1-2.現場の体温
──答えの出た問いを確かめに行くのは、合理的な人間のやることではない。
カナメの指が動いた。ただし、承認キーの上ではない。
左手がコンソールの隅にある保守端末に伸び、三秒の操作でシステムログに偽装コードを滑り込ませた。戦略AI「カルキュラス」のコア演算モジュールに対する定期冷却パージの再実行要請。承認プロセスは自動的に一時凍結され、再演算の完了まで推定六時間の空白が生まれる。外部から見れば、ただのルーティン・メンテナンスだ。疑う者はいない。このシステムの設計思想を最も深く理解しているのは、他でもないカナメ自身だからだ。
なぜそうしたのか。明確な理由はなかった。強いて言えば、右手の人差し指がまだ凍っていたからだ。動かない指に理屈を与えるために、左手が先に動いた。それだけのことだった。
カナメは指揮席から立ち上がり、ホログラムの青白い光に背を向けた。
*
地下七十二階から地上に出るまでに、四つのセキュリティゲートを通過する。IDスキャン、網膜認証、歩行パターン照合。カナメの生体情報は最高権限で登録されているため、どのゲートも無言で道を開けた。
地上の更衣ロッカーで社用のチューニックを脱ぎ、私服に着替える。カーボン繊維の黒いジャケット、擦り切れたカーゴパンツ、フードつきの防酸コート。鏡に映るその姿は、上層の管理職というよりも、中層の配送労働者に近い。それでいい。オルビット・ネットワークの運用統括が下層境界を単独で徘徊していると知れたら、査問だけでは済まない。
上層第三ターミナルから磁気リニアに乗る。中層で乗り換え。さらに貨物用のリフトシャフトを二つ経由し、最後は錆の浮いた旧式エレベーターで十五分かけて降下する。階層が下がるごとに、空気の質が変わった。上層の無菌に近い循環空気から、機械油と湿った金属の匂いへ。さらにその下、有機的な腐敗と、人間の体温が混じり合った重たい空気へ。フィルター越しでも鼻腔の奥に張りつくような粘度がある。
エレベーターの扉が開いた瞬間、酸性雨の飛沫がフードを叩いた。
区画C。
カナメの目に映ったのは、ホログラムの三次元モデルが決して再現しない風景だった。
頭上を走る排水パイプは赤茶色に腐食し、継ぎ目から汚水が断続的に滴り落ちている。通路の両脇には、規格外の建材で無秩序に増築されたバラック群がひしめき合い、その隙間を縫うようにして極彩色のネオン管が明滅していた。ネオンの半数は文字が欠けており、何を広告しているのかすら判別できない。それでも光り続けている。電力が通っている限り、意味を失っても光は消えない。
足元には黒ずんだ水たまりが広がっていた。油膜が虹色に光るその表面に、カナメ自身のシルエットが歪んで映っている。水を避けて歩こうとしたが、三歩目で諦めた。ここでは乾いた地面のほうが例外だった。
通りには人がいた。データベース上では「生産性指数〇・三一」と記述される集合体が、そこでは個別の顔と声と体温を持って動いていた。路地の角で鉄板を叩いて何かを焼く老婆。油煙が立ち上り、得体の知れない肉の匂いが酸性雨の中に混じる。その隣で、再生プラスチックの椅子に座った男が二人、正体不明の酒を酌み交わしている。笑い声が聞こえた。配給カードの期限を話題にしているらしいが、その口調には切迫よりも、ある種の諦観を通り越した軽さがあった。
排水溝の脇では子供が三人、壊れたドローンの残骸を分解して遊んでいる。一人がモーターコイルを引き抜き、別の一人に投げて寄越す。受け取った子供は慣れた手つきでそれを別の基盤に接続し、かすかな回転音を鳴らして見せた。歓声はない。ただ互いに頷く。この年齢で、使える部品と使えない部品の選別ができる。
カナメは通りの端に立ち、フードの奥からその風景を眺めていた。
十二万。ホログラムの上では、それは五桁の数字だった。遮断後二十一日で生存率〇・四パーセントまで下落する、変数の集合体。しかしこの場所では、十二万は鉄板を叩く音であり、油煙の匂いであり、壊れたモーターを回す子供の無言の頷きだった。
非合理だ、とカナメは奥歯を強く噛み締めた。ここに来たところで何も変わらない。彼らが明日、新型兵器の実弾テストの的にされ、臓器の交換パーツとして解体されるという決定は、路地裏の酒盛りを見たところで覆りもしない。
企業にとって、彼らは生きた人間ではなく、出荷待ちの在庫だ。その事実を数字として処理するのが自分の仕事だったはずだ。
——だが、目の前にいるのは「在庫」ではない。笑い、汗をかき、懸命に今日を生き延びようとする「人間」だ。
カナメは防酸コートのフードを少しだけ下ろした。
酸性雨の微粒子が頬に触れる。痛覚。それは数字に変換できない情報だった。通りの奥から聞こえる割れた低音のベースラインが、カナメの心臓を不規則に叩く。
「……くそっ」
無意識のうちに悪態が漏れていた。機械油と人間の体温が混じり合ったスラムの空気が、上層の無菌室で凍りついていたカナメの感情を強引に解凍していく。
論理が「引き返せ」と警告しているのに、拳を固く握りしめたカナメの足は、泥の路地に深く根を張ったように動かなかった。理不尽な虐殺を前にして、どうしても「最適解」へと逃げ込むことができなかったのだ。
カナメは深く息を吸った。機械油と、酸と、人間の汗と、鉄板の上で焦げる何かが混じり合った、分類不能の空気。肺が重くなる。上層の浄化空気に慣れた呼吸器には、明確に有害な大気だった。
それでも、吐き出さなかった。
合理的な人間なら、こんな場所には来ない。来たとしても、すぐに引き返す。防酸コートの内側で、カナメの論理がそう告げている。おまえは今、六時間の猶予を無意味に浪費している。この視察にはいかなる業務上の正当性もない。おまえの中のノイズが、おまえ自身の設計を裏切ろうとしている。
カナメはその声を否定しなかった。正しいからだ。すべて正しい。
だが、足はまだ動かなかった。上層へ戻る方向には。
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