5-4.過去のエラーログ
──過去は消去できない。コードの奥底に、最初の一行が永遠に残り続ける。
扉が開いた。
巡回兵が一人、制御室に足を踏み入れた。手にはスタンロッドと小型の通信端末。サーバーラックの陰に潜むレイナの姿は、まだ見えていない。男は部屋の異変──こじ開けられたサーバーの側面パネルに気づき、通信端末を持ち上げようとした。
レイナの義体の左手が、その手首を掴んだ。
通信端末が床に落ちる。男が息を吸い込む──悲鳴の予備動作。レイナの生身の右手が口を塞いだ。押し倒す。床に叩きつける。膝で腹を押さえ込み、身動きを封じた。
殺せば一秒で済む。頸椎を折るか、気管を潰すか。レイナの義体の握力なら、どちらも指先一つの作業だ。
だが、首輪が締まった。
殺すな。カナメの声が脊髄に刻まれている。命令は絶対だ。神の言葉と同義だ。だからレイナは殺さない。殺さない。殺さない──
代わりに、壊した。
右腕の肘を逆方向に折った。関節が砕ける湿った音。男の口を塞ぐ手に力を込め、悲鳴を喉の奥に押し戻す。次に左腕。同じ角度で。次に右脚の膝。義体の左手が脛を掴み、人体の可動域を無視した方向へ捻る。三つ目の破砕音。左脚の足首。四つ目。
男は白目を剥いてショック状態に陥った。呼吸はしている。心臓も動いている。死んではいない。ただ四肢のすべてが、二度と元には戻らない角度で折れ曲がっているだけだ。
殺してない。指示通りだ。
レイナは男の上から立ち上がった。呼吸が荒い。義体の左拳が小刻みに震えている。殺意の残滓が指先に滞留し、行き場を失っている。胸の内側で、赤いマフラーの切れ端が濡れたまま肌に張りついていた。汚された。あの布を汚された。十五年間、弾丸に撃たれても、義体を砕かれても、一度も手放さなかった布。
殺したかった。心の底から。だがカナメが「殺すな」と言った。だから殺さなかった。
レイナはストレージを内ポケットに確認し、制御室を後にした。
*
路地裏に戻ったのは午前三時四十二分だった。
室外機の陰で端末を凝視していたカナメが、レイナの足音に顔を上げた。酸性雨のカーテンの向こうから、レイナが歩いてくる。全身が血に濡れていた。ジャケットの前面、義体の左腕、生身の右手。すべてが赤黒い液体で光っている。血の量が、三人を気絶させるだけの作業とは明らかに見合わない。
「ストレージ。取ってきたぜ」
レイナは内ポケットから記録媒体を取り出し、カナメに差し出した。声は平坦だ。報告の声だ。
「殺したか」
「殺してねェよ。全員生きてる」
カナメはストレージを受け取った。レイナの目を見た。右目の焦点は定まっているが、瞳孔がわずかに開いている。アドレナリンの名残だ。
「最後の一人は四肢を折った。巡回が予定外に来やがったンだ。殺さなかった。指示通りだ」
カナメは一拍の間を置いた。四肢の複雑骨折。殺してはいない。だが──
「……指示通りだ」
それ以上は言わなかった。この女の暴力の閾値を問い詰めることに、今は意味がない。ストレージは手に入った。作戦は完了だ。
カナメは何も言わず、自分のポケットから清潔な布を取り出し、レイナの血と泥に汚れた頬を拭い始めた。義体のメンテナンスではなく、ただ傷や汚れを気遣う、無意識の人間的行動だった。
だが、カナメの指が胸元の血を拭おうとした瞬間、レイナが過剰に反応して半歩下がり、自身の手で慌てて胸ポケットを庇った。その弾みで、合わせ目から何かがこぼれ落ちた。
赤い布切れ。
カナメの足元に落ちたそれは、色褪せ、擦り切れ、過酷なスラムの泥を吸い込んで黒ずんでいた。だが、ネオンの紫色の光の下で浮き上がったのは、上層でしか手に入らない合成ウール混紡の特有の織り目だった。
カナメの拭う手が空中で止まった。
落ちた布を凝視する。視覚よりも先に、遠い記憶が脳髄を叩いた。
赤い。マフラー。
ただの上層の規格品ではない。片方の端に、素人が不器用に繕った歪な縫い目がある。この縫い目を作ったのは──
脳の奥で、厳重にロックされていたメモリ領域が弾け飛んだ。
十五年前。十歳の時。企業アカデミーの視察で下層との境界フェンスに行った日。
クラスメイトが鼻をつまむ中、フェンスの網目から汚れた小さな手を突き出していた浮浪児の少女。
カナメは、何の計算もなく、ただの気まぐれと偽善的な同情から、持っていた千クレジット札と赤いマフラーをフェンスの隙間から押し込んだ。少女の顔も覚えていない。振り返りすらしなかった。そのまま十五年間、一度も思い出したことはなかった。
足元に落ちたその布を、レイナは泥を払うように慌てて拾い上げ、大事そうに両手で包み込んだ。
「わりぃ、これだけは血で汚したくなかったから……」
レイナが申し訳なさそうに見上げてくる。
カナメの視界が大きく揺らいだ。
血に塗れ、義体の左腕から冷却液を滲ませ、片目の光学センサーが壊れたまま、無垢な忠犬のように自分を見つめている女。
あの少女だ。
フェンスの向こうで震えていた泥まみれの子供だ。自分が気まぐれにマフラーを投げ与えただけの、名前も知らなかった命。それが十五年後、この血に塗れた忠犬に──自分を「神様」と崇拝して嬉々として他人の四肢をへし折る狂犬に──なっていた。
激しい絶望が頭を殴りつけた。
張り詰めていた思考が、一気にショートする。
自分の気まぐれな善行。十歳の子供の、自己満足の偽善。
それがあの時救った──いや、救った気になっていた無垢な子供を、十五年越しの今、自分は最も残酷な形で隷属させ、血の泥沼に突き落とし、使い潰している。
強烈な吐き気が込み上げた。胃液が逆流する錯覚に襲われる。
カナメは壁に手をついた。ただの使い捨ての駒だと思っていた女の存在が、自分の過去の拭い去れない罪と業の結晶として、血だらけの笑顔で迫ってくる。どう言い訳しようもない罪悪感と情の激流が、カナメの心を完全に押し流していた。
「……カナメ」
レイナの声が聞こえた。怪訝な声だった。
「どうしたンだ。顔色、ヤバいぜ」
カナメは顔を上げた。レイナが血に汚れた顔で、心配そうにカナメを見ていた。片目の視線。飼い主の異変を察した犬のような、まっすぐな目。自分がカナメに何を与えてしまったのか──いや、カナメがかつて自分に何を与えたのかが、この女の世界のすべてを規定しているのだという事実に、レイナ自身はまるで気づいていない。気づく必要もないと思っている。なぜなら、それはレイナにとって疑いようのない「真実」だから。
「……何でもない」
カナメはそう言った。声が酷く掠れていた。
カナメは震える右手を伸ばし、もう一度、レイナの頬にこびりついた血を親指の腹で微かに拭った。
そして、レイナが両手で包み込んでいる大事な赤い布を、そっと彼女の胸元に押し戻した。心臓の上に。
「帰るぞ。暖かい部屋に」
カナメの足が一歩を踏み出した。いつもより重かった。水を吸った泥のせいではなかった。
レイナがその半歩後ろに続く。血に汚れた忠犬が、雨の中で主人の背中を追う。その右手の中に、十五年前のマフラーの切れ端を握りしめたまま。
酸性雨が、二つの影を等しく打っていた。
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