大熊町の明かり
ここは福島県双葉郡大熊町。海沿いに原子力発電所があり、内陸部に鉄道が通っていて、小さな町がある。
「おはよう美紀、誕生日おめでとう」
起きると両親が声を掛けてくれた。
「お父さんお母さん、ありがとう」
今日は2011年3月11日。三崎美紀は二十四歳の誕生日を迎えた。
いつものように母が朝食を作ってくれている。温かいご飯に豆腐とワカメの味噌汁と、ぱりっと良く焼いたお魚に浅漬けなど、いつものメニューがそろう。
父は背広を椅子に掛けてお茶を飲み、テレビのニュースを横目で流し見しながら、新聞を読んでいる。
美紀のスマートフォンに「立花隼人」の表示が浮かんで電話が鳴った。
「ミミちゃん、誕生日おめでとう。仕事終ったら、逢おうよ」
いつも変わらない元気な声だ。小学校からの幼馴染で三崎美紀を縮めて「ミミちゃん」と呼ばれている。
「うん。で今、どこなの?」
ハヤトはトラックの運転手だ。
「日立方面。休憩中のコンビニだよ」
「そう、じゃあ運転気をつけてね」
そっと通話を切り、残りの食事を取った。
「電話、誰から?」
母がお茶を入れてくれた。
「ハヤト、日立に居るんだって」
「頑張っているわね。美紀もお料理とか、花嫁修業しないとね」
母が茶目っ気のある表情で笑うと、父が咳払いを「こほん」
「あっ、急がないと遅れちゃう」
美紀は歯磨きをしに席を立った。化粧をして七時半。
「行って来ます」と明るく家を出た。
通勤は徒歩六分。少し肌寒かったが、空気が澄んでいて、木の葉がキラキラと輝き、小さな花や可愛い小鳥が舞い踊る、ステキな町だ。
職場の保育園に着いた美紀は挨拶をして、朝のお迎えの準備をした。園児は十二人。
神山園長と同僚の小林愛子ちゃんと、ここは三人先生だ。ママさんたちとも仲が良い。
「ミミちゃん先生おはよう、ねえ遊ぼうよ」
「じゃあ、中に入ってお絵描きしましょう」
園児たちも明るくて良い子ばかり。毎日、泣いたり笑ったり、楽しく歌も唄う。
「皆さん、お早うございます」
全員で朝のあいさつを元気にして、クレヨンで絵を描いてもらう。子供たちは本当に自由で面白い。なぜか墨絵風の黒一色の子や、カラフルな色彩でひたすら丸い円を描き続ける子もいる。
美紀は、全員の個性を愛している。とても楽しいし、豊かであると感じるから。
二歳年下で後輩先生の愛子ちゃんは、とても「陽気」である。鬼ごっこも一生懸命で、園児たちと本気で走り回るくらいエネルギッシュだ。
神山園長は髪が薄く丸顔で、まだ五十歳なのにお爺ちゃんみたい。普段はのんびりした感じなのに、園児にはどんと来いと胸を貸す心の広い人なのだ。相撲などは、達磨体形がもうコメディみたいで、見ていても楽しい。
そうこうしている間に昼食である。
「みんな手を洗ってー」
「はーい」
子供たちは持参したママのお弁当をニコニコしながら食べる。
「おいしいね」
「うん、おいしいね」
「ママがね、お肉作ったんだよ」
美紀は「お料理した」が正解だろうと心で微笑む。園児たちのこの嬉しそうな表情をママさんたちにも見せてあげたい。パパさんだって、お仕事頑張っちゃうでしょうに。
「ご馳走さまでした」
片付けをして、歯磨きをして、マイ毛布でお昼寝をする。腕白坊主もお転婆姫も、寝顔は特に可愛いものだ。
先生たちも、ここで休憩となる。
「あっ、地震」
一人の男児が呟くと突然、大きな揺れがやって来た。
「地震だ。これは大きいわ」
ずずずーんと地響きが遠くからやって来て、もう立っていられない。机の本もペンも床に散らばって、テレビも倒れ、壁にひびが入った。
「きゃぁあー」
美紀は、叫んだ児童を咄嗟に抱いてかばった。
「みんなー、頭を押さえて部屋の中心に集まってーっ」
跳び起きた園児たちは部屋の真ん中で団子状になり、先生三人が落ちてくるものから守る姿勢をとる。
壁に大きな亀裂が走り、埃が舞った。天井も落ちて来そうな気配だ。
「みんな、ゆっくりで良いから、運動場に集まれ」
神山園長が指示した。
長かった揺れが収まるや、すぐ庭に避難させる。美紀は懸命に子供たちを守った。
二、三分後、人数確認の間にも次の余震がやって来た。これもまた大きい。
園児たちはさらに泣きじゃくり、天変地異に怯えている。
神山園長の持つラジオから、緊迫したアナウンスが聞こえる。
「福島県浜通り地方は震度6強です。今後も強い余震に注意してください。津波の危険がありますので海岸線から離れてください」
大変な事態だ。
「神山園長、園児十二人、全員無事です」
「良かった。怪我もなく不幸中の幸いです。建物から離れて下さい。いつ崩れることか」
保育園の外壁には大きな亀裂が入っていた。屋根瓦も割れて建物も傾いている。
「子供たちの家は大丈夫でしょうか?」
「判りませんが、この保育園は危険ですので、帰宅避難します。さあ、みんなー、猫バスに乗って下さい」
神山園長は自ら通学用バス、アニメの猫が描かれた通称「猫バス」の運転席に飛び乗った。真剣な目が頼もしい。
携帯電話は混み合っていて保護者につながらないし、停電で固定電話も使えない。そうなると美紀たち先生は責任重大であった。
その少し前、午前中に積み荷を届けて立花隼人は、日立運輸の事務所へと帰って来た。
上司のグループリーダー沖さんに報告をして、座席に着くと先輩の北川さんから飯に誘われた。
「昼飯まだだろう。俺もだ」
笑顔で人懐こい人だ。昼休みはもう十分も過ぎている。待っていてくれたようだ。
社員食堂では二人ともお蕎麦を選んだ。すでに茹でてどんぶりに入ってあり、温かい出汁を注ぐだけなので、わずか数秒で完成だ。
社食カードで自動会計して、向かい合わせに座った。
「最近は忙しくて悪いな。で、立花、彼女とはどうなんだ?」
親兄弟がいないハヤトには、北川さんが兄のようだ。よく相談に乗ってくれる。
「直球ですね。実は今日、ミミちゃんの誕生日なんですよ」
お蕎麦を一口すすり、ふーんと北川さん。
「いいな、青春で。頑張れよ。そういえば……」
微笑んで、何かを思いついた様子だ。
「確か、いわき行きの積み荷があったな、立花に譲るよ」
ミミちゃんと逢えるように配慮してくれたみたいである。北川さんは多くを語らず、ハヤトも素直に好意を受けた。
「判りました。事務所で貰って行きます」
これで夕方の上がりが早くなったと、ウキウキしながら、午後は伝票整理をしていた。
計算は苦手だが、仕事を他人まかせに出来ない性格なので、きっちりと片付ける。
早く片付けて、行くぞミミちゃん。そんなこんなで電卓を叩いていた
「あっ」
強烈な地震が来た。
激しい縦揺れが来て、まとめていた書類が全部床に散らばった。
時計は午後二時四十六分で、直ぐに停電となった。
神ならず人に成すすべはなく、ただ泡を食って、よろよろするだけであった。
地震後、事務所は呆然とした雰囲気が支配した。書類が床一面に落ちている。
思考がゆっくり戻って来ると事態の重大さに混乱する。
「ミミちゃんは大丈夫だろうか?」
一番に心配となり、電話を掛けたが繋がらない。
「そうだ、商品だ。荷崩れしてないだろうか?」
ハヤトは、お客様から預かった荷物が無事か心配になった。
「被害状況を調べろ」
沖さんの号令一過、荷物を確認した。
その後に、グループ総出で各地に連絡を試みたが、電話は使えず、携帯もつながらない。テレビも点かないので、あたふたして時間は過ぎて行った。
非常用電源で社内サーバーは生きていたので、日立グループのラン回線で情報交換を試みた。
すると午後四時、一斉通信でメールがやって来た。
「緊急要請、1Fが電源喪失、発電機とバッテリーが足りない、大至急求む」
福島第一原子力発電所を大地震が襲って停電、原発の機器が動かせなくなったらしい。
もともと原発は外部電源で動いている。自分が発電した電気は高電圧だから。でも確か、自家発電もあったはずなのだが。
もしこのまま冷却できないと原子炉が溶けて大変なことになる。
「大変だ。沖さん、見て下さい」
ハヤトは、グループリーダーを呼んだ。沖さんは文面を読む。
「よし、何とかして電源を運ぶぞ。取引先にあたってくれ」
「はい」
走って行って営業さんにも協力を求めた。
「1Fが電源喪失です。発電機とバッテリーが足りません。俺たちが運びますので、大至急、集めて下さい。お願いします」
ハヤトの叫びに営業さんたちの表情も変わった。原発暴走を防ぐべく、あわてた様子。
「大変だ、何とかしよう」
「お願します」
輸送チームでは、沖さんを中心に集まってミーティングが始まる。注意点を整理した。
営業さんは、経験と足で必ず確保してくれるだろう。それを一刻も早く運ぶのだ。
「それじゃ宜しくお願いします」
解散し、ハヤトは席に戻る。じりじりとした待ち時間、事務所の片付けをしていた。
「来たぞ」
ついにリーダーの沖さんに営業さんから情報が来た。皆が注目する。
「バッテリーが確保出来た。立花、地元で道を知っているお前に頼みたい。行ってくれ」
「はい。受取り場所は何処ですか?」
気持ちが逸る。仲間も立ち上がって集まってきた。
「日立電池だ」
「了解しました」
ハヤトは上着を取って、廊下を外へと向かう。愛車のトラックへ。その背中に、
「立花、残った俺たちでフォローするから、全力で突っ走れ」
そう言って先輩の北川さんが、ガッツポーズで送り出してくれた。
美紀たちは、送迎バスで巡廻帰宅することにした。
神山園長の慎重な運転でバスは走る。亀裂のある道路や倒壊した塀、ヒビの入った家屋などが目に止まって痛々しい。最大級の地震は大きな傷を残していった。
各園児宅でバスは止まり、心配そうなママさんに美紀は園児をお返しする。
次の家では、「俊ちゃん」と我が息子を抱いて泣き出すママさん。
「凄い地震でしたね。ご自宅は大丈夫でしたか?」
「はい、タンスも部屋もごった返しです。でも、俊ちゃんさえ無事なら……うう」
後半は涙で言葉にならない。自然災害の前では人間は無力だ。ママさんにとって、お子さんがすべてなのであろう。
「じつは健ちゃんなのですが、ご両親と連絡が取れなくて」
「お隣ですから、健ちゃんも、うちでお預かりします」
美紀が相談すると、快く協力を引き受けてくれた。
神山園長もバスを降りて来て、お礼を言う。
「申し訳ありませんが、よろしく頼みます。こんな時ですが、助け合いに感謝します」
「みんなバイバーイ」
子供たちに美紀は手を振り返してバスに乗る。園児は全員、帰宅出来て良かった。
ハヤトが日立電池へ着くと、先方では玄関先に大量のバッテリーを準備して待っていてくれた。
トラックを横に寄せて下車し、帽子を取って頭を下げた。
「有難うございます。日立運輸の立花です」
「お待ちしておりました。所長の青木です」
お互いに自己紹介して握手をした。
「積みましょう」
ハヤトが荷台に上がり、青木所長が指示をして十数人、一気に積み荷を車に乗せる。
外気温は一ケタであろうが、猛烈に動いたので汗をかいた。
「ありがとうございます。では、もらって行きます」
「頼みます。頑張って下さい」
「日立運輸さん、頑張れよーっ」
帽子を振る一同に見送られてハヤトは、原発へと出発した。
よく知っている道だが、古家や塀は崩れ倒れ、道路もでこぼこでマンホールなどが地上に浮いて持ち上がり、交通を妨げて渋滞となっていた。
日立市内でこれだから、先は大変だ。
地震で交通規制もあるだろうが、一般道よりは速いはずだと高速道路に向かってハンドルを切った。
山間の日立北インターチェンジまで来ると車は進まない。五分、十分と待った。
「こうしている間にも原発が……」
我慢出来ずにハヤトはトラックを止めて、車から降りて外を走った。
数百メートル先のインターチェンジでは、警官が交通規制で封鎖していた。
「すみません。緊急事態です。トラックを通して下さい」
ハヤトは息が切れるのをこらえて訴えた。
「だめです。現在、地震による安全確認のため道路封鎖中です」
取り付く島もない。
「緊急事態です。原発にバッテリーを届けなければなりません。行かせて下さい。お願いします。原発が大変なんです」
懸命に説得すると、警官は無線で本部に確認を取ってくれ、通行許可となった。
「ありがとう」
トラックに戻ったハヤトは、さっきの警官の誘導で高速道路に入った。
他の車が一台も走っていない常磐自動車道を、北に向かってトラックを疾走させる。たまに消防車と並走もした。
地震の後の道は危険かと注意しつつも、時速八〇キロでアクセルを踏み続ける。
「急げ、ただし慎重に、パンクしたらアウトだぞ」
約五十分で終点の広野インターチェンジを下りる。ここから一般道を通り国道6号線を北上して福島第一原発まで行く。通常なら三十分、混雑していたら倍の時間が掛かるであろう。
地震の惨状は酷かった。道路が波打ち、地割れありで、まさに悪路走行であった。
「今行くぞ。なんとか待っててくれよ」
ハンドルとアクセルを小まめに操作し、福島第一原発へと向かう。
遂に到着したが、非常事態で検問は厳重だ。
「救援に来ました。積み荷はバッテリーです」
身分証を提示して門のところで名前を書き、必死に説明すると、ごく短時間で中に入れてくれた。
敷地内の日立定検事務所前にて引き渡しとなった。
「待ってました」
歓迎され、職員がバッテリーをトラックから降ろして、小回りの利く現場のバン数台に積み替える。
まるで戦場の兵隊のように、皆がキビキビとした態度で働いている。原子力の専門家としての矜持に、全身が燃えているようだ。
「来てくれて有難う、助かりました。これで制御コンピュータを回復させます」
「頑張って下さい」
「ほんとに本当にありがとう」
感涙の所長と作業員たちの背中を見て、ハヤトは任務終了となった。
園児たちを全員送り届けて夕刻四時、美紀は自宅に帰った。
やっぱり、予想通りに家は散らかっていた。母一人では倒れたタンスやテーブルが重くて動かせなかったのだろう。割れた皿もそのままに、母は呆然と椅子に座っていた。
「お母さん、ただいま。大丈夫だった?」
「ええ、美紀は、怪我はなかったかい?」
「うん。あれ、お父さんお帰り」
自営業の父も早退して来た。
「俺もさっさと帰って来た。ラジオを聞いたか。大津波だったらしい。電気も水道もライフラインは全滅だ。第二波があるかもしれない。とりあえず海は危ない。会津まで避難するぞ」
会津地方は毎年、家族スキーに行っているので土地勘がある。でも急に避難といっても、困る次第。
大津波なんて、簡単には信じられない。
「これから出発だ。急いで。貴重品と保険証を持って行くぞ」
母が復活して動き出した。
「じゃあ私は、園長さんに仕事休むって言って来る」
美紀は家を飛び出た。
そうだと思いついて玄関前にメモ残す。
「約束のハヤトへ。会津に避難します」
もう電話はつながらないだろう。
原発にバッテリーを届けて役目を終えたハヤトは、その足で大熊町のミミちゃん宅へ向かった。とても心配だったからだ。
三崎家にトラックを止めて、玄関へ走ると、停電のためか、明かりが付いていない。
「今晩は、ごめん下さい、今晩は」
声を掛けて玄関に手を掛けると、鍵が掛かっていた。
「今晩は、居ませんか、大丈夫ですか」
留守のようであった。
ふと玄関扉に紙片が挟んであった。暗いので車のヘッドライトにかざして見る。
「約束のハヤトへ。会津に避難します」
そうだ誕生日祝いの約束だった。プレゼントは車にある。原発問題に必死で全部忘れていた。
車用無線で「会津へ行かねばならない」と、会社に休暇を願い出た。
グループリーダーの沖さんは、
「よくやってくれた。休暇の件、了承した」
先輩の北川さんも、
「こっちの仕事は任せろ。約束を果たしに行って来い」
と応援してくれた。
美紀と両親は中間の郡山市まで出て来た。やはり同じように各地からの避難民も多い。
夜だったのでコンビニの品物は売り切れで、補充の見込みが立たないと店員さんも嘆く有様。
市街地でも停電に加えて、断水である。疲れたので、車で野宿した。
12日の朝、食糧がなかった美紀たちは、公園の配給所に並んだが、数百人の人で芋を洗うようあった。周囲の人間のストレスが物凄い。
並んでいる間に短く話もするが、初老の男性は津波ですべてを失ったそうだ。
「家も思い出の品も、一瞬で全部なくなった」と嘆く。
「あまりに涙も出ない」と付け加えて、ふーっ、と怒りを堪えるようなため息をついた。
それを聞いて美紀は胸が苦しい。何か出来ないかと考えるが、自分一人などあまりに無力であった。
内陸部の郡山配給所でこうなら、全国の惨事はいったいどれほどのものであろう。
水とお握りを家族分三個もらって車に乗り込むと、母は嘆いた。
「何で大地震が来たの。私たち何か悪い事したかしら」
沈黙で会津へ出発となった。分かっている。誰が悪いという訳ではないことを。
ハヤトは、大熊町から288号線を経て郡山に、さらに49号線で会津若松へ向かうルートを考えた。順調なら明日までに会津へ着けるだろう。ミミちゃんに会うという約束を、ただ守るのだ。
ところが道路は大渋滞で進まない。数メートル進んだら停止を繰り返す。
ハヤトのトラックも、燃料が心配である。食事も取っていない。
国道沿いのガソリンスタンドに立ち寄るため、車の列に並んで考えた。隣の食堂は営業しているのかどうか。せめて一口でも食べておかねば、戦にならない。
三十分も待ったのちに給油して、食堂まで行ったが、臨時休業で食事出来なかった。
昼食からの空腹のまま丸一日が過ぎ、それでもハヤトは会津へと向かう。
美紀と両親は、会津若松市に着いた。当初は、猪苗代スキー場のホテル宿泊を予定していたが、春で休業だと断られた。
さらにラジオで原発事故を知った。あのキレイな故郷の町が大惨事になっている。
見たわけではないので、実感は少なかった。
「分からんが、もしかしたら長期宿泊になるぞ」
運転する父が呟いた。会津若松駅前の公衆電話で旅館を探す。
「この民宿、よさそうじゃないか?」
美紀が電話帳で調べていると、父が言った。
「民宿上田一泊二食付き3800円から」とある。
美紀が電話を掛けると繋がった。会津は停電していない。今日からの宿泊をお願いする。
「家族で泊まりたいのですけど、お部屋空いておりますか?」
「はい、空いておりますよ。何名様ですか?」
「三人です。名前は三崎と言います」
「承知しました。駅から東に歩いて三分程で看板がありますから。お待ちしております」
電話を切って、看板を目指して歩いくこと三分。
到着した民宿上田は、二階建ての外見で、ちょっと大きな家族住宅だった。
よく掃除されている玄関先から「ご免下さい」と声を掛ける。
「三崎さんですね、いらっしゃいませ」
笑顔で女将さんが迎えてくれた。
「お世話になります」
両親が答えた。二階に案内され、父が一部屋、母娘で一部屋をお借りした。
テレビのニュースを見てビックリした。地震後の津波で、多くの人命が奪われたようだ。
ただただ恐怖の黒い波。SF映画のような光景に背筋が凍った。
神さまは、何という試練を下すのだ。ショックで部屋にこもった。
昼食には、温かい食事を用意してもらったのだが、食欲は無く、でも食べてみると美味しい。
宿の上田さんご家族と一緒の席で「実は」と、父が原発のある大熊町から避難して来た経緯を告げた。
「ご迷惑をお掛けします」と謝った。
「大変でしたね。それでは気の済むまで、うちに泊って行って下さい」
親父さんは、温かく言ってくれた。
女将さんも涙ながらに微笑んで、
「そうよ。実家だと思ってゆっくりして下さいね。困った時こそ助け合わなきゃ」
と優しく言ってくれた。
翌13日、美紀は食料品を買出しに出た。
もちろん食事は、民宿上田の女将さんが用意してくれるのだが、それでも「何かお手伝いします」と申し出た。
スーパーは歩いて五分もしない距離で、リュックを背負い、簡単な地図と買出しメモをもらって民宿を出た。
テレビに映る恐怖の世界と違って、会津の町は普通だった。
久々の買い物は楽しい。
日常の何気ないことが、これ程ありがたいとは気が付かなかった。
電気、ガス、水道、まだ寒さが残るので何処も暖房が利いており、お店に食料品が並ぶ風景。
取れ立て野菜は瑞々しくて美味しそうである。
けっこう多く買ったので、桃色のリュックを背中に、両手に買物袋の姿となってしまった。買い過ぎた。
長期滞在を考えると、あれもこれも欲しくなるのが人間だ。
「さあ、早く帰ろう」
歩いていると、何故か道路に一台の白い大型トラックが止まった。ドアが開くと、良く知った笑顔が車から降りて来た。
「やあ、ミミちゃん」
何でここにハヤトがと思うとドキリとした。
「ハヤト」
「約束だろ。追いかけて来たんだ」
懐かしい声を聴いて涙があふれて来た。熱い涙に、美紀は生きていると実感した。
この広い町中で、偶然に出会えたのは奇跡としか言いようがない。
「ありがとう。神さま」
両手にビニールの荷物を持ち、涙で立ち尽くす美紀のところに、ハヤトが駆けて来て抱き締めてくれた。
「探したよ、ミミちゃん」
ハヤトの両腕は、強くて温かかった。
「無事でよかったよ、ミミちゃん。オジサンもオバサンも元気なの」
「ええ、元気」
心配してくれるハヤト。日立の緑の作業服に帽子を被った仕事姿も格好良かった。
「やっと会えたね。探したんだよ」
そう言って荷物と交換で、美紀に自分のハンカチを渡してくれる。
「自分の、持ってるけど……ハンカチ」
「ああ、ごめん。荷物運びは俺の仕事なんだ」
冗談とも本気とも取れるセリフを言うので、
「知ってる」と美紀は応えて笑った。
「涙を拭いて、ちょっと待ってて」
そうしてトラックに戻るハヤト。
ビニール袋の荷物を仕舞って、何やら取り出した様子。大きい。
「少し遅れちゃったけど、誕生日おめでとう」
それは黄色いクマのぬいぐるみであった。
「ありがとう。でも私もう二十四なのよ」
と言って頬を膨らました。
プレゼントの選択は、真っ直ぐなハヤトらしい。たぶん大熊町だから大きなクマなのだろう。
「ラジオで聞いたよ。俺たちの故郷は、地震と津波と原発で大変なことになっちゃったね。でも、ミミちゃんが無事で本当に良かった。心配だったんだ」
ハヤトの眼からも一粒の涙がこぼれた。
まったく男なのに、でもそんなところも好きなの。
「はい、ハンカチ」
美紀は交換で、自分の可愛いチェック柄のハンカチをハヤトに渡した。
「原発事故が起きて、大熊町には、いつ戻れるか分からない」
「うん」
「知っている人もバラバラになっちまったし……でもね」
「うん」
「俺たちでいつか、故郷に明かりをつけよう」
「うん」
美紀は両手を広げてハヤトの胸に飛び込んだ。大きなクマとともに。