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『ノイズ・イン・ザ・システム〜「あたしを見捨てなかった神様へ」と笑う狂犬を連れて、元企業エリートはどん底から世界を壊す〜』  作者: はーまやー


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1-3.冷徹なる代行者

──悪魔は炎の中ではなく、無菌室のホログラムの向こう側で微笑んでいる。

 区画Cの空気はまだ肺の底に残っていた。機械油と酸と、名前のない肉の焦げる匂い。しかし地下七十二階の戦略AIルームに戻った瞬間、浄化空気がそれらを希釈し始める。まるでこの部屋そのものが、外界の記憶を異物として排除する免疫機構のように。


 カナメは指揮席に座り直した。ホログラムは六時間前と寸分違わぬ青白い光で都市の骨格を描いている。冷却パージの偽装は予定通り完了し、システムは再び承認待機状態に移行していた。猶予は、あと四十分。


 その四十分の間に、カナメは代替案を組み上げていた。


 区画Cの完全遮断に代わる段階的縮退プラン。インフラの即時遮断ではなく、十八ヶ月をかけた漸減措置を実施し、住民の自主的移動を促す。並行して隣接区画Dの受け入れ容量を一時的に拡張し、難民の発生を制御下に置く。コストは完全遮断案より七パーセント増。だがカナメの試算では、遮断に伴う暴動リスク、周辺インフラへの物理的損傷、他区画への難民流入による治安維持コストの増大を加算すれば、長期的な総コストは逆転する。


 論理としては成立する。少なくとも、カナメはそう信じたかった。


 代替案のパラメータをコンソールに入力し、再演算を走らせようとした、その時だった。


 AIルームの気密扉が開いた。認証音は一度きり。最高権限保持者のみに許されたシングルパスだ。


 ノイマンが入ってきた。


 長身、痩躯。オルビット・ネットワーク戦略監査部門の統括官。社内序列ではカナメと同格だが、その職務の性質は根本的に異なる。カナメがシステムを「動かす」側なら、ノイマンはシステムが「正しく動いているか」を検証する側だ。設計者の意図すら監査対象に含まれる。つまり、カナメ自身の判断もまた、この男の射程圏内にある。


 ノイマンは一切の挨拶を省略し、指揮席の正面に立った。灰色の目がホログラムを一瞥し、次いでカナメのコンソール画面に移る。代替案のパラメータが表示されたままだった。


「冷却パージの再実行要請が出ていたね」


 ノイマンの声は柔らかく親しげだった。だが抑揚の奥には温度がなく、事実の確認以上の感情が存在しない。それがかえって逃げ場を潰す。


「コア演算モジュールの温度閾値が基準を〇・〇二度超過していた。マニュアルに従った措置だ」


「でも、閾値超過は観測されていないよ」


 ノイマンはそれだけ言った。反論の余地のない一文だった。監査部門はシステムの全ログにリアルタイムでアクセスできる。偽装コードがどれほど精巧でも、データの不在そのものは隠せない。


 カナメは沈黙した。否定しても意味がない。この男を相手に嘘の上塗りは、泥沼に足を突っ込むのと同義だ。


「六時間の空白の間に、君の生体認証が上層第三ターミナル、中層貨物リフト、旧式エレベーター7-Gで記録されているんだけど」


 ノイマンの視線がカナメの靴に落ちた。ソールの縁にこびりついた黒ずんだ水の痕跡。区画Cの、油膜が光る水たまりの残骸。


「視察かい?」


 問いの形をしているが、答えを求めてはいない。ノイマンはすでに結論を持っている。


「綺麗な代替案だね。段階的縮退、十八ヶ月の漸減、隣接区画Dへの受け入れ拡張。うん、構成としては素晴らしいと思うよ」


 一拍の間があった。


「ただね、コストが合わないんだ。……というか、前提が間違っている」


 ノイマンが自身の携帯端末をホログラムにリンクさせた。カナメの代替案と、AIの最適解が並列で表示される。数字の羅列が二つの柱となって虚空に浮かぶ。


「君の試算には、暴動リスクと難民流入コストが加算されているね。でも、暴動の発生確率は遮断後の情報封鎖を前提にすれば十二パーセント以下に抑制できる。それに——」


 ノイマンの灰色の目が、冷たく細められた。その瞳には、今まで見せたことのない野心が微かに揺らめいていた。


「君も偶然見てしまったんだろう? アクセスログに残っていたよ。『裏の合意』をね。十八ヶ月の漸減措置なんて悠長なことを提案されたら、アークレイ社の兵器テストの台本も、ヘリオス社からの医療素材提供を待っているVIPたちの寿命延長スケジュールも、全部狂ってしまうじゃないか」


 カナメの代替案の根幹が、二十秒で解体された。


 やはり、知っていた。この男にとって、下層の十二万人は人間ではない。それどころか、彼はこの非道な取引を自身の出世のために利用しようと考えているのだ。


「このプロジェクトが無事に遂行されれば、僕は特任執行役員に、君は次期CTOのポストが約束される。簡単なことだ。見て見ぬふりをするだけでいい。数字の通りに承認キーを押せば、お互いにとって完璧な『最適解』が手に入るんだよ、カナメ」


 悪魔の誘いだった。すでに手を打っている。カナメが区画Cの泥水を踏んでいた六時間の間に、ノイマンは上層の会議室で出世のための交渉と根回しを完璧に済ませていたのだ。


 ここでキーを押せば、カナメは生き残り、さらなる権力を手にする。それが社会における一番の「最適解」だ。カナメの論理的思考回路は即座にそう弾き出した。だが、指揮席の肘掛けを握りしめる掌には、爪が食い込むほど力が入っていた。


 脳裏に浮かぶのは、鉄板を叩く老婆の音と、壊れたモーターを回す子供の無言の頷き。彼らの命を売り渡した先に、自分の未来がある。

 その事実が、カナメの中でくすぶっていた怒りに致命的な火をつけた。今まで「合理」という仮面の下に押し殺していた、生々しくて熱い感情が業火となって噴き出した。


「ふざけるな……!」


 カナメはノイマンを強く睨みつけた。平坦だったはずのその声は、明確な怒気と嫌悪に震えていた。


「十二万の人間をモルモットにして、富裕層の臓器を入れ替えるためだけに殺す。それがお前の言う『最適解』か。そんな吐き気のする茶番のために、俺のシステムを使わせるつもりか」


 ノイマンの灰色の目が、僅かに見開かれた。そこにあったのは怒りでも軽蔑でもなく、純粋な驚きと——深い『落胆』だった。


「そんなもののために、俺はキーを押さない。絶対にだ。地獄に落ちろ、ノイマン」


 もはや論理ではない。損得の計算でもない。それはカナメが自らの意志で選び取った、人間としての熱い『拒絶』だった。


「……残念だよ、カナメ」


 ノイマンはため息をつくように、静かに首を振った。


「君は僕と同類だと思っていた。どんなバグも排除し、冷徹に最適解を導き出せる優秀なシステムだとね。だが、君は最後まで人間にすぎなかった。合理性よりも無価値な感傷を優先し、システムを歪ませる、出来の悪い『ノイズ』だ」


 それだけ言って、ノイマンは自身の端末を操作した。三秒。画面に表示されたのは、上層執行委員会の事前承認コード。日付はきょうの午前五時。カナメが区画Cの酸性雨に打たれ、怒りに身を任せて拒絶するよりずっと前に、ノイマンの根回しによる決裁はすでに下りていたのだ。


「君がサインしないなら、僕の監査権限で代行させてもらうよ。規定第七条三項、運用統括官の判断保留が四十八時間を超過した場合──」


「知っている」


 カナメが遮った。自分が書いた規定だ。


 ノイマンが承認キーに触れた。物理的な接触は一瞬だった。システム側にとっては、ただの電気信号の通過に過ぎない。


 ホログラムの都市モデルで、区画Cの灯りが消えた。


 上層から順にではない。全域が同時に、一切の猶予なく暗転した。十二万の人間が住む領域が、都市の三次元地図から色を失い、灰色の空隙に変わる。データフィードが途絶し、区画Cに関するあらゆる数値がゼロにリセットされていく。電力、水道、通信、食糧配送。すべてのパラメータが一本の直線となって底に落ちた。


 ノイマンは端末を切断し、踵を返した。気密扉の前で一度だけ足を止める。


「君は優秀だよ、カナメ。だが、ノイズを取り込んでしまった時点で、君自身が最優先の『切除対象』になることを計算に入れるべきだったね。……せいぜい、ゆっくり休むといい」


 扉が閉じた。


 AIルームに残されたのは、冷却パネルの唸りと、カナメと、そして一つだけ暗くなった都市の残像だった。ホログラムの光がカナメの顔を照らしている。その光から、区画Cの分だけが永久に欠落していた。


 カナメは承認キーを見下ろした。もう何の機能も果たさないそのキーの表面に、自分の指紋が薄く残っている。六時間前、凍りついていた人差し指の痕だ。


 結局、指は動かなかった。動かなかっただけだ。それは抵抗ではない。ただのエラーだった。


 ──そして、エラーを起こした部品がどう処理されるか、カナメは誰よりもよく知っていた。

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