セックス
世の中にセックス的でないものがあるだろうか。いや、あるはずもない。全てはセックスなのだ。人を見たらセックスと思え。万物はセックスのいわば亜種である。事物はセックスが姿や形を変えて現れているに過ぎない。そうに違いない。そう確信を抱かせる何かがあれにはある。普通はそうは見えないだろうが、それはセックスの本来あるべき姿を隠す何らかの力学が働いているからなのだろうか。
一般的に言うあのセックスは、此度論じている「セックス」のほんのごく一部である。ごくごく僅か。地球における湖、宇宙における彗星のようなものだ。こう疑問に思った事はないだろうか。「どこからがセックスで、どこまでがセックスなんだろうか」と。「良いセックスとは何なのだろうか」と。
まず一つ目の問いの前に「セックスの始まり、ないし終わりは何処なのか」と言う問いに触れる。一般的にはセックスは皮膚の接触した瞬間から始まり、離れた瞬間に終わるとされる。しかし、本当にそうだろうか。この定義は余りにも淡白すぎやしないだろうか。あの狂熱に溺れてしまうような、青白い炎が燃え上がるような情景にはそぐわないだろう。もっとロマンチックにしよう。では定義を一方の感覚の先端ともう一方の先端が衝突した瞬間としよう。感覚とは目でも耳でも鼻でも口でも皮膚でも良い。目と目が合った瞬間に視線が交わされた瞬間に始まり、そして目と目が逸れる瞬間視線が離れた瞬間に終わる。悪くないが最善でもない。折角やるからには最善を目指さなくては。それでは目に見えない何物か(例えば雰囲気)が触れ合ったらと定義しよう。何らかの了解が2者の間で交わされていること、それだけが条件である。それが明確な定義でなくとも良いし、言葉で表すのが難しいものでも構わない。ここまで来るとそろそろ表現の限界に直面しつつある。つまり、セックスの始まりとは何らか(ここでは皮膚であったり、視線であったり、雰囲気であったり、言葉では言い表せなかったりするもの)がぶつかること。そして終わりとはそれらが離れることである。
セックスとは、より抽象的に言えば、2つの集合の包含、関係性に関する問いである。2つの膜が融合し、離別するまでの過程を表現していると言える。イメージがつかないならばシャボン玉を想像して見て欲しい。2つのシャボン玉が時々くっつくことがあるだろう。別れる事はあまり無いかもしれないが、割れる事はあるだろう。そのことだ。あるいは細胞の生成過程。分裂するまでの過程を指している。そして抽象的であればあるほどロマンティクさが増していくことが予想される。ロマンティクとは言い換えれば肉体や精神を超越することである。よって一つ目の「どこからがセックスで、どこまでがセックスか」という問いはこのように答えられる。2つの不定形な膜が接触して1つに交じり合いそして再び2つに別れるまで。肉体や精神を超越している間。超越というと大袈裟だが忘却と言っても良い。つまり名を忘れることだ。
このことは即ち差異の忘却につながる。特異的なセックスは歴史の荒波に飲み込まれてしまう。これが、これだけが特別なセックスであるとは誰にも言えなくなってしまう。しかし、見かけに騙されてはいけない。これはセックスの罠である。普遍性において特異性を失わない事。連続性において不連続性を失わない事。セックスは繋がっているようで繋がっておらず、繋がっていないようで繋がっているのだ。通り道に小さくちぎったパンを落としておくこと。そしてお菓子でできた家の味見を忘れないこと。
二つ目の「良いセックスとは何か」という問いはもう言わずもがなだろう。セックスに良いも悪いもない。願わくばあの瞬間だけはセックスそのものの忘却を。同じ景色が見えるに越した事はないが、そうでなくとも足元に注意を払うことだ。
以上の事から、世の中は「セックス」だと、「セックス」でないものなんてどこにもないんだと胸を張って言えるようになるだろう。あんなロマンティクな事象の最たるものである「セックス」をあの限定的なセックスだけに独り占めさせるなんて余りにも惜しいではないか。無論、これを「セックス」だけに限定する謂れもない。




