第四十話 私の気持ち
自室へと運ばれた私は、そっとベッドの上に座らせてもらった。エリゼオは床に膝をついて、私を見上げるようにして顔色を伺ってきた。
「すみません、ありがとうございました」
「あ、すみませんに戻ってる」
「はい?」
「さっきは、ごめんなさい、だったから。ごめんなさいの方が可愛いからそっちにして」
「……はい。分かりました」
頬を撫でられ、ふふ、と笑うと、エリゼオも少し安心したように笑う。それを見て、彼にはたくさん心配をかけてしまったと申し訳ない気持ちになった。
「……ご心配をおかけして、ごめんなさい。来てくださってありがとうございました」
「何で謝んの。俺の方こそお礼を言いたいぐらいなのに」
「エリゼオ様がお礼を?」
「そりゃあ不謹慎だろうと、あの状況で呼んでもらえたら嬉しいからな」
「……エリゼオ様にそばにいてほしいということ以外、考えられなくて」
「ありがと。なぁ、隣座っていい?」
はい、と返事をしたら、すぐ横。体が触れ合う位置に座って、片腕が肩へと伸びてくる。その腕に引き寄せられ、逆らうことなく身を委ねたら、エリゼオの肩に頭を乗せるような体勢になった。
「しっかし……本が多いな」
「必要なものを買っていたら、ああなってしまって」
「ここにあるの、全部読んでるってことだよな?」
「そうですね。でも、その時々で必要なものだっただけなので。あまり覚えていないものも多いんです」
「いやいや、それでもすげぇよ。料理に刺繍に文字……で、計算に金勘定。その隣は……経営学ねぇ。そっちから半分は、題名聞いてもさっぱりだな」
そこまで本のタイトルを追っていたエリゼオは、とんでもねぇな、と言って少しだけのけぞる
「題名だけで文字酔いしそう」
「あまり本は……読まれないですよね」
「その通り。報告書を書くためだけに文字も覚えたようなもんだし」
「私も仕事で必要だったから読んだだけですよ」
「あるだけですごい。そして読んでることはもっとすごい」
「ありがとうございます。一番楽しく読めたのは、誕生日にいただいた詩集です」
「お、あれ、良かった?」
「はい。お気に入りのものもいくつかできました。今度、ミルヤミ様とお話したいです」
「そりゃあ、あいつもラフィクも喜ぶだろうな。早めにしような」
「はい、ぜひ」
エリゼオが話しやすい雰囲気にしてくれたことで、私は幾分か気持ちも軽く話をしようと思えた。
「……エリゼオ様、今日のことも含めて、私のこと……聞いていただいてもいいですか?」
「もちろん。あ、でも、話す時は手ぇ握っててくんない?」
「手を?」
「辛いとか悲しいとかってなったら握って。その間は無理に話そうとしなくていいから。いくらでも待つし」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「役得ってもんよ」
気にすんな、と笑ってくれるエリゼオに、もう一度お礼を言って……私は過去の記憶を引っ張り出す。
「私がここに連れてこられたのは、七歳の時でした」
それから今に至るまでのすべて、記憶に残る限り、私はエリゼオへと話し始めた。
七歳から九歳まで、お嬢様の言いつけを守ろうとしてきたけれど、結局、大人に信用されずいつも怒られてきたことを話すと、エリゼオは当時の大人に憤ってくれた。
そして決定打となった九歳のあの日のことは、話そうとしたら早々に涙ぐんでしまい、言葉に詰まった。エリゼオの手も強く握ってしまっていたのに、エリゼオは文句一つ言うことなく、私の頭を撫でたり背中を擦ったりして、落ち着くまで待ってくれた。
「……ごめんなさい。話が進まなくて……」
「気にしなくていい。時間はあるし、ゆっくりでいいんだから」
本当に、エリゼオは私を急かすことなく気を長くして待ってくれた。
私はそれに安心しながら、ぽつりぽつりと、あの日のことを話す。父との言い争いの末、頬を叩かれたこと。逃げ出そうと門まで走ったけど、止められたこと。迎えに来たのが、ダンだったこと。
そして……帰ったところでの、お嬢様とのこと。
私を見てくる、大人達の目。誰も信用できなくなって、諦めた方が楽なんだと悟ったこと。
「……あの日から……笑うことも泣くことも、なくなったんです。自分の感情は全部、失くそうとしました。そうしておけば……とても、生きやすかったんです」
ぐっ、と肩を抱くエリゼオの手に力がこもった。私は私で、繋いでくれていたエリゼオの手を強く握ってしまっている。
「お嬢様の言うことを聞いて、それを忠実に守っていれば、それまでよりずっと、上手くいきました。周囲と距離はできたけど……困ることはほとんどありませんでした」
一人で過ごす楽さを知った。お嬢様から言われた仕事をこなすために、本が増えていった。
ただただ、毎日を異常なくこなすだけ。そんな毎日だった。
「しばらくしてから、とある侯爵家のご子息が騎士団に入ってきて、お嬢様に恋をしました。彼はたくさんのプレゼントをお嬢様に贈り、自分が辺境伯になるとも言っていました」
しかし二人の仲は変わらないまま、期間を終え、帰る時期が近づいていた頃に……
「ご子息が、私に声をかけてきました。お嬢様と二人きりにしろ、と。それは当然、不可能なのでお断りをしたのですが……」
ズキ、と背中が痛んだ気がした。呼吸が浅くなり、エリゼオの手を握る自分の手にも、さらに力がこもる。
騎士に近寄られて、恐い理由。それは間違いなく、あの出来事を思い出し、重ねてしまうからだ。
「地面に……倒されて。何度も蹴られたり、踏まれたり、して──」
言い終わる前に、それまでよりずっと強く引き寄せられて、両腕で抱きしめられた。背中に回ったエリゼオの手の温度に、痛みが和らいでいく。
「……ごめん。続けて」
「……はい。それで、どうにか砂を掴んで、相手の顔にぶつけて怯んだ隙に逃げました。そこからは見つからないようにしながら旦那様の部屋へと向かい、旦那様にそのままをお話ししたんです。そうすると翌日にはすぐ、ご子息はいなくなりました」
「ダンさんに脅えていたのは、その日を思い出したから?」
「そう、です。昔、信じてもらえなかった人だという印象も強かったのですが……騎士に怒られると思うと、体が竦んで……」
まだ、思い出しても震える。絶望を味わった日のことも、あの日に与えられた痛みと恐怖も、なかなか私の中から出ていってはくれない。
「前に、朝……俺が見つけた時。桃のやつ、もらった時。あの日も、それを思い出してた?」
「……はい、足音がして、見つかったら怒られるかもしれないと。すみません、勝手に恐がって心配をおかけして」
「謝らないでくれ。それと……恐がらせて、ごめん」
その言葉に私はエリゼオの腕の中で首を振った。
「あの日は、私の中で変化の日だったんです」
「変化?」
「私を認めてくださる方もいるんだと、思えた日です」
「……ありがと。ジェイラは強いな」
お礼を言いたいのは、私の方だ。
きっとあのエリゼオとの朝がなければ、私は未だに一人で怯えていただろう。それに、こうやって過去の話を自ら進んで話して、聞いてほしい、信じてほしいと思うことすら、なかったと思う。
エリゼオの気遣いや笑顔が、私を救ってくれたんだ。
そう思うと、私の手が動いて……彼の背に自身の手を回した。少しだけエリゼオの肩が動いたけど、それは嫌なんじゃないということは分かったから、さらに自ら体を寄せる。
「私は……エリゼオ様に、自由でいてほしいと思ったんです」
「自由?」
「お嬢様が望むことをするのが、ここでの正しい生き方だったとしても、エリゼオ様にはそうなってほしくなかった。そう思って動いたら、お嬢様には反抗する形になってしまいました」
「……それは、お茶会、とか?」
「はい。それまでにも自分の中ではずっと考えていました。でも、行動には移せなくて。それがやっとあの時にお嬢様を止められて……遅くなってしまったとは思うのですが、エリゼオ様が笑ってくれて。ありがとう、と言ってもらえたと思って、すごくすごく、嬉しかったんです」
「覚えてる。ありがとう、って言ったし……俺はあん時のジェイラに惚れた」
そう言われてドキリとしたところでエリゼオが体を離した。それから彼はまっすぐに私と目を合わせて話を続ける。
「俺がありがとうって言う前……ジェイラが帰る前かな。礼をして、顔上げたジェイラがめちゃくちゃ綺麗で。それが、可愛いとか美人とかそういう綺麗さだけじゃなくて、なんかこう……うーん……神々しい、みたいなかんじかな。とにかく、今まで見た中で一番綺麗だった」
いつもの調子で言うけれど、内容はとても熱烈だ。
けれど照れるよりももっと大きな感情が身体の中いっぱいで、もっとずっと聞いていたいと思ってしまう。
「ありがとな。あん時、助けてくれて」
「私こそ、いつも助けていただいておりましたから。本当はもっと早く何かできれば良かったとも思うのですが……でも、エリゼオ様がそう言ってくださると、あの時の行動は間違ってなかったんだと思えて自信になります」
「そうそう。ジェイラはもっと自信持って。俺を喜ばすことに関しては、天才的なんだし」
私がエリゼオを喜ばせる天才、ならば。彼だって。
「エリゼオ様も、ですよ。私にたくさんの初めてをくれたのも、嬉しいことや楽しいことがあると思わせてくれたのも、エリゼオ様です」
認めてくれて、励ましてくれて、寄り添ってくれた。
エリゼオがいなければ私は変われなかった。
人を信じることも、未来を夢見ることもできなかった。
「エリゼオ様が全部、私にくれました。すごく温かくて優しくて……一緒にいたら、安心できるんです。だからずっと、一緒にいたいです」
エリゼオのことが好き。
それと同じ位、感謝の気持ちがある。
「本当に、エリゼオ様に会えて良かったと心から思います。私といてくれて、好きだと言ってくれて……ありがとうございます。エリゼオ様、大好きで──」
す、を言い終わるより前に、唇に触れていたのはエリゼオの唇だった。
驚きで目を瞠るけれど。
優しく重なったそれに、私はそっと目を閉じる。
時間にしては数秒。世界で一番、愛おしい時間になる。
「好きだ、ジェイラ。俺も、ジェイラに会えて良かった。ジェイラが俺のために色々してくれたことには、すげぇ感謝してる。本当にありがと」
「……はい」
返事をしたら、また唇が重なる。
「……これで止める気だったんだけど。もうちょっとしたい」
「嬉しいです」
「ジェイラは俺に甘いもんな」
「エリゼオ様も甘いですよ」
「お互いに確信犯か」
二人で小さく笑って、もう一度。
ゆっくりと離れた顔が名残惜しくて……それから少しの間、私達は小さなキスを繰り返した。
両手分くらいキスをして、満足してちゃんと離れることができた。話し始めた当初の体勢に戻り、中断していたところから話を再開する。
「えっと……それからはエリゼオ様とラフィク様が来られたので、ご存知のことも多いと思います。お嬢様が先程おっしゃられた通り、入団式の日に一目惚れをされて……」
「あれなぁ……勘弁してくれよ……俺はジェイラを見つけたから嬉しかったのに」
がっくりと項垂れたエリゼオの手を握って、エリゼオ様、と声をかける。
「あの時は自分ではないと思いましたが、今、本当のことが分かって嬉しいです。ありがとうございます」
「まさかあれが……いや、ありえねぇだろ。何で初対面で笑いかけるんだっての……」
「……お嬢様は初対面の男性から笑いかけられたりすることも多いので」
「なるほど……まぁ、あの見た目だったら……そうなんのか? 分からん」
そう言いきって、エリゼオはまた私に謝ってきた。
「本当にごめんな。俺がややこしくしてたんだもんな。色々辛い思いをさせただろ」
「エリゼオ様のせいではありません。色々重なってのことだと思っていますから。もう謝らないでください」
ありがと、ごめんな。と言われて、頷いておいた。
そこからは彼らが来てからの振り返りのような時間だ。その時々であったことと、どう思っていたかを話しながら、いよいよ『好きになりなさい』と言われた経緯を説明した。
「あの茶会の後でねぇ……何考えてたんだろうな」
「私としてはそこでお嬢様からの許可は得て言質も取れたので、後は私だけの問題になりましたから。スッキリはしていたんですけど」
とうとう話は、昨日から今日にかけてのこととなる。
その前に少し水分補給をしようということになり、エリゼオが堂々と厨房にいって水差しとコップを持って帰ってきたのには少し笑ってしまった。
私には寝転んでてもいいからちょっと休んでて、と言ってくれて、お言葉に甘えて私は部屋で待つだけだった。
「ありがとうございます。もうすっかり慣れっこですね」
「包丁は握らせてもらえねぇけどな」
「それはまた追々」
「教えてくれんの?」
「エリゼオ様がやってみたいのであれば、もちろん」
「よろしくお願いします」
「はい。お水、ありがとうございます」
「ん。おかわりは?」
「大丈夫です」
飲みきったコップは、私が机に置こうとするよりも先にエリゼオが私の手から取って置いた。言わずとも流れるようにそんな動作ができることが、何だかくすぐったい。
「可愛い顔ではにかんでんな」
「口元が緩んでましたか?」
「可愛いって言ってんのに」
やめないでよ、と言われても。意識をしたら口元には力が入る。けれどどうせ、エリゼオといれば簡単に緩んでしまうだろうから、残念がられることでもないとは思う。
「では、昨日からのことなんですが……」
「おう。団長が言ってたように、窓からあのタオルを投げたのはルシールなんだな?」
「そう、ですね。投げたというより、こうやって……」
私はあの時の状況を身振り手振り交えて説明して。
「なるほど。それで、探してたところにダンさんが来て」
「拾って渡していただいたのですが、話をしたいと引き止められました。私もまだ恐かったので、帰ろうとしてしまって。ダン様は……怒っても疑ってもいませんでした」
「そっか。まぁでも、恐かったのは仕方ない。ダンさんも自分が悪いって言ってたし。二人きりで無理に話そうとしたのは悪手だったな」
まぁでも、とエリゼオが続ける。
「実は今日、俺を呼びに来たのはダンさんだったんだ。血相を変えたダンさんが宿舎にやって来て、ジェイラのところに行ってあげてくれ、って」
「そう……だったんですね。エリゼオ様、私……ダン様ときちんとお話をしたいのですが、その時にはついてきてくださいませんか?」
「もちろん。最初からいるつもりだったけど。ラフィクもそのつもりだと思うぞ」
「ありがとうございます。また時間を合わせて、お話ししたいです」
「そうだな。今回の件が落ち着いたとこで声かけてみような」
そう言ってくれるエリゼオにお礼を言い、時間軸は今朝へと変わる。ここからはまた、本当に色々あった。
まさか一日でこんなにも状況が変わるのかと思うぐらいに、変化があった。思い出したくないことも、思い出したいことも。濃密な半日の振り返りが始まる。




