第六話 迷子の騎士
お嬢様も私も、十五歳となった。
この国での結婚可能年齢は十六歳であり、継承権は長子優先である。
そのため、ルシールお嬢様しか子供のいないザックガード辺境伯家は、お嬢様が爵位を継承し、婿を取る。婿養子となった相手は騎士団長に就くのがこれまでは絶対だった。
なのでお嬢様の婚約者には騎士団長を務められる者、という条件が必須であるが、お嬢様には様々な理由でまだ婚約者がいない。
しかしいよいよ十六歳を目前に、お嬢様の婚約者は、結婚相手は、と周りが意識せずにはいられなくなっていた時期に、新たな出会いがあった。
使用人一同が集められ、旦那様から今度入団する男性騎士について説明された。
新たに加わるのは二人。彼らは二人とも子爵家出身で、王家騎士団に所属している十九歳の若手騎士だった。
なぜその二人が入団してくるのか、ということだが。
王家騎士団団長が提唱する騎士の育成計画の一環として、若手騎士を国内外の各騎士団で一年間修行させる、というものがある。
今回、ザックガード辺境伯騎士団がその受け入れ先として選ばれ、二人は団長から推薦されやって来るとのことだった。
彼らが来るのはまだ少し先で、到着日の翌日に入団式をする。騎士団用の宿舎に二人とも入り、部屋は二人部屋となる。
彼らはこの辺りの地域に来るのは初めてとのことなので慣れない面もあるだろうから、いくらかは生活のフォローをするように、と指示があった。
騎士や使用人が増える際にはこのように説明を受けるが、私が直接やりとりすることはほぼない。だから今回も、入団式で見たら終わりかな、ぐらいに思っていた。
そうして数日が経ち、二人が無事に到着したと聞いた日の夕方。
仕事終わり、自室に戻る前に使用人棟の厨房に常備している茶葉がなくなりそうだったので、補充のために倉庫に向かっていた。
まさに、その途中。
「すみません」
どこからか聞こえた声に、辺りを見回した。
私にかけられたものではないとは思ったが、念の為。
前方と左右に人はおらず……恐る恐る、後ろを振り返ると。
「ひっ……!」
思ったよりもすぐ近くに、体格の良い男性が立って私を見下ろしていたのである。
男性とは、初対面だった。
その男性が何者なのか考えるよりも先に、一瞬頭を過ったのは、あの、侯爵家三男。
「すみません、脅かせてしまっ──」
謝られたのに、男性の言葉は耳に届かなかった。
逃げなきゃ、ということしか頭にはなく、体は強張りながらも後ずさった。しかし足に力が入っていなかったのか、ガクンッと膝が折れて転けそうになる。
「危ねぇっ!」
私へと伸ばされた腕に硬直し、それが完全に三男の行動と重なって、思わず目を閉じた。
あの時は顔を掴まれ、投げ捨てるようにされたのだ。その痛みと倒れ込んだ衝撃を思い出していた。
けれども……いつまで経っても想像したような痛みも衝撃も訪れず、代わりにやけに体の一部が温かいと気づく。
「すみません。俺がいきなり声かけたから恐かったですよね? 大丈夫ですか?」
先程よりもっと近くで聞こえる声。
その声の調子から心配されているのが伝わってきて、強張っていた体から徐々に力が抜けていく。
ゆっくりと目を開ければ、声の通り、心配そうに私を伺うオレンジがかった双眸に見つめられていた。
パチパチ、と瞬きをして。
またゆっくりと視線を横に向けると。
男性の腕が、私の背中側へと回り。
転けそうになった私を助けてくれていて…………!
「も、申し訳ございません! お手数をおかけして……!」
「いやいや、俺の方が恐がらせてしまってすみません」
私が一人で立てると判断したのか、男性は微笑むとそっと背中から手を離した。
その微笑みがやけに優しくて。
人からこんなふうに笑いかけられることも。転けそうになったところを助けられたことも。久しぶりというか初めてというか。温かな手のひらの感触がやけに背中に残って、異常に胸がドキドキと鳴っている。
これ以上、おかしなところを見せてはいけないと、冷静になれ冷静になれと頭の中で唱えながら、目の前に立つ男性を見つめた。
その人はダークブラウンのショートヘアで、茶色よりもオレンジ色が強い瞳をして、笑っていなければ少しつり目で気の強そうな印象を受ける男性だった。
きっと、旦那様が言っていた若手騎士二人のうちの一人なんだろうと、そこでやっと把握できたのだけど……
二人で来たのに、もう一人が見当たらない。どうしたのかと思っていたら、男性が徐ろに口を開いた。
「あー……恐がらせてしまった後で申し訳ないんですけど、俺、エリゼオと言います。王家騎士団から来ました」
私の予想は当たっていたようだ。
自己紹介をされたので、私も頭を下げてエリゼオへと謝罪とともに名乗る。
「先程は大変失礼いたしました。エリゼオ様のせいではございませんので、お気になさらないでください。ご不快な思いをさせてしまって申し訳ございませんでした。私、ザックガード辺境伯邸で侍女をしております、ジェイラと申します」
「ご丁寧にありがとうございます。いや、俺、目つき悪いし威圧感あるから気をつけろとは言われてるんで。すみません」
エリゼオからまた謝られて、私もまたお詫びの礼をする。
「いえ、本当に、エリゼオ様に悪いところはございませんので」
「ジェイラさんは優しいですね」
「…………?」
なぜ、私が、優しいになるのか。
本気で分からなくて首を傾げると、フッとエリゼオがふきだした。
「全然、俺のせいにしないから。でも本当に、恐がらせたのは俺のせいなんで。そこは受け入れてください」
苦笑交じりにそう言われたが……
これを受け入れてしまうと、エリゼオが目つきの悪い威圧感のある人、となってしまうような気がして……
恐かったのは、過去の記憶からだ。あれがなければ、普通にできていたかもしれない。
「しかし……」
「それで、ジェイラさんの優しさにつけこんで、お願いしたいことがあるんですけど」
なおもエリゼオが悪いことを否定しようとした私に、先程まで苦笑していたエリゼオの表情が明るくなる。
「迷子の俺を、助けてくれませんか?」
「迷子?」
「ここから鍛錬場への行き方が分からなくなって。先輩に一度案内してもらったんですけど、俺、方向音痴なんで早めに全体の地図を頭に入れたいからちょっと散策してたんです。一緒に来てるやつは『もう覚えたから行かな〜い』ってついてきてくれなかったんですよ」
「……そうなのですね」
と返した私だったのだが……
エリゼオが直前に言った言葉を思い出す。
迷子である彼を助ける、ならば。私がすべき返答は……
「鍛錬場までご案内すればよろしいですか? それとも……邸内全体をご案内した方がよろしいでしょうか?」
初対面の騎士にこんなことを言うなんて、自分で自分に驚いていた。
色々とあってから、騎士は恐怖の対象に近かったのに……なぜだか、エリゼオにはもうそんな恐怖を感じない。
それにさっき、助けてもらったから。私もできる限りで、彼を助けられたらいいなと思ったのだ。
「え? 邸内全体?」
「あ……いえ、あの、差し出がましいことを申しましたでしょうか?」
「差し出がましいなんてありえませんよ! めちゃくちゃ助かります! あ、でも、ジェイラさんは仕事の方は? 大丈夫ですか?」
「仕事はもう終わっておりますので……エリゼオ様がご迷惑でなければ、邸内をご案内いたします」
私がそう答えると、エリゼオの眉間に皺が寄った。
その表情に、咄嗟に失敗した、と思った。
差し出がましくはなかった、と言ってもらえたけれど。自分から提案したような邸内の案内だが、私といるなんて、嫌だったかもしれない。
先輩に一度案内されたそうだし、その時に私のことを聞いたのかも。私の評判なんて良いはずがない。
そんな人間と一緒にいるところを見られるのは誰だって嫌だろう。だからエリゼオもこんな表情に──
「ジェイラさん、俺、めちゃくちゃ助かるって言いましたよね?」
「……え……はい、そう、おっしゃって……いただきました」
「めちゃくちゃ助かるんです。本当に」
「は、はい……」
「迷惑だなんて、思うはずがないです。むしろ仕事終わりに、そこまで言ってくれるジェイラさんに声かけられて良かったとすら思ってます。ジェイラさんの優しさにつけこみますけど、ジェイラさんさえ疲れてなければ俺と一緒にぐるりと邸内を回ってもらえませんか?」
そう言って、エリゼオは穏やかに笑った。
私はたぶん、目を瞠って彼を見たと思う。笑顔を向けられたことと、彼の言葉の中に私への気遣いがあったことへの衝撃が大きくて……今、自分がどんな状態か分からなくなった。
……だって、今じゃもう、私を気にかけてくれる人なんてここにはいない。それは即ち、私と一緒にいたいと思う人も、いないということだ。
それなのに、エリゼオは……
私は、エリゼオを未知の生き物と遭遇した感覚で見ていた。
彼は私のことを聞いていないのかも。いや、たぶん、そうだ。私の話題なんて上がらず、だからこそ、こんな態度でいてくれるんだ。
この態度も……きっと、今だけ、だから。
今この瞬間は、私が私として立っていられる気がした。
「私こそ、お役に立てる話ができるかは分かりませんが、ぜひ」
優しさにつけこんだのは、私だ。
まだ優しくしてくれるこの人の隣にいて、今日だけは、今だけは。
お嬢様のためではなく、お嬢様の指示でも命令でもなく。
自分の意思で行動することが許されるのだと思いたかった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします、ジェイラさん」
そう言って差し出された右手。その手を凝視して、また、私の動きが止まる。
これは……握手、というものだろう。ここは私も手を差し出せばいいはずだ。やったことはないけれど。
握手は、挨拶とともに敵意がない証になると……そう、本で読んだことがある。
敵意が、ない。
だからきっと、大丈夫。
私が行動しても、大丈夫。
差し出されたままの右手に、意を決して自分の右手を添える。
「……よろしく、お願いします」
「俺の方が、ですよ。よろしくお願いします」
エリゼオの手のひらが私の手を包み込むようにして握ってきた。
それはやけに大きくて温かくて。握手された手を目に焼き付けるようにじっと見て……
手が離れたタイミングで顔を上げると、エリゼオはやっぱり微笑んでくれていた。
エリゼオは、表情豊かな人だった。
たくさんの種類の笑顔を見せてくれる彼の隣は、とても、居心地が好かった。