5-1.トラップハウスと完璧な嫁
──人間を信じないことは、弱さではない。正しく怖がれる者だけが、正しく生き残る。
旧型浄水施設の入口は、スラムの地表から三層下にあった。
かつては都市の水循環を担った巨大インフラの残骸だ。上層が独自の浄水系統を構築した後に放棄され、配管と濾過槽の迷宮だけが地下に取り残された。入口は錆びた防水扉。キネから三十万で買った情報にあった座標の場所だった。
扉を開けた瞬間、レイナが腕でカナメを遮った。
「待てよ。嫌な匂いがするぜ」
カナメの鼻には何も感じられなかったが、レイナの勘を疑う理由はない。この半年で学んだ──この女の野生の嗅覚は、センサーより速い。
カナメは端末を起動し、施設の旧設計図と現在の電磁放射パターンを照合した。微弱な電流反応が複数。通路の壁面、天井、床下。パターンは不規則だが、配置には一定のロジックがある。
「トラップだ。自動機銃が二基、通路の左右に。床にスタン地雷が三個。天井にレーザートリップワイヤー」
「全部ぶっ壊せばいいんだろ」
「順番がある。まず天井のトリップワイヤーを俺がセキュリティの同期から切り離す。三秒の空白が生まれる。その間に機銃の射角の外──右壁から四十センチの位置を抜けろ。地雷は踏むな」
「踏まねぇよ。目ぇついてんだから」
カナメの端末が施設の旧制御系にアクセスした。セキュリティの同期プロトコルに偽の更新信号を送り込む。天井のレーザーが瞬いた。
「今だ」
レイナが走った。暗闘の中を、義体の右脚が地面を蹴り、生身の左脚が追従する。通路の幅は二メートル。右壁四十センチのラインを駆け抜けながら、左の自動機銃がターゲッティングを開始する回転音を耳で捉えた。銃口が旋回し切る前に、マチェットの折れた刃が機銃の回転軸を叩き折った。右の機銃はさらに一歩踏み込んで、義体の左拳で砲身ごと壁面から引き剥がす。金属が軋み、火花が散った。
床のスタン地雷はカナメが端末から起爆信号を無効化した。三個すべてが沈黙する。
第二層。第三層。トラップの密度は奥に進むほど上がった。焼夷装置、偽装された落とし穴、古い警備ドローンの残骸を改造した自動追尾タレット。いずれも市販の部品を組み合わせた手製だが、配置のロジックが独特だった。人間の行動パターンを予測し、最も本能的に選びたくなる回避ルートにこそ次の罠を仕掛けている。引きこもりの設計者が、人間の接近をどれほど恐れているかが、トラップの執念から滲み出ていた。
最深部の隔壁は厚さ八センチの強化鋼板だった。レイナが義体のブースターを限界まで駆動させ、マチェットの折れた刃先と筋力だけで蝶番を三箇所叩き斬った。鋼板が轟音とともに内側に倒れ込む。
ドーム状の空間が広がっていた。
旧浄水施設の中央濾過槽を改造したサーバールームだ。円形の壁面に沿って無数のモニターが積み上げられ、そのすべてがデータストリームやコードの羅列を表示して青白い光を放っている。床にはケーブルの束が蛇のように這い回り、サーバーラックの排熱がドーム内部を温室のような温度に保っていた。空気には電子部品の焼ける匂いと、古いピザの段ボール箱の油脂臭と、空になったエナジードリンクの缶の甘ったるい残り香が層を成している。
そして、部屋の中央で悲鳴が上がった。
「ひ、ひぃぃぃぃッ!!」
小柄な青年だった。サーバーラックとモニターの壁に囲まれた操作席に、丸まるようにして座っている。痩せた体躯は栄養不足で青白く、目の周囲を覆う無骨な演算プラグのバイザーが顔の上半分を隠していた。十本の指は第一関節から先が金属の骨格に換装されており、異常に細く長い。タイピングのためだけに設計された指だ。背中から三本の太いケーブルが伸び、直接サーバーラックに接続されている。人間とコンピュータの境界が、文字通り溶けていた。
マウス。キネが言った「ウラで一番の腕」の正体だ。
「ば、化け物! ど、どうやってここまで──ぜ、全部壊したのか! あ、あのトラップ全部で六十七個──」
「正確には六十八個だ。一つは起動前に回路を焼いた」
カナメは深い溜息をつき、トラップを抜ける際に汚れたコートの袖を辟易したように払った。
「キネの婆さんからは『引きこもりの偏屈なハッカーだ』と紹介されたが、まさかスラムの地下で一人要塞を築いている異常者だとは聞いていない。インターホンもないから、物理的にノックさせてもらった」
「さ、殺伐としたノックすぎる!キネの知り合いだからって、絶対防衛ラインを物理でぶち破ってくるヤツがいるか!」
レイナが一歩前に出ると、マウスは椅子ごと後ずさった。ケーブルが引っ張られ、サーバーラックが軋む。
「く、来るな! あ、暴力反対! ぼ、暴力絶対反対!」
「落ち着け。ただの客だ。あんたの命も、その機材も壊すつもりはない」
カナメはレイナの肩に手を置き、少しだけ力を込めて引き留めた。ただの計算された制止ではなく、過剰に怯えるマウスに無用な刺激を与えまいとする、彼なりの呆れ交じりの配慮だった。レイナは不満そうに鼻を鳴らしたが、大人しく足を止めた。
カナメの視線が、ドームの奥の壁面──最も大きなメインモニターに向いた。
そこに、少女が映っていた。
ホログラム投影ではない。超高解像度の有機ELパネルに、等身大で表示された二次元の少女。銀髪のロングヘア、大きな碧い瞳、フリルの付いた白いドレス。現実には存在し得ない完璧なプロポーションと、微細な表情の揺らぎを再現するアニメーションが、リアルタイムでレンダリングされている。AIだ。マウスが構築した人格シミュレーション。画面の中の少女が、不安そうな顔でマウスを見つめ、小さな声で「マスター、大丈夫ですか」と囁いた。
レイナが首を傾げた。
「なにあのペラペラの光る女。生きてねぇじゃん」
「黙れ、駄犬」
カナメはマウスに向き直った。
「お前に仕事を頼みに来た。機密データの暗号解析だ。軍事規格のプロトコルで保護されている」
「む、無理だ! そ、そんなヤバいブツ触ったら殺される──」
「報酬がある」
カナメはデータが入ったチップをポケットから出し、机の上に置いた。だがマウスの目はチップではなく、カナメの顔を──正確には、カナメの目を恐怖と共に覗き込んでいた。
「お、お前、目が怖い。な、何者だ」
「元オルビット・ネットワーク戦略AI運用統括。お前のAIを見せろ」
マウスが硬直した。上層の企業名が、この地下深くでは核弾頭のような重さを持つ。
カナメはメインモニターに歩み寄り、銀髪の少女AIのレンダリングパラメータを一瞥した。画面の端に表示されたステータスバー、応答速度のグラフ、感情遷移のフローチャート。五秒。カナメの目がすべてを読み取った。
「感情アルゴリズムの状態遷移が遅い。『喜び』から『不安』への遷移に〇・八秒かかっている。人間の感情表出は〇・一五秒だ。このラグがお前の嫁の人格を『プログラム』に留めている」
マウスの金属の指が震えた。誰にも見せたことのないAIの中枢を、初対面の人間が一瞥で解析している。
「俺は上層の戦略AIの最適化ロジックを設計した人間だ。俺の持っている感情シミュレーションの遷移モデルを適用すれば、そのAIの人格挙動の解像度は今の十倍、人間に近づく。表情だけじゃない。応答のリズム、沈黙の間合い、視線の揺らぎ。すべてが変わる」
マウスの顔から恐怖が消えた。代わりに浮かんだのは、純粋な戦慄だった。
「じ、十倍……。リ、リリちゃんが、十倍……」
「リリ、か。お前の嫁の名前だな」
「リ、リリはただのデータじゃない! い、命だ! ぼ、僕の全存在を賭けた最高傑作の──」
「分かっている。美しいコードだ。不確かでノイズだらけの人間の感情よりも、完璧に統制されたアルゴリズムのほうが遥かに愛するに値する。俺もそう思う」
カナメの声は静寂を帯びていた。彼が上層でAI設計と最適化の道に進んだのは、単に能力の適性があったからだけではない。論理破綻せずエラーを吐かないプログラムの純粋な「合理性」に、彼自身も強く惹かれていたからだ。だからこそ、レイナという致命的なバグ(不規則な変数)に振り回されつつある今のカナメにとって、マウスが構築した可視化されたシステムへの執着心は、狂気ではなく、極めて真っ当な愛情として理解できた。
「だからこそ、この取引にはお前が乗る理由がある」
その率直な肯定が、マウスの心を揺さぶった。自分の異常性を、この男は異常と見なしていない。狂信でもなく、ただ純粋な理解者としてそこにある。
「……やる。いや、やらせてくれ!」
マウスは演算プラグの下の目を血走らせ、モニター越しにカナメへ身を乗り出した。
「機密データの解析でも何でもやってやる! だから、その最適化ロジックをリリに……僕の女神に組み込んでくれ!」
「交渉成立だ。技術の手間賃として現金も払う。お前が値段を決めろ」
マウスの金属の指がピタリと止まった。リリの「人格」がさらに人に近づく。その圧倒的な報酬の前では、自身の命のリスクなど完全に消え去っていた。
同時に、彼の頭に「現金」などよりも遥かに切実で、今すぐ解決しなければならない死活問題が浮かび上がった。
「か、金はいらない……! そ、その代わり、仕事の『代金』として……ひとつだけ、引き受けてほしい依頼がある……!」
マウスの声が、初めて恐怖の吃音を乗り越え、悲痛なほど明瞭に響いた。
「く、黒灰組。あ、あいつらが最近この施設の電力ラインを脅して、み、みかじめ料を要求してきてる。払わなきゃ電力を切るって。電力が切れたら、サーバーが止まる。サーバーが止まったら──」
マウスの目がメインモニターのリリを見た。
「リ、リリが死ぬ」
その一言に込められた恐怖は、自分の死よりも深かった。
「黒灰組を、僕たちの前から……完全に排除してくれ!」
悲鳴に近い懇願だった。引きこもりのハッカーが、人生で初めて他人に組織の壊滅を依頼している。顔は引きつり、金属の指が震え続けていた。
カナメは三秒だけ沈黙し、思考を巡らせた。
黒灰組。スラムのインフラ管理区画を牛耳る中規模ヤクザだ。連中を盤面から排除すれば、マウスの電力問題が解決し、安全な解析環境が確保できる。さらにヤクザの裏の資金を奪えば今後の組織運営の資金になる。何より、主の消えた旧変電所のインフラとあの大容量サーバールームは、これから自分たちが構築しようとしている、誰も手出しできない強固な「裏の情報インフラ」の最初の物理拠点にうってつけだった。
技術、資金獲得、拠点確保。スラムを支配するための三つの歯車と、次の標的が、完璧なロジックで噛み合った。
「承知した。黒灰組は、組織ごと盤面から排除する」
カナメの即答に、マウスが目を見開いた。レイナが後ろで、折れたマチェットの柄を撫でながら笑った。欠けた犬歯が覗く、あの笑い方だ。
「──やっと、アタシの出番じゃねェか」
もし「雰囲気が好き」「続きが気になる」と思っていただけましたら、 ページ下部の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマーク登録をしていただけると、執筆のモチベーションが上がり、更新速度が上がるかもしれません……!




