5-3.路地裏のエラーコード
──夜が最も深い時間帯には、人間も獣も同じ体温で震える。
深夜二時。南第四ブロック、旧変電所の裏手。
酸性雨が視界を白く塗りつぶすほどの勢いで降り注いでいた。排水溝が処理しきれない雨水が路面を川のように流れ、足首まで浸かる泥水が通りを覆っている。街灯は三本に二本が切れており、残った一本のネオンが紫色の光を断続的に投げかけていた。
壊れた業務用室外機の裏側。建物の外壁との隙間にできた、人がようやく一人半身を収められる程度の空間。カナメとレイナはそこに身を押し込んでいた。
狭い。
物理的に距離を取ることが不可能だった。カナメが壁に背を預け、レイナがその胸に背中を押しつける形になっている。防酸コートのフードを被った二つの頭が、室外機の錆びた筐体の下に隠れていた。レイナの義体の左腕がカナメの脇腹に当たり、右脚の膝がカナメの太腿の上に乗っている。
義体が熱を帯びていた。サーボモーターの待機電力が生む微かな排熱。摂氏三十八度前後。酸性雨で体温を奪われたカナメの生身にとって、その鉄の熱は不愉快なほど心地よかった。
「……あったけェ」
レイナが呟いた。背中をカナメの胸にさらに深く押しつける。フードの隙間から彼女の髪が覗き、雨水と汗が混じった匂いがカナメの鼻腔に届いた。硝煙の残り香と、機械油と、その下にある──人間の肌の匂い。
「静かにしろ。作戦前だ」
「静かにしてんじゃん。動いてねェし」
動いていないのは事実だった。だがレイナの呼吸が、意図的にカナメの首筋にかかる角度に調整されていることを、カナメは感知していた。湿った息が耳の下の皮膚を掠めるたびに、体温が局所的に上昇する。生理的反応だ。制御可能なはずの反応だ。
「アンタの心臓、さっきより速なってるぜ」
「気のせいだ」
「背中で聞こえてんだよ。ドクドクってな」
レイナが頭を少し傾け、カナメの顎の下に額を押しつけた。甘えた動作だった。野良犬が飼い主の手に鼻先を擦りつけるのと、構造的には同じだ。だが伝わってくるのは犬の毛並みではなく、濡れた髪の感触と、その下にある頭蓋骨の硬さと、生身の肌の柔らかさだった。
「……やめろ」
「やめねェよ。寒いンだもん」
「寒いなら義体の排熱で温まれ」
「アンタのほうがあったけェ。生きてる熱は鉄と違うンだよ」
カナメは反論を飲み込んだ。理屈で返せる言葉がなかったからではない。レイナの背中から伝わる体温──義体の鉄の熱と、生身の背骨の熱が重なり合った境界線の温度が、思考のリソースを不必要に消費し始めていたからだ。
思考のノイズだ。カナメはそう片付けようとした。あの冷たいコンテナの中で、不味いコーヒーを啜りながら分け合った体温の記憶が、皮膚の下で微かによみがえっている。戦力として運用する限り、この距離は不可避だ。戦闘中の連携、義体の修理、狭い隠れ家での共同生活。だが距離が縮まるたびに、「道具」というラベルからはみ出す感情の揺れが顔を出す。肌の温度。匂い。呼吸のリズム。それらは損益計算の表には載らないノイズであり、カナメの合理的な思考を確実に鈍らせていた。
「ねえ」
レイナの声が、雨音に紛れるほど小さくなった。
「アタシ、ちゃんとやるぜ。殺さねェ。アンタが殺すなって言ったからな」
「分かっている」
「あたしはアンタのモンだから。アンタが望む通りに動く。望む通りにしか動かない」
その声には、媚態とも信仰ともつかない重力があった。甘さと、それを支える底なしの暗さ。レイナのこの声を聞くたびに、カナメの胸の底で何かが軋む。それは倫理のノイズではない。もっと原始的な、名前をつけるのを拒んでいる何かだ。
「……そうだ。お前は俺の武器だ」
カナメは短くため息をつくと、自ら少しだけ体勢を崩し、レイナの体が自分のコートの内側にすっぽりと収まるように腕を回して引き寄せた。
「だからこそ、勝手に壊れることは許さない。俺の指示通りに動いて、必ず無傷で戻ってこい。……密着したほうが温かいからな」
ただの言い訳にすぎない不器用な言葉に、レイナの背中が微かに震えた。寒さではない。「俺のもの」と呼ばれ、同時に生き残ることを「絶対の命令」として求められた歓喜が、彼女の心を満たしていた。レイナは喉の奥で嬉しそうに笑った。
腕時計の液晶が午前三時を指した。レイナの身体から甘さが消えた。
切り替わりは瞬間的だった。カナメの胸に預けていた背中が離れ、弛緩していた筋肉に張力が戻る。右目の焦点が鋭くなり、左目の壊れた光学センサーの跡がフードの下で暗く光った。呼吸が深く、ゆっくりになる。心拍数が下がっていくのが、離れた背中越しにも分かった。
三時十四分。
「行け」
カナメが言った。レイナは振り返らなかった。室外機の影から滑り出る動きは、人間のそれではなかった。四つ足の獣が物陰から獲物に向かって発進する時の、重心の低い流線形の加速。酸性雨のカーテンがレイナの影を飲み込み、三秒後には視界から消えた。
旧変電所の排気ダクト。口径六十センチの金属管が建物の側面から突き出している。レイナはダクトの格子を義体の左手で握り、金属ごと引き剥がした。音は雨にかき消された。身体をダクトの中に滑り込ませる。肩幅ぎりぎりの狭さ。義体の左腕を先行させ、生身の右手と膝で管の内壁を押しながら匍匐で進む。
ダクトの出口は施設の二階、旧空調室。天井のパネルを押し上げて内部に降り立った。
静寂。
施設の内部は薄暗い非常灯のオレンジ色だけが照らしていた。コンクリートの壁、鉄の扉、埃の積もった床。カナメの端末から転送された見取り図が、レイナの脳裏に刻まれている。巡回ルート、タイミング、死角の位置。すべてが数字として入力されており、レイナの身体はそれを運動に変換する。
最初の巡回警備が、北側通路を歩いてきた。足音は二人分。歩調は緩い。深夜の単調な勤務に緊張感は失われている。
レイナは天井の配管に義体の左手で掴まり、身体を持ち上げた。二人の警備が真下を通過する。息を殺す。鼓動を落とす。義体のサーボモーターの駆動音すら、意思で制御できるまでになっていた。
二人が通り過ぎた。背中が見えた。レイナは音もなく着地し、後方から接近した。マチェットの峰が一人目の後頭部を打った。崩れ落ちる体を義体の腕で受け止め、床に静かに寝かせる。二人目が異変に気づいて振り返る前に、右手の掌底が顎を突き上げた。脳震盪。二人目も崩れた。所要時間、三秒。
固定哨は入口に一名。レイナは巡回の死角を縫って迂回し、背後から首に腕を回した。スリーパーホールド。八秒で意識が落ちた。
地下一階。旧制御室の扉は電子ロック。カナメから事前に受け取った解除コードを入力する。ロックが外れた。
サーバールーム。黒灰組の裏帳簿が眠る物理サーバーが、埃を被って鎮座していた。レイナはサーバーの側面パネルを義体の指でこじ開け、内部のストレージユニットを引き抜いた。掌に収まるサイズの記録媒体。これが、黒灰組の命綱であり、同時に首を絞める縄だ。
ストレージをジャケットの内ポケットに収めた、その時だった。
階段を降りてくる足音が聞こえた。
予定にない巡回だ。一人。だが足音が速い。何かに気づいたか、あるいは通常のローテーション外の見回りか。
レイナはサーバーラックの影に身を滑り込ませた。呼吸を殺す。壁に背を張り付けた拍子に、ジャケットの内ポケットが歪んだ。中に入っているものが落ちそうになる。
布だった。
赤い、ボロボロの布切れ。元はマフラーだったものの切れ端。色褪せ、擦り切れ、何度も縫い直されたその繊維を落とさないよう、レイナの生身の右手が瞬時に胸元を押さえた。
息が止まった。戦闘中でも止まらなかった呼吸が、この瞬間だけ熱を帯びた。
足音が近づいている。レイナの指先は、胸の奥に押し込んだ布切れをきつく握りしめている。十五年間、一日も手放さなかったもの。弾丸よりも、義体よりも、自分の命よりも大事なお守り。
それを今、敵の血で汚すわけにはいかない。カナメの「無傷で戻れ。殺すな」という命令と、胸にある赤い布の熱が、彼女の暴力衝動に冷たい鎖をかけていた。
足音が、制御室の扉の前で止まった。
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