをぼんやり考えていた思考の隙を見事について、突然それこそ何の脈絡もなく前触れすらもなく、その言葉はいきなり耳に飛び込んできた。
「愛してる」
アイシテルと確かに聞こえた。
色気も何もあったもんじゃない物言いは、耳に慣れたお馴染みのもので。世話話と寸分違わぬ口調には、だからこそ嘘も方便もこれっぽっちも含まれていないと分かる。ざわざわと煩い学食のテーブルの端っこで、彼女は唐突にそう言ったのだ。告白というにはあまりにも日常通りで、それで逆にとんでもなく混乱させられた。その時二人が食べていたものといえば、本日のA定食「理学部オリジナル肉団子と鮭フライ御膳」だったし。
そんな状況下でさえ、殺傷能力抜群の笑顔に釘づけになる。言われたこっちは呆気にとられて声もないのに、彼女といえばやけに晴々とした怖いくらい満足げな顔で立ち上がると「じゃあね」と一言。相も変らぬ潔い去り際は、まるで一陣の風の様だ。
「…えっ…夢?」
やっと衝撃から立ち直った時には、もうプレゼントは目の前からキレイさっぱり掻き消えていたという驚きの現実に、やはり声もない。
______________________________ 聖なる夜に
見上げると、刃物で薄く削いだような三日月が澄んだ夜空を照らしていた。もう後わずかで日付も変わる。雲一つない空は地上の熱を容赦なく奪って、一人佇む節の体を芯から冷え込ませた。
「放射冷却かぁ」
呟きが白い。冷気は節の白い顔を容赦なく凍らせ、呟き声は一言で途切れた。振り返ると、第二の自宅ともいえる実験室は遥か後方。足の向くまま歩いていたら、いつの間にかずいぶん遠くまで来てしまったようだ。セーターの上に白衣を着ただけの節は寒さに身を震わせると、しかし温かい実験棟に戻ることなく、そのまま足元の芝生にごろりと横になった。
節が見上げているのは、図書館の三階付近まで枝を伸ばした一本のモミの木。誰が一体どうやって付けたのだろう。立派なモミの木の天辺には、ピカピカと銀色に光る星の飾りが一つ。まるで空を懐かしむ様に、右肩上がりに天を仰いでふんぞり返っている。視力の悪い節の目にもはっきり分かるほど大きく、手作り感満載に不格好なそれは。
「ベツレヘムの星のつもりかなあ」
呆れ混じりで呟いて、今日が何の日かやっと――というか、ついにというか――節にも思い当った。クリスマスイブなのだ、たぶん。深夜だろうと人の気配の絶えない実験棟が、だから今夜に限ってこんなに静かだったのだろう。
聖なる夜か。
節はぼんやりと考え、まあどうでもいいやと独りごちた。冷たい外気は寝不足で火照った顔をあっという間に凍えさせる。それがなんだか無暗に気持ち良くて、節は小さく唇を緩ませた。かじかんだ指で白衣のポケットから煙草とライターを引きずり出すと、節は寝ころんだまま火を付け深く吸い込んだ。白い煙と白い息が、ゆらゆらと揺らめいてまるで雪のようだ。暗闇の中、煙草の赤い火が節の呼吸に合わせて強く弱く点滅する。それはまるで小さなイルミネーション。
星一つのモミの木一本に、真紅の電飾が一つ。月も一人。そして節も一人だ。殺風景なクリスマスツリーは、殺風景な自分にこそ相応しい。節は素直にそう思った。
それなのに――
「なんで私はあんなこと言っちゃったのかなあ」
二週間前、節は生れて初めて告白というやつをした。言おうと決めていたわけではなく、それこそ発作的に。それは、ロマンチックな響きのある「告白」よりもむしろ、出会い頭の事故、アクシデントにより近い。なにより、言った自分に自分が一番驚いたくらいで。
――ただ、気分は悪くない。後悔もしてない。
節が気持ちを打ち明けたのは、中高と同じ学校で友人の礼二郎だ。その上大学まで同じなのだから、もう腐れ縁というやつに間違いない。目を閉じると浮かぶその整った横顔。温かい笑顔と裏腹に辛辣な物言いのその友人を、特別な目で見ていることに気づいたのは実は最近のことだ。学食で向かい合ってランチを食べていた時、礼二郎のどこか焦点を失ったような瞳につられて、気がついたら口に出していた。
アイシテル。
一言。タイミングも何もない。気がついたら、言葉は勝手に口から滑り出していた。言わずにいられなかったから、言った。それだけ。
「魔がさした…わけじゃないと思う」
ため息と共に煙草の煙を吐き出すと、節は瞬きもせず作り物の星を見上げた。
「まあ、なんにせよ言いたいことは言ったし。スッキリしたから、まあいいか」
「スッキリしたからいいって、どういうことだよ」
突然割り込んできたのは、不機嫌丸出しの声。確認するまでもなく確実に怒っていると分かる、その聞きなれた口調は。
「礼二郎」
噂をすればなんとやらだ。降って湧いたように現れた銜え煙草の友人に、節は驚いて目を見張った。ああ、ツリーの電飾がこれで二つだ。何の脈絡もなく、節は頭の隅っこでそんなことをふと思う。なんとなく嬉しくて頬が緩んだ。
「こんなところで何やってんの」
「その言葉、そっくりそのままお前に返してやる、節」
路上に転がった節を冷たく見下ろして、礼二郎は首だけ捻って煙草の煙を吐き出した。
「あーっと…星空観察?」
「…寝ぼけたこと言ってじゃねーよ、節。お前さあ、今の気温何度か知ってる?マイナス3度。氷点下。今夜は今年一番の冷え込みになるって、夕方テレビでヨシズミが言ってたの聞いてねえのかよ。この寒空に外で寝るって、ホントお前バカじゃねえの。観察してる間に、お前がお空のお星様になるっつーの」
「ああ…そうだねえ。星空観察でお星さまか。礼二郎はホント上手いこと言うわ。ミイラ取りがミイラになるって、こういうことなんだろうか」
「反応するの、ソコかよ。ふざけんなよ、節」
節が本気で感心したら、真剣に怒られてしまった。しかし、生憎と礼二郎の言葉はいささかも節の胸を傷つけたりしない。だっていつもの事だし、それにきつい台詞は心配の裏返しなのだ。長い付き合いの節にはそれが分かる。礼二郎はいつだって優しい。それがなんとも嬉しくて、節は穏やかに笑み崩れる。
「心配掛けてゴメン。それと、心配してくれてアリガト」
まっすぐ目を見たら、視線を外されてしまった。眉間にしわを寄せた横顔が、ほんのりと赤い。風邪でも引いたのだろうか。節はにわかに心配になる。
「大丈夫?礼二郎、顔が赤いよ。風邪?」
「うるせえ、バカ。じろじろ見んじゃねーよ」
煙草の吸殻を親の敵みたいにギュウギュウ踏みつけると、礼二郎は大きく舌打ちした。仕立ての良さそうなロングコートが嫌味なほど良く似合っている。知り合った十二の年から数えて八年と八カ月。女っ気の絶えたためしのない男前は、不特定多数の女たちに向ける甘い顔とは裏腹のキツイ眼差しで節を睨みつけた。
「散々あちこち探させやがって。どうせお前のことだから、今日が何の日かなんて気づいてもいないんだろうけど。たく、この俺が必至に探してるって時に、なんでこんなトコで楽しそうに転がってんだ、お前は」
「見て分からないかな、礼二郎。今夜は聖夜でしょ。だから私はこうやって星空観察しつつ、天にまします我らが父に祈りを捧げてるんじゃないの。友人のよしみで、礼二郎の幸せもちゃんと祈るから感謝してよ」
「はぁ?なにその上から目線。しかも、この寒空に路上に寝転がって段ボールにアルミ箔の星付けたツリーの下でお祈りって、マジありえねえ。祈りが届く前に昇天するっての。つかお前、今日がイブだって気づいたの、どうせあの不細工なお星様見てからだろ。つまんない嘘つくんじゃないよ」
「バレたか」
どうやら今宵の友人は思いの外ご機嫌斜めらしい。節は真顔であっさり肯定した。人当たりと外面のいい礼二郎が、ほとんど節にしか見せないツレナイ態度には慣れっこなのだ。
「当たり前だ、馬鹿。お前がこういうイベント事に、ありえないくらい疎いのは知ってんだよ。一体、何年の付き合いだと思ってんだ」
女なら誰でも本能的に知ってる筈のイベントに、節が自分から気づいたことは一度としてない。礼二郎が山ほど貰ったプレゼントをさりげなく、ある時は大っぴらに見せびらかしてはじめて、「ああ」と興味無さそうに頷くのが常なのだから。
「や、私日本人で仏教徒なんで異国の神様の行事はちょっと…。灌仏会(釈迦の生誕を祝う行事)ならわかるんだけど」
「灌仏会知ってる奴がなんでクリスマス知らねーのか、俺にはわかんねーよ。たく、何が異国の神様だ。クリスマスくらい幼稚園児だって知ってるだろ」
寝ころんだ節の隣にしゃがみ込んで、礼二郎はくっくっと堪えきれずに笑い声をあげた。
「やっと笑った」
つられて節が笑う。節は礼二郎の笑った顔が好きなのだ。他の女の子たち用の完璧に取り繕った笑顔を羨ましく思った事はないが、節に笑いかける不思議に子供っぽい顔を心から好ましく思う。あまり感情を動かされない節が釣り込まれて微笑んでしまうほど、心が芯から暖かくなるようなその笑顔が好きなのだ。
「くそっ」
礼二郎は舌打ちすると、うっかりと赤らめてしまった頬に手を当てて節の顔をジロリと睨んだ。
「そんなくだらない話をしにわざわざ来たんじゃねーんだよ、俺は。なんだよ節、一人だけスッキリした顔しやがって。気にくわねー」
「スッキリしちゃマズイの」
「当たり前だ、馬鹿」
不貞腐れたように礼二郎が言う。
「あんなこと言って人を煽っといて携帯に電話してもお前出ないしメールも返さない。アパートにはいつ行っても居ないから実験室に籠ってるのは分かってたけど、実験終わったって聞いて駆け付ければ近田にもういないって言われてさ。こっちはもうずっと焦ってイライラし通しだってのに、その当人が一人で勝手にスッキリしてるってどういうことなんだよ。お前、自己中すぎ。そんで、その何でも自己完結する癖やめろ。少しは振り回されるこっちの身にもなれよ」
よほど腹にすえかねたのか、礼二郎は節の顔から片時も目を離さずに一気に言い募った。無視するつもりはなかったが結果的にそうなっていたらしいと気づいて、節はすまない気持ちになった。振り回す気なんてないが、礼二郎のことをきれいさっぱり忘れていたのもこれまた事実で。
節は傍らの整った顔を申し訳ない気持ちで見つめて、「ごめん」と一言、寒さで上手く回らぬ舌で謝った。この二週間というもの、実験装置の不調で実験室に缶詰状態だったのだ。とはいえ、当たり前だが外部と連絡できないわけでも、出かけられないわけでもなかったワケで。
「ごめんで済めば警察はいらねーんだよ」
「うん。でも、ごめん」
瞬きもせず見上げる瞳をチラリと見て、礼二郎は深いため息をつく。本当に言いたい事はそんなことではないのだ。謝らせる気もない。子供のように拗ねて、そして馬鹿みたいに焦っているだけなのが、なんとも歯がゆくて仕方ないのだ。
―――馬鹿なのは俺で、節じゃねーのに。
礼二郎は小さく首を振ると、もういいさ、と今度ははっきりと言った。
「で、節。携帯はどこ」
「携帯?うーん…たぶん、家?」
節は腕組みすると、軽く眉を寄せて束の間思案した。そう言えば、ここのところずっと携帯をいじっていない。というか見てもいなかった。そう正直に答えたら、ものすごい凶悪な顔で睨みつけられた。
「あ、ははは…ゴメンナサイ」
「…頼むから、携帯くらいはそばに置けよ」
「…気をつけマス」
夢中になると、他が全く見えなくなるのは節の悪い癖だ。節も頭では理解していたのだが、今回もまたやってしまったらしい。どうやら、礼二郎は連絡して欲しかったようだ。そのことに、やっと気がつく。今更気づいても遅いのだが、きっとまた気を使わせてしまったんだろうと節は思った。友達なのにあんな考えなしなことを言って、なんだか悪いことをしてしまった。節は小さくため息をつく。
「ごめん、礼二郎。えっと、なんだ、あんなの気にすることなかったのに。私は別に何かして欲しいわけじゃなく、言いたくなったから言っただけで他意はないんだよ。だから、礼二郎が気にすることなんて何もない。その、気を使わせて悪かったね。それより、今日ってクリスマスイブなんでしょ。こんなところで油売ってちゃマズイんじゃないの。待たせてるんでしょう、彼女。早く行ってあげなよ」
申し訳なさで一杯の節は、心からのお詫びを込めてそう言った。なのに、礼二郎は苦虫を千匹は噛み潰したような顔をして頭を抱えている。
「…節、お前…はぁ……いねーよ、彼女なんて」
力の抜けた声で呟くと、礼二郎はがっくりと肩を落とした。それを聞いて、節ががばっと身を起こす。
「ええっ?何だ、また別れちゃったの、礼二郎。あの子、えーっとアサミちゃんっていったっけ。可愛かったのにもったいない。でも、だったら尚のことこんな所にいちゃ駄目じゃないの。あるんでしょ、ほら。クリスマスパーティーとか合コンとか」
「そんなの行くか!つか、なんで節がアサミのこと知ってんだよ!」
「なんでって、礼二郎が付き合ってる子は、いつも大概島津くんが教えてくれるからさ」
「…なっ、島津って、もしかして地理研の島津?金髪でピアスマニアの?なぜ節がアイツを知ってンだよ!!」
礼二郎は心底驚いて、不思議そうに小首を傾げる節に詰め寄った。地理研の島津と言えば、言わずと知れた礼二郎の遊び仲間。人の悪さでは人後に落ちない礼二郎の質の良くない友人の一人だ。自他共に認める女たらしで、つまりは礼二郎の同類なのだが。
「くそっ、あの野郎、いつの間に節に近づきやがったんだ!」
礼二郎は思わず叫ぶと、島津の人を食ったような薄笑いを思い出して、ギリギリと歯噛みした。全く油断するとすぐこれだ。
「島津くんなら、春に学食で会ったんだよ。礼二郎の親友なんでしょ。親切で良い人だよね。ちょっとスキンシップ過多でびっくりするけど」
「スキンシップって…節、アイツになにかされたのか!」
「やだなー、そんな心配しなくても何もされてないよ。ただ、会うたびに抱きつかれるから、ちょっと恥ずかしいってだけで」
「…島津の奴、コロス」
「えっ、礼二郎何か言った?」
「別になにも」
間違いなく何の疑問も持ってない節がものすごく憎らしくて、礼二郎は足元の何の罪もない小石をゴリゴリと踏みにじった。いや、憎たらしいのは節じゃなく島津か。礼二郎は込み上げる怒りを押し殺して、ニッコリと微笑んだ。
「いいか、節。言っとくが、アイツは俺の親友なんかじゃない。島津成人っていう男は、女と見れば見境ない獣みたいな奴なんだ。危ないから、二度とあんな野郎に近づくんじゃねーぞ。アレはいわばバイキンみたいなモンだ。触られると確実に汚れるから、目視で確認し次第、速やかに逃げろ。半径三メートル以内に近づけるんじゃねー。それと、アイツの口から出る言葉の99%は、嘘と妄想で出来てると思って間違いねーんだ。だから、アイツの言うことを信用すんなよ。絶対に」
「でも、島津くん良い人じゃない。礼二郎のこと、いつも褒めてくれるし」
「アイツが?俺を褒める?」
胡乱な目を向ける礼二郎に、節はこっくりと大きく頷いてみせた。
「うん。この間も島津くん言ってたよ。礼二郎は最高にイイ男だって。合コンお持ち帰り率百パーセントの実績は伊達じゃなくすごいし、視線だけでその気にさせるテクには感動したって。礼二郎は男が憧れる男の中の男。夜の帝王…ええと、あとは」
「いや、もういいよ、節。…つか、島津、絶対コロス」
「?まあ、島津くんのことはともかく、礼二郎が女好きなのは私もよく知ってるし、今さら隠すこともないじゃない。私にはよく分からないけど、クリスマスイブってのは若い男女にとって大事な夜なんでしょ。私はここで陰ながら礼二郎の幸運を祈ってるから、行って楽しんでおいでよ」
屈託なく笑う節が悲しい。心からのものと分かる温かい笑顔に、礼二郎は本気で泣きたくなった。
「…頼むからそーゆーことは祈るな」
自業自得とは言え、礼二郎は心の中で盛大なため息をついた。この八年間というもの、本命が振り向く気配さえない鬱憤を他の女の子と遊んで晴らしていたなんて今更言えるはずもない。礼二郎を見上げる節の顔は滅多にない程の笑顔で、心にもない台詞を無理して言っている様子など欠片もないときているから、尚のこと辛い。
「…愛してるって言ったくせに…」
「えっ、何か言った?」
「いーや。何でもないですけど」
「そ」
節は跳ねるように立ち上がると、礼二郎の肩の辺りでニコリとした。その天使のように穢れない瞳に、礼二郎の胸がキリキリと痛くなる。
綺麗で可愛くて優しくて頭が良くて、どうしようもなく鈍感な礼二郎の大事な節。大切にしすぎて、八年間もひたすら眺めるだけだった愛しい人。
「はああああ…全くもう。なにやってんだ、俺は」
今日が何の日かなんてホントはどうでもいいのだ。それでも聖なる夜というのなら、どうか神様、飾り一つのツリーの下に無造作に置かれた、この美しいプレゼントを俺にください。礼二郎は不意に湧き上がった想いに突き動かされて空を見上げた。他には何もいらない。欲しいのはただ一人。節だけなのだ。
衝動のままに、礼二郎は手を伸ばす。
「ちょ…なに?礼二郎」
「うるさいよ。黙って、節」
冷え切った節の細い体はまるで氷のようだった。礼二郎は節の手を握り締めると、絶対に離すものかと心に決めて、強く強く、その体ごと抱き寄せた。
「はっはふぁいはー(あったかいなあ)」
という節の声はとても楽しそうだ。
カシミヤのコートと礼二郎の腕で丁寧にラッピングされたプレゼント――節だ――は、くたびれた白衣ごと、躊躇うことなくその身を擦り寄せてくる。
「節」
柔らかく愛おしい温もりに泣きそうになる。安堵の吐息をもらして、礼二郎は節の髪に顔をうずめた。わずかに香る節の匂いに、なけなしの理性が持って行かれそうで怖くなる。節を傷つけたくはない。でも、もう本当に限界なのだ。
思えば苦節八年、よくも耐えてきたものだと思う。礼二郎は、我慢とか辛抱とかの対極にある男だと思われてきたし、実際その通りの生活だった。特に女関係。正直、墓場まで持ちこみたい類の醜聞は一つや二つじゃなかったりする。節には絶対に内緒にしたい。
派手に遊びまわりつつ、節に近づく悪い虫をことごとくぶっ潰す生活はなかなかにハードなのだ。色事に関しては天然記念物並に鈍い節は、自分のことをモテナイ女だと勘違いしているようだがとんでもない。節は友達だと思った奴には際限なく優しいし、八分の一外国の血が混じった白い顔は誰が見たって綺麗なのだ。
―――とりあえず、島津は排除だな。
礼二郎はこっそりと冷笑する。邪魔はさせない。あの男の弱みなぞとうに掴んでいる。それより今は節のことだ。礼二郎は決意も新たに、節を抱く腕に力を込めてその名を呼んだ。
「節」
「すごく暖かいねぇ、礼二郎って」
信頼しきった顔で節が唇を綻ばせた。その邪気のない表情に吸い寄せられそうになって礼二郎は切なげに目を伏せる。この無防備な笑顔を壊したくないばかりに、今までどれほど無理を重ねてきたことか。だがそれも今夜で終わりだ。礼二郎の手がやさしく節の髪を撫でる。節の温もりに胸が一杯になって、礼二郎はゆっくりと目を閉じた。どんな手を使ってでも、このプレゼントを自分のものにしてやる。そのためにここに来たのだ。諦めてなるものか。
「…節、愛してるよ」
「うん、私も愛してる」
即答だった。万感の思いを込めた言葉に返された、世にもあっけない一言。
躊躇いも動揺もなく、普段となんら変わりない調子でそう言うと、節は花が綻ぶ様にニッコリと笑った。
「…っうう」
礼二郎の口から不自然な呻き声が漏れた。このシチュエーションで、自分はなぜこんなに不安になるのだろう。自分のアイシテルと節のアイシテルが、同じものとは到底思えないのがその理由だが、怖くてとてもじゃないが追及できそうにない。
「どうしたの礼二郎。顔色悪いよ。やっぱり風邪?」
礼二郎を壮絶に不安にさせたことに気づきもせずに、節はその冷たい指先を目の前の形良い額にそっと押しあてた。