6-1.エラーコードの反芻
──気まぐれな善意ほど、後になって高くつくものはない。
カナメは一睡もできなかった。
コンテナの天井を見上げたまま、六時間が過ぎていた。断熱シートの継ぎ目から結露が滴り、防水布の上に小さな水音を立てている。その単調な音が、思考を停止させてくれればよかった。だが脳は止まらない。同じ映像が繰り返し再生される。
フェンス。灰色の空。金網の隙間から突き出された小さな手。泥にまみれた顔。寒そうだったからというだけで、気まぐれに与えた赤いマフラー。
あの日、哀れみで無責任に施しを与えたその子供を、今自分は最も過酷な死地へ立たせている。どういう経緯で彼女が狂信的な殺人者に育ったのかは分からない。だが、かつて自分が与えた一瞬の温もりを十五年間命綱のように握りしめてきた少女に、自分は他人の四肢を砕かせて血まみれにさせている──その事実が、カナメの胃を重く沈ませていた。
マットレスの足元で、レイナが身じろぎした。
大きな義体を丸めるようにして、カナメの脚の横に体を押し込んで眠っている。寝息は浅く不規則で、時折、義体のサーボが微かに痙攣する。いつもなら、ただの「休息中の戦力」としか見えなかった光景が、今は喉の奥に鉛を押し込まれたように重い。
レイナの右目が開き、起き抜けの焦点がカナメを捉えた。
「……ん。朝かよ」
レイナは伸びをした。義体の左腕のサーボが唸り、生身の右腕が天井に向かって伸ばされる。カナメの脚に顎を乗せ、まっすぐに見上げてくる。
「昨日、ちゃんとやったじゃねェか。殺さなかったろ。いい子だろ」
褒めを待つ、混じりけのない目。
カナメは右手を持ち上げた。いつもなら、無表情にその頭を撫でてやるのが二人の終わりの儀式だった。
だが、指先がレイナの髪に触れる寸前で、ひどく重くなった。
この髪の下にある頭の中に、十五年前のマフラーの記憶が詰まっている。そう知ってしまった以上、今までのように「便利な手駒を労う」という単純な計算行為では片付けられない。自分が救った気になっていた子供を、残酷に使い潰しているというどうしようもない罪悪感が、指先を縛り付ける。
カナメはゆっくりと、不器用に手を下ろし、レイナの髪に触れた。熱かった。ただの物理的な体温ではなく、人間の生々しい熱がそこにあった。その温度が、指を火傷させるように痛い。
「……よくやった」
声が微かに掠れていた。レイナの右目が、不思議そうに揺れた。
「……あんた、手ェ冷たいぜ。なんか調子悪いのか?」
「……いや。何でもない」
気まずい沈黙がコンテナ内に滞留した。
それを切り裂いたのは、端末の通信音だった。
暗号化されたチャンネル。マウスからだ。カナメは端末を開いた。マウスの声が、いつもと違う種類の興奮を帯びて飛び出した。
「つ、通信完了! か、幹部の鬼柴に全データを送った! こ、今朝の六時に鬼柴が確認して、そ、即座に臨時の幹部会を招集! せ、正午付けで黒灰組は血盟会から正式に破門された! あ、あいつらもう誰にも守ってもらえない! ぼ、僕の依頼、本当にやってくれたんだ!」
裏社会の巨大組織を動かし、自分を脅かしていた一つのギャングの命運を決定した全能感に酔っているのが、吃音の合間から伝わってくる。
「落ち着け。仕事はまだ終わっていない」
カナメは低く応じた。六時間の苦悩を、腹の底に無理やり押し込める。
「破門された黒灰組は、本拠地である旧変電所に逃げ込み、籠城するはずだ。看板を失った連中を助ける勢力はいないし、幹部連中はその施設に隠し持っている裏金や薬物を手放せない」
カナメは端末を閉じ、立ち上がった。レイナを見た。
先ほどの怪訝な顔は消え、全身の筋繊維が戦闘の予感で張りつめていた。血の匂いを嗅ぎつけた狂犬の顔つきだ。
「やっとあのクソ共ぶっ殺せるんだろ。待ってたぜ」
壁に立てかけてあった折れたマチェットを掴み、腰のホルスターに拳銃を差す。
「行くぞ。旧変電所に籠城した連中を駆除し、あの大容量サーバーと強固な防壁を持つ施設を、今日から丸ごと俺たちの『本拠地』として奪い取る」
カナメはコンテナのロックに手をかけた。背後でマチェットの刃が鳴る。
「カナメ」
「何だ」
「この仕事が終わったら、なんか美味いもん食わせてくれよな。行くぜ」
カナメは頷き、コンテナの扉を押し開けた。酸性雨の匂いと、灰色の光が流れ込んできた。
──俺はこれからも、この女を平然と血の海へ送り込めるのか。
答えは出なかった。生々しい人間としての罪悪感を顔の下に縫い止めたまま、カナメは最後にして最大の拠点制圧戦へと歩み出した。
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