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『ノイズ・イン・ザ・システム〜「あたしを見捨てなかった神様へ」と笑う狂犬を連れて、元企業エリートはどん底から世界を壊す〜』  作者: はーまやー


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8-1.影の銀行と、泥の中の産声

秩序とは、暴力に帳簿をつけることだ。

そしてこの街では、帳簿をつける者だけが生き残る。

 廃工場の天井は半分が崩落していて、残った鉄骨の隙間から雨水が落ちていた。


 床に溜まった水溜まりが、外壁の裂け目から差し込む街灯の光を拾って鈍く光っている。工場の奥——かつてプレス機が並んでいた区画に、十数人の人間がいた。黒灰組の末端だった者たちだ。


 ボスを失った組織の末端たちは、行き場を失ってここに吹き溜まっていた。全員が武装しているが、その銃口は入り口を向いてすらいない。誰を撃てばいいのかわからない彼らは、ただ武器を抱えて怯えているだけだった。


 そこに、カナメが入ってきた。


 レイナが半歩後ろに続く。左腕の義体の指がだらりと垂れた姿勢は、一見すると無防備だった。だが彼女の右手は腰のマチェットの柄に乗っていて、左腕のサーボが微かに——獲物を前にした犬の喉奥の唸りに似た低周波を漏らしている。


 残党の一人が銃を上げた。痩せた中年の男だ。引き金にかかった指が震えている。


「て、てめえら——黒灰組を潰した——」


「そうだ。潰した」


 カナメは歩みを止めなかった。声は平坦で、事実確認以上の温度を持たない。


「お前たちのボスは死んだ。組は消えた。今ここにあるのは、所属を失った十四人の人件費と、行き先のない銃だけだ」


 中年の男の銃口が揺れる。カナメの言葉は脅しではなかった。事実を淡々と述べているだけだった。


「撃ちたければ撃てばいい。ただ、その後どうする。鉄蜘蛛に拾われるか。それとも他のシマで物乞いでもするか。どちらにしてもお前たちの時給は今より下がる」


 沈黙が落ちた。雨水が鉄骨を伝い、水溜まりに落ちる音だけが工場の中に反響している。


「——俺たちに、どうしろっていうんだ」


 別の男が口を開いた。銃は下ろしている。カナメはその男を見た。


「雇用する。全員だ。給与は黒灰組時代の一・五倍を保証する。仕事は物流と運搬。指示された物資を、指示された場所に運べばいい。単純な仕事だ。頭は使わなくていい。代わりに僕が使う」


 残党たちの間に、困惑が走った。皆殺しでも、恫喝でもない。雇用条件を提示されている。スラムの人間は報復と暴力には慣れている。だが「給与交渉」をされた経験はない。


 痩せた男が、もう一度銃を持ち上げかけた。何か言おうとした。


 レイナが動いた。


 動作は一つだけだった。左腕の義体が、工場の柱——腐食した鉄骨の支柱を掴み、握った。それだけだ。


 鉄骨が歪んだ。


 義体の指が食い込んだ箇所から、金属が圧縮される音が響いた。人間の握力が生成し得ない圧力が、直径二十センチの鉄骨をへし折る。支柱が耐えきれず、上部の梁が崩れ、数百キロのコンクリート片が工場の床に叩きつけられた。衝撃で水溜まりが跳ね、粉塵が全員の視界を白く塗った。


 粉塵が薄れたとき、レイナは何事もなかったように元の位置に立っていた。左腕のサーボが排熱音を漏らし、義体の関節に鉄骨の塗膜が薄く付着している。


「——アンタらに選択肢は二つだ」


 レイナの声が、粉塵の残る空気を裂いた。


「カナメに雇われて飯を食うか、ここでアタシに潰されるか。どっちでもいいぜ。アタシはどっちでも楽しいからな」


 三十秒後、十四丁の銃がすべて床に置かれていた。


 カナメはそれを確認し、一人一人の顔を見た。記憶しているのではない。使える人員の数と質を、冷徹に見極めている。


「——明日から動いてもらう。細かい指示は追って支給した端末に送る。解散だ」


 廃工場を出たとき、レイナは退屈そうに首を鳴らした。


「殺さねェのかよ。つまんねェ仕事だったな」


「殺すのはコストだ。十四人を埋める手間と、十四人を歩かせる利益を比べろ。計算は簡単だろう」


「アタシに計算させんなよ。そういうのはアンタの仕事だろ」


 レイナは不満そうに鼻を鳴らしたが、カナメの半歩後ろの定位置には戻った。


          *


 キネの診療所は、スラムの排水路の下にあった。


 汚水管の枝管を改造した通路を抜けると、錆びた防水扉の奥に、薬品と金属の匂いが充満した空間が広がっている。壁面の棚には真空パックされた人工臓器や合成血液のパウチが並び、作業台の上には分解途中のサイボーグ義肢が転がっていた。医療施設と解体工場の中間のような場所だ。


 キネは奥の椅子に座っていた。小柄な老婆だ。皺だらけの手で合成煙草を摘まみ、カナメとレイナを値踏みするように見ている。


「——で、今日は何を買いに来たんだい」


「買い物じゃないですよ、キネさん。投資の話です」


 カナメはキネの作業台の上に、二つのものを置いた。一つは、上層企業のロゴが刻印された軍事規格の医療パス。もう一つは、匿名口座へのアクセスキーが記録されたメモリチップ。


「上層から流れてきた軍事規格の医療認証です。これがあればキネさんの仕入れルートは格段に広がる。資金も用意しました」

「……で? 代わりにアタシに紐をつけて、あんたらの専属になれって話かい。悪いが中立ニュートラルは崩せないよ」


 キネは医療パスを手に取りながらも、義眼のレンズの奥でカナメを牽制した。だがカナメの声に、落胆も気負いもない。

「専属にならなくて構わない。表向きの中立は今まで通り維持してください。その方が都合がいい」


「ほう?」


「俺が構築しているシステムに、キネさんの店を組み込みたい。俺たちの流す情報網とキネさんの顧客情報を接続するんです。俺たちはスラム内で修理や武器を求める客をキネさんの店に誘導する。そちらで治療した他の半グレの情報を、うちのシステムに共有してもらう」

 この軍事パスで仕入れた最高のパーツがあるなら、スラム中の荒くれ者がキネの店に集まるだろう。客の流れを操作し、集まった情報を吸い上げる。キネの店自体を、巨大な情報収集用のハブにするという生々しいビジネスモデルだ。


「お互いの資産と情報を共有する、極めて対等なパートナーシップです。ただし、俺たちの持ち込む修理と武装化だけは、常に最優先で実行してもらう」


「……なるほどね。あたしは最新の設備と客の増加を手に入れ、あんたはスラムの裏の武器と治療のパイプを元締めの代わりに牛耳る気か。随分とでかい絵を描くじゃないか」

 キネは合成煙草の煙を吐き出し、老婆の顔に獰猛な笑みを浮かべた。「まだ組の看板すら持っていない野良犬どもが」


「看板なら今日つけます」

 カナメは即座に答えた。血と暴力と欲の匂いが立ち込めるこの街で、初めて確固たる「自分の盤面」を形作ろうとしている。その静かな昂揚感をカナメは胸の奥で確かに感じていた。表情には一切出さないが、冷徹な思考の裏側にある体温が微かに上がっている。

「俺の隣にいる狂犬をさらに鋭く研ぎ直すために、一番腕のいい医者が必要なんです。キネさん、あなたほどの」


 キネは険しい目でカナメを数秒間見つめ、それからしわがれた声で喉の奥で笑った。

「——ハッ、馬鹿げてる。だが、治しがいのある狂った患者と、スラムじゃお目にかかれない最新設備には、いくら中立の医者でもあらがえないもんでね。……いいだろう。乗ってやるよ、坊や」


          *


 旧変電所に戻ったのは、深夜を過ぎてからだった。


 マウスは複数のモニターに囲まれた定位置にいた。そしてその傍らの大型スクリーンには、AIリリの映像が映っている。マウスが莫大な予算を注ぎ込んだ恩恵か、リリの解像度は驚くほど向上しており、滑らかに微笑むその姿は本物の少女と見紛うほどだった。


「ア、アハハハハ! おかえりカナメさんッ! やったよ、ついに僕とリリちゃんのハッキング技術の最高傑作が完成したんだァ!」

 マウスは椅子から半分身を乗り出し、興奮で顔を紅潮させながらキーボードを激しく叩いた。

「南ブロックの電力グリッド、通信インフラ、さっきの末端の連中への指示用ネットワーク! 暗号化レイヤーを極厚に何重にも重ねて、全部うちの回線に組み込んだったよ! す、すっごい快感だ……これならスラムのどこにいても、情報が筒抜けさ!」


「外部からの傍受は」


「だ、だから絶対に無理だってば! この僕たちが組んだシステムだよ!? 少なくとも上層企業の標準スキャナじゃノイズにしか見えない! く、崩そうと思っても、リリちゃんがその前にカウンターで相手の脳を焼くからね。ねぇ、リリちゃん!」

『はい、マスター。すべての脅威は私が排除します』

 リリが静かな声で答えると、マウスは「ひゃあっ!」と奇声を上げて画面に頬ずりしそうになった。


「……それでいい」


 カナメは一人で騒ぎ続けるハッカーの異常なテンションを完全にスルーし、画面に展開された南ブロックのインフラ地図を見た。電力、通信、監視カメラ、隔壁の制御系統。すべてが一つのネットワークに統合され、暗号化された回線の中でカナメの指示を待っている。


 組織の機能が、ようやく一つに繋がった。


 黒灰組の残党という人員。キネという武器と医療の供給源。マウスとリリという情報網。そしてレイナという、最も確実な暴力。


 帝国には程遠い。中規模の組織ですらない。だがそれでいい。巨大である必要はない。必要なのは効率だ。一円の無駄もなく、一人の余剰もなく、投入したリソースが最大の利益を生む構造。


 すべてがカナメの設計した通りに進んでいた。上層に見捨てられ、スラムに捨てられたただのバグが、たった半年でこの南ブロックの暗部を支配する独自のシステムを築き上げたのだ。

 カナメは冷徹な顔を崩さないが、その深奥には、確実に燃え上がるような暗い達成感と、自ら作り上げた小さな盤面を思い通りに動かせるという確かな昂揚感が宿っていた。


「名前をつける」


 カナメは振り向かずに言った。レイナが壁に寄りかかったまま、マウスがモニターの前で、それぞれカナメの背中を見ている。


「シャドウ・バンク。影の銀行だ」

 カナメは、暗号化が何重にも施されたネットワークの海を見据えながら続けた。

「表の光が届かないスラムの底で、ありとあらゆる裏金と情報を吸い上げ、見えざる手によって支配する機関。——僕たちは今日から、この街の裏側に預金口座を開く」


 レイナが鼻で笑った。


「銀行かよ。カナメらしいっちゃらしいけどな。ま、看板が何だろうとアタシのやることは変わんねェよ。アンタが指差した奴を、ぶっ壊すだけだ」


「シャドウ・バンク……ひ、響きがサイバーパンクな秘密結社っぽくて、超絶カッコいいじゃんか……ッ!」

 マウスは目を輝かせ、「さ、最高だ……僕、一生アンタについていくよ、ボス……!」と興奮しながら、システムの最上位ディレクトリにその名を打ち込んだ。画面の中でリリも小さく拍手をしている。


 カナメはモニターに映るインフラ地図を見つめた。南ブロックの地下に拠点を置いた、小さな、だが精密な組織——影の銀行が、ここから本格的に動き出そうとしていた。

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