第四十五話 お嬢様
ぐしゃりと。
ベランジェの母からの手紙が、ルシールお嬢様によって握り潰される。
「手紙の内容から察するに……過去のジェイラの行動もお前が命令をしたことだな? ドレスの縫い直しなど……あの時、それなりの騒ぎとなった中、お前はずっと母親を励ましていたと思うが、おまえの命令となれば責められるべきはお前だった。それに、ジェイラの金がなくなったのはどういうことだ? お前が遣わせたのか?」
旦那様のその問いに、使用人の中から一人が飛び出した。
それは……料理長である父だった。
「旦那様……! その件は……いえ、どれもすべて、私も関係しております!」
「話せ。すべてだ」
「はい。手紙の通り、私はジェイラのやることすべてを否定してきました。すべて娘が悪いと決めつけていたのは私です。娘はその時から……お嬢様から言われたことをやった、と必死になって訴えてきておりました」
「そうか。それで金がなくなったというのは?」
「お金の件は……お嬢様の誕生日パーティーにて、お嬢様が果物の飾り切りをジェイラに作るよう、望まれました。その練習用の果物の仕入れを、練習なのだから自分の金で買えと言ったのは私です」
料理長は、真っ青になって話している。
「誕生日を迎える前に、私がまたジェイラを否定するような言動を取り……私の対応に我慢の限界を迎えたジェイラが泣きながら訴えてくるところを、頬を叩いて黙らせました。その後にジェイラは飛び出していき、ダンさんに連れて帰られるも……表情を失い、私を父と呼ばなくなりました」
声が震える料理長。
私の肩を抱くエリゼオの手が、彼の方へと私を引き寄せる。
料理長の話に、私は声を殺して涙を流した。もう散々泣いたから出ないと思っていたけれど、無意識下で流れたものを認めたくなかった。
エリゼオの服を濡らすことも気にせず、私は彼にしがみつくようにして顔を押し付けた。こんな顔を、真っ青で震える料理長に見られたくなかったのかもしれない。
「私の判断が、すべての過ちの始まりだったのです! ですからどうか、罰するなら私も……どうか!」
叫びに近い声を聞きながら、私はどうしていいのか分からなくなっていた。
ベランジェの母には謝りたいと思っているし、ダンともちゃんと話がしたい。
けれど料理長……父とはまだ、話をしたくはない。
これが他人だったら、なんて考えてしまうぐらいには、血の繋がりが邪魔をしているように感じる。たぶん……幼い私は、誰よりも父に信じてほしかったし、認めてほしかったのだろう。
それをことごとく裏切られたような形になったことで、父に対してだけは根強い何かがあって、まだ向き合えるとは思えなかった。
「ジェイラ、大丈夫か?」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃなさそうだな。無理しなくていい。言いたいことできたらどっか叩いて」
「……はい。ごめん──」
「ごめんはいらない。ジェイラが謝ることはない」
「ありがとうございます」
うん、と言って、エリゼオが私の背中を優しく撫でる。それに勇気をもらえた気持ちになって、ゆっくりと体を離し、父へと顔を向けた。
……父は、深く深く、腰を折って頭を下げていた。
長いこと、向き合ってこなかった現実が私達の間にはある。
まともに目を合わせられるか不安はあったが、萎れたまま顔を上げた父とお互いを見合った。
言葉はない。
何も。
許す許さないじゃない。
……時間が解決する時が、あるのかもしれない。今はまだ、無理だから。
私は目を逸らし、小さくお辞儀程度に顔を動かした。
そうしたところで、旦那様が父に下がれ、と命じる。
他の料理人の手を借りて、父はよろよろと下がった。
旦那様は、ただ一人を見つめている。
「……ルシール。私はお前の育て方をこうも間違えていたのか」
「ルシール……あなた……」
奥様も言葉を失ったかのように、口に手を当てていた。
その隣……お嬢様は俯いている。
けれど。あの、様子は。きっと。
今にも怒り出しそうだ、と思った。
まさに、次の瞬間、だった。
「……なんなのよ。皆、なんなのよ! 何でもかんでも私のせいみたいに言って! 頭おかしくなったんじゃないの!?」
「ルシール、お前は何を……」
「私はいつだって皆の期待に応えてきたわ! 私が笑っていたら……私が笑っているだけで幸せだと、毎日のように言ってきたのは皆じゃない!」
顔を上げたお嬢様は、激しい剣幕で旦那様を睨みつけた。
「嫌いなことも苦手なことも、誰かが代わりにやってくれたわ! それをジェイラにさせていただけよ。それの何が悪いの!?」
肩で息をするお嬢様を止められる者はいない。
「私は皆から愛されて、可愛がられる存在で、何よりも優先されるべき人間なの。皆がそうやって望むから、なってあげたんじゃない! すっごく退屈なのに、望まれるからそうなったのよ!? どうしてそれを責められなきゃいけないの!?」
皆が呆然とする中、お嬢様だけが声を張り上げる。
誰も何も言えない。言えるはずがない。
自分達のしてきたことが、言ってきたことが。
どれだけお嬢様に影響を与え、お嬢様の考えを作りあげてしまったのか。
これまでのことは、お嬢様が起点なのは間違いない。お嬢様の発言が発端となったり、お嬢様の幸せを願ったが故の行動だったり……
それで今までは、上手くいっていたのだ。誰もが幸せで、この領地の未来は明るいものだと信じていた。
「私が責められるなら、私をこうした皆も等しく責められるべきだわ。私は皆から望まれた私だもの。領民に聞いてみたらいいのよ。私に望むことは何? って。きっと皆、私が笑顔で幸せであることと言うはずよ」
お嬢様の言葉の数々が、今の状況を切り抜けるためのものでないことは明らかだった。お嬢様の目は、揺るぎない、本気のものだったから。
……お嬢様には、誰も気づけなかった歪みがあった。
それはきっと、皆の理想であり続けることへの重責からくるものだったのだろう。常に誰かから注目され、期待され、笑顔でいることを望まれてきたが故に、笑っていなければならなくなった。
辺境伯となるのは、お嬢様しかいない。お嬢様はその立場からは逃れられない。
私なんかでは想像もできない重責を抱えて生きるためにお嬢様が身につけた処世術が、今の姿なら。
寄り添うべきか。
突き放すべきか。
そのどちらも正しくて、間違いで。ずっとお嬢様の侍女としてそばにいた私にだから、できること。言えること。
それは……
「勝手に理想を押しつけて、上手くいかなくなったら私の責任だなんて、そんなの──」
「お嬢様!」
私は一歩踏み込んで、お嬢様を制した。
皆の視線が私へと集まり、一番最後に……ゆっくりとお嬢様が私を見据える。
「それ以上、ご自身の評価を下げることを言うべきではありません」
私の忠告に、お嬢様は鼻で笑った。
「嫌だわ、ジェイラにまで何か言われるなんて。本当に、皆して私のこと──」
「このままご自身の評価を下げ続けますと、辺境伯になれなくなりますよ」
お嬢様は分かりやすく口を閉ざす。その動作は、私の中にある考えが正しいことを証明した。
「辺境伯になること。それだけは、お嬢様の中で揺るぎないものだったはずです。お嬢様は一度だって、当主になりたくない、ならない、と言ったことがございません」
これは当たり前のようで、きっと簡単なことではない。どれだけ進む先が退屈だと思っていようとも、お嬢様は辺境伯になるという道を進み続けた。
そうした理由は、きっと一つだ。
「それがお嬢様の望む姿だったのではないですか? お嬢様は、皆から愛される辺境伯になるという夢を持っておられた。そのためにこれまで、理想とされる自分であったのではないですか?」
私がそう問いかけると、お嬢様は手に持っていた手紙を床に叩きつけるようにして放った。
「うるさいわね、人のことを見透かしたみたいに! 私が辺境伯になりたいからって何? もしもそうだったとして、今一番、私の邪魔をしてるのはジェイラじゃない!」
「邪魔ではありません! 私は……自分が変われたと思ったから、お嬢様にも変わっていただきたいんです!」
「邪魔してるじゃない! 私に従順なジェイラのままだったら、私はこんな目に遭ってないわ!」
「私達はやり方を間違えたのです! 私はお嬢様の言うことばかりを聞いて、お嬢様の成長を妨げました!」
エリゼオが気づかせてくれた。主人が育つには、どうしなければならなかったのか。
「……確かにお嬢様が笑っていられる未来が、この領地にとっては理想だと思います。だからといって、お嬢様に失敗や苦労をさせず、何でも肯定していてはいけなかったのです。お嬢様の逃げ道になってしまった。それが私の、一番の過ちです」
「そこまで言って……分かっているの、ジェイラ? 私が何もさせなければ、ジェイラは今頃、文字も書けずにいたのよ。それで良かったと言うの?」
「機会を与えてもらったことには、大変感謝しております。しかし、課題は課題。お嬢様がすべきことだったのだから、私は断らなければなりませんでした。私が受け続けてきたから、計算が苦手で刺繍も得意でないまま、今に至ってしまった。お嬢様が身につけておくべき能力を低下させたままにしてしまった」
きっと、お嬢様だって自身の過ちにはもう気づいている。
でも引けないだけだろう。引いたら、私に言い負かされたと思うような人だ。
だから……焚きつけるしかない。
煽って煽って、完膚なきまでに私を叩きのめそうとするくらい。強い気持ちを取り戻してほしい。
「……このままならば、私だけ、幸せになりますよ」
「何ですって?」
「私が変わったのは、すべてお嬢様がきっかけです。お嬢様がおっしゃった通り、私はお嬢様にやれと言われなければ、文字を書くことも計算も、こんなにできていなかったと思います。それに……恋をすれば世界が変わるとも、お嬢様はおっしゃったじゃありませんか」
……今、すごく、緊張している。
ここで言葉選びを間違えれば……辺境伯の継ぎ手がいなくなる。歴史あるザックガード辺境伯を、私が終わらせることになる。そのぐらいの気持ちで、お嬢様へ話し続けた。
それと同時に、こんな緊張感をこれまでその身に受けてきたお嬢様の凄さも知った。
だからより一層、変わってほしい。
お嬢様しか、いないのだから。立ち向かって夢を掴み取り、立派な辺境伯になってほしい。
「お嬢様が、私におっしゃったんですからね。手紙の代筆も、課題の代行も、刺繍も差し入れも。お嬢様がご自身でやっていれば、私には身につかない能力でした。でも、これがあるから、私は変われた。変わろうと思えました。ここで侍女として生涯を終えるのではなく、外に出て、私自身が望むことをやりたいと強く思うようになりました」
「……私はここから出られないのに、ジェイラは出て行くなんて勝手過ぎるわ。いいえ……ジェイラだけじゃないわね。皆そう。ここで暮らせなくなっても、何の責任もなく外に出られるじゃない。次の土地で、違う職に就くことだってできる。その自由がある。私にはそれがないんだもの」
過去に、お嬢様がローデヴェイクに言ったこと。
──私はこの地に生まれ、この地で命を終えるのです。
エリゼオに恋をした時も、お嬢様は自分がエリゼオについていくなんて言わなかった。エリゼオをここに残らせることしか、考えてなかった。
「ここには、私しかいない。だから皆、私に期待するのよ。私しか、いないから」
寂しさを含んだ言葉は、お嬢様の中にある孤独が顔を出したようだった。
お嬢様しか、子供がいない。
だから期待されている。その考えではまるで、ルシールお嬢様だから、ではなく。辺境伯の子供だから、と外側しか見てもらえてないような、やるせなさを感じる。
十年近く一緒にいたのに、私はお嬢様の根底にある孤独に気づけなかった。
もしかすると、私がここに連れてこられたのはその寂しさを埋めるため、だったのかもしれない。
それを間違えて、上と下になってしまった。
立場上は仕方なかったとしても、精神的に。
未熟だった。お互いに。
今なら、そう思える。
……こんなふうに、お嬢様を完全悪とさせないように働く思考は、長年の蓄積だろうか。それとも、お嬢様の教育の賜物か……それなら、大成功じゃないか。
私は、心の底からお嬢様を嫌えない。
お嬢様の言動には、何度も悔しいと思ったし、憎らしくもあった。何を考えているんだとも思ったし、ふざけるなとも思った。
しかし私に、専属侍女という居場所を与え続けたのもまた、お嬢様。お嬢様が私にこの立場を望まなければ、私は邸を追い出され、皆から嫌われたまま。
エリゼオやラフィクとは出会えず、今の私は、存在しなかった。
難しい。
人間の心は。感情は。思いは。
簡単に言葉にもできなくて。でも……知ってほしい。
言葉にできなくても、きっと、伝わるものがある。
「……本当に、そう、お思いですか?」
「……えぇ」
「それならばお嬢様、もっと周りを見てください」
私が言えば、お嬢様はゆっくりと顔を動かし、周囲の人を見た。そうしてじわりと、その瞳に涙を溜め込む。
周囲の使用人や騎士がお嬢様へと向けていたのは、失望ではなく、心配の眼差しだ。
そして旦那様と奥様も。二人はもっと複雑そうだけれど、決してお嬢様だけのせいにしようとはしていない。
「お嬢様がどれだけのことをしてもなお、お嬢様への愛情を向ける方々ばかりです。お嬢様しかいないからではありません。領民の期待に応え、常に笑顔であろうとしたルシールお嬢様だからこそ、この土地の希望となれたのです。皆だって、そう思っているはずです」
「……ジェイラ、あなたは私をどうしたいの? 私の邪魔をしたかったんじゃないの?」
「邪魔をする気は一切ありません。ただ、エリゼオ様はお嬢様に譲れないということと、私はここを辞めるということだけを、貫きたかったんです。私がいなくなる分、私がやっていたことをお嬢様自身がやるか、どなたかに引き継ぐかしなければなりませんから」
なるべく、あっけらかんとして聞こえるように言った。
お嬢様は二度、三度と瞬きをした後……私を鼻で笑った。
「調子に乗ってるわね。ジェイラができていたことだもの。私にできないはずがないし、他の者にだってできるわ」
「はい。私もそう思います」
「私に楯突くジェイラなんて、可愛くないし面白くもないからいらないわ。さっさと辞めて、出て行ってちょうだい。それに私に暴言を吐くような野蛮人もね。私はもっと優しくて上品な男性がいいの」
言いながら、お嬢様の瞳からは涙が溢れていた。
その一粒一粒はやけに綺麗で……拭いたいと、思ってしまった。
けれど私は動かない。それは、私の役目ではない。いなくなる私が手を差し伸べるべきではない場面だ。
それに……私もお嬢様と同様に、泣いてしまっていたから動けなかった。
「……お嬢様、本当に……お嬢様には振り回されてきました。辛くて悲しくて、何度もここから出たいと思ってきました。けれど……なぜだか、今は、感謝の気持ちばかりが、浮かんでくるんです」
「……やめてよ。どれだけ人がいいの? ちゃんと人を憎むということも覚えないと。王都に行ったらすぐに騙されそうだわ」
「それは……心配、ですか?」
「そんな訳ないでしょ。騙されて無一文になって、やっぱりここで働かせてくださいと言ってきても、受け入れてなんてあげないんだから」
だからね、ジェイラ。
「私より幸せになるなんか、許さないわ。でも、私の次だったら、幸せになっても許してあげる」
「……はい」
「この地で、一番幸せになるのは私よ。私が幸せなら、領民も使用人も騎士も、皆が幸せだと思うもの」
「はい」
「……これまで、ごめんね。お父様もお母様も……騎士も、使用人の皆も、ごめんなさい。これから、ちゃんと、自分の力で頑張るから……どうか、これからは私を叱ってください」
頭を下げたお嬢様に、泣き崩れたのは私の方だった。
お嬢様は、涙を流しながらも毅然とした態度でまっすぐに立っている。
「……ルシール、お嬢、様……申し訳、ござい、ません……でした」
「ジェイラに謝られることなんて何もないわ。私が命令してきたことだもの」
凛とした声は力強く、私の鼓膜を揺らす。
「私に対する罪悪感なんか、持つんじゃないわよ。ジェイラに同情され続けるなんて、我慢ならないわ」
「はい……! 必ず、お嬢様がご立派な辺境伯となることを期待しております」
「言われなくてもそうなるわ」
きっとお嬢様は笑っている。
そしてその笑顔は、今まで見たこともないほど美しいものだと思う。涙でぼやける視界でははっきりと見えないけれど分かるのは、長年そばにいたからだろうか。
苦しかったことや、辛かったことの方が多かった。もう一度、と言われても、二度と戻りたいとも思わない。
それでも今、私は、自分の意志で自由になった。お嬢様にはない自由を、手に入れた。
どちらが良い悪いではない。
どちらも悪くて、これから良くなっていくために、変わるのだ。
私の背を撫でるエリゼオが、頑張ったな、と言ってくれた。
それだけで、自分は世界で一番、頑張れた人間なのだと思えた。




