第九話 陥落計画
翌日から、お嬢様のエリゼオ陥落計画が始まった。
まず、お嬢様は周りから固めていくことにしたようだった。
それは入団式の翌日の朝食時。旦那様と奥様とともにとる朝食の場で、お嬢様は、エリゼオに恋に落ちた、と素直に口にしたのだ。
旦那様と奥様はとても驚かれ、旦那様なんて手からパンを落としてしまったぐらいだった。
そもそもとして、お嬢様にこれまで婚約者が決まっていないのは、旦那様が『こんななよなよとした男では娘には釣り合わない』とか、『辺境伯の婿となるに相応しい家格ではない』などと言って、ことごとくお断りをしているからなのだ。
お嬢様自身も望む相手がいなかった、という部分も大きいかもしれないが、最終判断は旦那様だ。
そうなると子爵家出身のエリゼオが、お嬢様の婚約者として認められるかどうかはギリギリのところだろうけど……
恐らく、旦那様にお嬢様は止められない。これまで何でも許してきたのだ。今回も結局は許すことになるだろう。
お嬢様の中では、もうこの恋は走り出してしまっている。
それに、本気度が違う。
なんだかんだで子息方から言い寄られることが多かったお嬢様だが、自ら好きだと言い出したのはエリゼオだけ。もしかしたら彼は、お嬢様の初恋相手になるのかもしれない。
だから、なのだろう。
お嬢様は今回、慎重かつ大胆にエリゼオを手に入れるべく動いている。その初手が、この宣言だった。
驚いた様子で呆けている旦那様と奥様の二人に対して、お嬢様は照れくさそうにはにかんだ後、目を伏せて徐々に物憂げな表情へと変わった。
「……エリゼオにとって、私はただの当主の娘だから……この恋が叶うことは難しいと思うの。でも……でもね! 初めての、気持ちだから……大事に、したくて……!」
震える声に、透明な涙が一筋、お嬢様の頬を濡らした。
その涙を旦那様、奥様、食事の準備に控えていた使用人と護衛の騎士、その皆が見て、皆が見惚れた。
それほどまでに美しい涙だった。
「無理なのは、分かっているわ……でも、少しだけ……少しだけでいいの! この気持ちを、なかったことにしたくないの!」
「ルシール……」
顔を上げ、胸元のドレスを握って訴えかけるお嬢様。
その後に続いた同情的な声に、旦那様が陥落したと悟った。元々、一人娘に甘いお方だ。仕方がない。
「お父様、お願い。この気持ちを、否定しないで……!」
ここでお嬢様の気持ちを否定しようものなら大罪人になってしまいそうな雰囲気すらあった。旦那様は深く深く息を吐き出した後、小さく何度も頷いた。
「……お前の気持ちは分かった。ただ、彼はまだ入ったばかりだ。まずはここでの生活に慣れてから、話しかけるなりすれば良い」
旦那様に続き、奥様もだ。奥様は旦那様よりずっとお嬢様を可愛がっているから、初めから否定はしないだろうという予想はついていた。
「そうね……誰かを想う気持ちは止められないものね。くれぐれも貴族としての振る舞いを忘れてはだめよ、ルシール」
「ありがとう! お父様、お母様!」
「ジェイラ、ルシールが無茶をしないよう、しっかりと見守ってやってくれ」
「……承知いたしました」
周りは、お嬢様の初恋を応援ムードだ。
エリゼオの意思はここには関係しない。お嬢様が大事にしたい想いならば、それを叶えてやるのがこの場にいる者、ここに住む者、働く者の使命となる。
騎士達にも話は聞こえているから、彼らも彼らで何かするのだろう。エリゼオとラフィクの身の回りの世話をするように言われた使用人達もだ。
囲われたな。
逃げられないだろうな。
でも私とは、囲われ方が違う。私はお嬢様の言いなり人形だが、エリゼオは初恋相手だ。
どんな対応の違いが出るのだろう。次は、何をできるようになれと命じられるだろう。そもそも見守る、とは何をすればいいのか。本当に見ているだけでは……旦那様はご納得しないだろう。
どうせなら、もっと具体的な仕事内容を言ってくれればいいのに。
私がそんなことを考えていたら、お嬢様は白く細い指先で自身の涙を拭い、皆を一度見回した後で柔らかく天使のような微笑みを浮かべた。
その日の夕方には、お嬢様はエリゼオへと直接挨拶をするために鍛錬場へと向かった。もちろん私もついていく。その後ろには、護衛騎士も二人、ついてきていた。
「お疲れ様、皆。いつも鍛錬に励んでいて、私も皆に守られていると思うと心強いわ」
鍛錬場についてすぐ、お嬢様が声をかけると副団長が小走りで寄ってくる。
「お嬢様、突然にどうなされましたか?」
「エリゼオとラフィクに挨拶をしておきたくて」
「それはそれは、少々お待ちください」
副団長は食事の場での話を聞いていないはずだけど、どうやら既に話は通っているようだった。微笑みを浮かべて二人を待つお嬢様に集まる視線。
その様子から、お嬢様のお気持ちはもう騎士団内で共有されているのだろうと察した。なんとも話が早い。
少し待ってから、副団長に連れてこられたのは、入団式で見た二人の青年。
エリゼオとラフィク。
受ける印象は正反対なのに、やけにかっちりとハマっているようにも見えるのはなぜだろうか。幼馴染特有の空気感みたいなものか。
と、私はぼんやり考えながら、お嬢様と二人の挨拶の様子を誰を見るでもなく眺めていた。
「はじめまして。ザックガード辺境伯の娘、ルシールです。仲良くしてくれると嬉しいわ」
にっこりと笑ったお嬢様に、二人はそれぞれ騎士の礼をとる。
「王家騎士団から参りましたエリゼオです」
「同じくラフィクです。この一年間、たくさんのことを学ばせていただきます。未熟者ではありますが、よろしくお願い申し上げます」
「もう、そんなにかしこまらないで。私はあなた達より歳下なのだし……仲良くしてほしいわ」
少し困ったように言うお嬢様は、二人に顔を上げるように促した。スッと元の姿勢に戻った二人が、ちらっとお互いに目を合わせてまたお嬢様に向き合う。
ラフィクはにこりと笑ったのだが、エリゼオは真顔のままだった。
「ありがとうございます。僕達は子爵家出身ではありますが、作法など至らないところが多く、不快な思いをさせてしまうかもしれません。もしも間違いなどがありましたら、教えてください」
「気にしないわ。のびのびと過ごしてちょうだい」
「ありがとうございます」
ここまでの会話は、お嬢様とラフィクの二人の間で続いた。エリゼオは話す素振りもないし、ちょうど話も途切れたからもう帰ることになるかな、と思っていたのだが……
「ジェイラ、こちらに来て」
と、いきなりお嬢様に手招きされる。私は返事をして、すぐにお嬢様の隣に並んだ。エリゼオが何度か瞬きをして私を見ていた。
「この子はね、私の専属侍女のジェイラ。私と同い年なの。分からないことや困ったことがあったら、何でもジェイラに言ってちょうだい。対応するわ」
……この紹介のされ方では、旦那様に言われたことよりも協力の幅は増えそうだったが、お嬢様が言うことなので絶対だ。
頭も視線も動かすことなく、私はお嬢様の言葉が終わるのを待つ。
「ジェイラ、二人はここに来て慣れないところも多いでしょうから、サポートしてあげてね」
「かしこまりました。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「……お願いします」
私の挨拶の後で、ラフィク、エリゼオの順で返答がくる。
「よろしくね、二人とも」
「はい。よろしくお願いいたします」
「お願いします」
先ほどと変わらない返答ではあったが、お嬢様としては顔合わせが終わって気は済んだようだった。
エリゼオから視線を向けられている気がしたけれど、私は目を合わせられず、少し遠くの地面をひたすらに見つめていた。
その日はそれで終わった。
お嬢様も大人しく部屋に帰ってきたな、と思っていたら、徐ろにドンと渡される紙と本の数々。
「……これは?」
「昨日、今日とエリゼオのことで頭がいっぱいで、課題に手がつけられなかったの。それに今日は初めてお話もできたから、この幸せな余韻に浸っていたいわ。だから、明日までに終わらせてきて」
渡された紙には、これまで代行してきた課題より難易度の上がっているであろう問題たち。それらはこの本で調べてやってこい、とのことなのだろう。
断るという選択肢は存在しないので、承知いたしましたと受け取って袋に包んだ。あまり難しすぎないといいな、と思う。
自室に戻り、お嬢様から預かった課題を確認する。
どれから手をつけるか……と、順番を整理していた途中、数枚綴りになっている書類の表紙となる部分に、婚姻という文字が書かれているものがあった。
「……歴代の当主」
その資料は、ザックガード辺境伯の家系図のようなものだった。正式なものではないから、ざっくりとしか書かれていないけれど。
当主となった年と結婚した年が書かれてあるそれは、お嬢様に辺境伯としての意識をもたせるための資料のはずだ。
……もう少しでお嬢様もここに名を連ねることが可能になる。
お嬢様が十六歳になったら、エリゼオとお嬢様は結婚しているのだろうか。
そこまで考えて、私は小さく息を吐き出した。
……何を考えていたんだろう。
結婚しているのだろうか、じゃない。
お嬢様がエリゼオを望まれている。
運命の相手。初恋の人。
いつかきっと……お嬢様の望むままに、エリゼオもお嬢様を好きになる。婚約者になって、結婚して……
エリゼオの笑顔がお嬢様に向けられるところを想像する前に、私はその書類を裏返した。もう考えることはやめなければ、と何かに急かされた心地がした。
落ち着いて、深呼吸をする。自分を取り戻すためにも、早く……早く、夢や希望は捨てなければならない。
私に許されたことは、お嬢様の幸せを願うことだけ。
私の感情などあってはならない。
この地で生きていくためには、そうするしかないと、自分に言い聞かせていた。