第三十七話 助けて
翌朝、早めに起きてタオルの状態を確認すると、汚れもほとんど落ちていたし、乾き具合もまずまずだった。
これなら奥様が部屋を訪れるにしても夕方頃なので、それまでお嬢様の部屋に干していれば間に合うだろう。そう判断して、少し早い時間だがタオルを持ってお嬢様の部屋へと向かっていた。
お嬢様を起こさないようにすれば室内で静かに作業をすることは許されていた。その時間に騎士団への刺繍をしたこともある。
なので今日はこのタオルの干し場を探そうと考えながら歩いていたのだけど……
「どうしてあなたがそれを持っているの?」
なんとその途中で、普段はすれ違わない奥様と出会してしまったのである。
しかしここで変に取り乱しては、いらない誤解を与えてしまうだろうと思い、なるべく簡潔に説明してこの場を終えようと努めた。
「おはようございます、奥様。昨日、窓から落ちてしまったので、私が拾い、洗って持──」
「言い訳は結構」
あまりにも冷たい言い方に口を噤む。
「ルシールから聞いたわ。あなた、ルシールの手からそのタオルを奪おうとしたそうじゃない」
「なっ……!?」
「それに、手を出さないでと言うルシールの言葉も聞かず、勝手に縫い進めてもいた、と。これはあなたの遊び道具でも練習道具でもなく、ルシールのために贈ったものなのよ?」
そうきたか、と思った。
お嬢様は私が拾いに出た後に、奥様にそのようなことを言ったのだろう。奥様はお嬢様の話を信じるに決まっている。
もしかしたら夕食の場で話に出したのかも……そうなると、旦那様や使用人、騎士達の何人かも聞いているはずだ。
また皆からの評価が下がることになったのか、と奥様には分からない程度に気落ちして……
そこで、ふと、自分の変化に気がついた。
これまでの私だったら、気落ちなんかするはずがなかった。
だってお嬢様が言ったことだ。皆はそれを信じて、それが事実になる。私も受け入れるだけだった。お嬢様がそう言うのなら、私がわざとやって、叱られるのも仕方がないことだと思い込むようにしていた。
それなのに。
今自分は、ちゃんと、評価が下がったことに落胆している。
奥様からの私の評価なんて、元々地に埋まっているぐらいのものなのに。それでも、誤解されていることが嫌だったのだ。
私は、変わっている。
もっと、変われるはずだ。
タオルを持った手に力が入る。震えそうになる足にも力を入れて、声を絞り出した。
「私ではありません」
「……何ですって?」
底冷えするような、奥様の声はとても恐かった。
それでも止まっちゃだめだと思った。
だって、私は間違っていない。私は事実を述べているだけ。こんな私を……信じてくれる人はいる。
ここでだめだったら、報告すればいいのだ。そうしたらきっとまた、よく頑張ったと言ってもらえる。
褒められたいからそうやって動くなんて子供みたいだけど、できることからやるしかない。できることをやらなければ、私はずっと、諦めたままだ。
「私は、奥様がお嬢様のためにとご用意されたものを、窓から落とすなんてことはいたしません。それに、刺繍にも一切手を加えてはおりません」
自分の精一杯で、口に出せた。
それにじんわりと喜びと安心が押し寄せてくる。泣きそうな気持ちになりながらも、言葉が詰まりそうになるのを抑え、続きの言葉を口にしようとした私だったが……
「ですから、昨日のことは──」
「黙りなさい」
ピシャリ。
まさにそんな擬音が当てはまるくらいには、はっきりと拒絶された。
「あなたの言い分など聞きたくもないし、聞く価値もないわ」
価値のない、言い分。
「あなたはどこまで人間として最低なのかしら。あなたの言い分通りなら、ルシールが私に嘘をついたと? 馬鹿馬鹿しい。そのタオルはもうルシールには必要ありません。捨てなさい。代わりにまた私が新しいものを準備するわ。あなたは一切、触れないように」
「……承知いたしました」
「いい加減、ルシールの侍女も辞めさせたいわ。本当に……あの子は優しすぎるわね。そろそろ見切りをつけることを覚えさせなければいけないわ」
そう言って、奥様は私の横を過ぎ去っていく。
「……奥様」
頭は下げない。下げたら、私は完全に敗者だ。
「そんなにもお嬢様を信じるとおっしゃるならば、お嬢様が刺繍されているところをじっくりと観察されてください」
「……何が言いたいの?」
「私は一度だって、お嬢様のものに自ら、勝手に、刺繍を入れたことはありません。ドレスもハンカチもタオルもすべて、お嬢様の指示で、私は縫いました。その指示に従い続けたことを責められるならば反省しますが、私が自主的に手を出したと言われるのならば否定します」
「黙りなさい。あなたの虚言など聞きたくもないわ」
「虚言かどうかは、奥様の目でお確かめください。それと……大切なドレスに手を加えてしまい、誠に申し訳ございませんでした。そのことは、心よりお詫び申し上げます」
昔、奥様がお嬢様を想って作られたドレスに、お嬢様の言葉があったにせよ手を加えたのは私だ。
だからそのことだけは謝った。
深く礼をして顔を上げれば、奥様はもう離れたところにいた。私はその背中を見つめるだけだった。
……言えることは言った。
それでも聞き入れられないのは、修復不可能だということかもしれない。長年の自分の行動がこうしてしまったのだろうけれど、やっぱり侘しい気持ちはある。
それでも……今できることは、早く、切り替えることだ。変わろうと思えたことが良かったのだ。そう自分に言い聞かせてまた歩き出そうとしたところ、背後から呼ばれた。
振り向いて立っていたのは、ベランジェだった。私の中では特に、お嬢様に心酔しているうちの一人だという印象が強い騎士。
「……いい加減にしろよ」
ぼそり、とそう呟き、数歩近づいたベランジェは、静かな怒りを携えて私を睨んでいた。
「今の言い方では、ルシールお嬢様がやったというように聞こえたが」
ベランジェは背が高い。その身長差のせいで上から睨まれるようにして言われると、過去の蹲って蹴られていた時の記憶が蘇る。
しかし……私は、身を引くことはしない。握った拳に思いっきり力を込めて、震えそうになる体をやりこめながら、彼の前にいる。
「お前が、お嬢様の邪魔をして刺繍に手を加え、窓を開けてタオルを捨てた。そうなんだろう?」
「違います。先程も申し上げましたが、私はそのようなこと──」
「お前が、やったのだろう?」
カチャ、と。
ベランジェの手が剣に伸びた。
「……っ、何を……!?」
「……お嬢様はなぜこのような愚か者をそばにおいておくのか。あまつさえ、自由を許すのか……」
剣が抜かれ、剣先が私に向けられる。
「お前のような下賤な者、今すぐにでも斬り捨ててやりたいが……そのような命令はくだされていないのが残念だ」
「…………」
「奥様がおっしゃったように、お前がお嬢様から離れることを望む者ばかりだというのに。面の皮だけは厚いようだな」
剣先を向けられたのはさすがに経験がなかった。これまでの比じゃないほどの恐怖に言葉は出せるはずもない。
しかし、一つの疑問だけが、私の頭を占めていた。
私はなぜ、この男にここまでのことをされなければならないのか、と。
この人は、他の盲目的な人とは違う気がする。
私に明確な敵意を抱いている。
その原因が何なのか。それを知らなければ、私はこれから先もこの人に恨まれたままだ。
力を振り絞り、私は閉じていた喉から声を出した。
「……あなたが、私をここまで追い込む理由は何ですか?」
その問いに、ベランジェの瞳が一瞬揺らぐ。
ベランジェとの接点なんて、それこそお嬢様を通してしかなかった。なのにここまでの憎悪を向けられるなんて、私は一体何をしたのだろう。
身動きできず、ただベランジェの動向を見ていると、彼は小さく吐き捨てるようにして笑った。
「理由、か……身勝手なお前には分からないだろうな。お前の行動によって被害を受け、傷ついた者がいるということを」
ベランジェの声は、やけに凪いでいた。
「お前は微塵も自身の責任だとは思っていないんだろう。俺の顔を見ても、申し訳ないという表情を向けられたことなどないからな」
顔……?
そう言われ、私は今一度彼の顔をじっと見た。この顔で、思い出す人は。事柄は。
恐怖を追いやり、記憶を引っ張り出す。
しかし頭の中で照合している間に、どこからか足音や話し声が聞こえてきた。
それによって、ベランジェが剣を収め踵を返す。
「お前がいる限り、母は悲しみに苛まれている」
「……母」
そこでようやく浮かんだのは、一人の使用人。
私の前に立ちはだかり……いつの間にか、辞めていた人。まさかベランジェが、あの人の息子?
そしてあの人は……私のせいで、悲しんでいるの?
「俺はお前を許しはしない」
いなくなった男の足音は、私の中に重く深く刻まれた。
──自分が、人を傷つけていた。
その事実は、私を縛りつけるには十分だった。
私のように苦しんでいる人がいて、その原因は私で。それなのに、私だけ変わって、人を好きになって、楽しみを未来に求めるなんて。
なんて自己中心的で横暴なのだろう。
ベランジェの言う通り、私は彼女の悲しみにすら気づいていなかった。その結果が、子供からの憎悪だ。
……今度こそ、心が折れたように気力が湧かなくなった。
お嬢様に歯向かい、自由を求めることは……きっと、いけないことなんだ。
変わることも、しちゃいけない。
私が悲しませているなら、その憎しみを受け止めなければ。罪を、償わなければ。
前にも後ろにも進めなくなって。
自分の意志を口にすることが、許されなくなったように感じて。
「…………消えたい」
もういっそ、消えてしまいたい。消えてなくなってしまえば、楽になれる。
もういやだ。なにもかも。
考えたくない。知りたくない。
気づけばフラフラと歩いて……
昔落ちた、小さな池の前にいた。
ここで水浸しになった。
そこからは、散々だった。
何もしてもらえなくなった。頼めなくなった。誰もいなくなった。
でもその過程で、私も人に悲しみを植え付けていた。
そんな私が、誰かと生きたい、だなんて。
しゃがみこんだ。
子供みたいに。膝を抱えて。小さくなって。
このまま、消えてしまえないかと思った。
忘れたい。希望を抱いたことも。未来を夢見たことも。
全部。ぜんぶ。ぜんぶ、なにもかも。
目を閉じる。涙なんか出ない。深呼吸して、なかったことに。
静かに立ち上がると、開けた視界が子供の頃よりも高く感じた。体ばかり大きくなった自分が、嫌になった。
……仕事に行こう。そうするしかないのだから。
タオルを綺麗に畳み直し、お嬢様の部屋に向かった。
お嬢様がタオルを気にすることなく。私も朝のやりとりを報告することはなかった。
そして時間が過ぎて。昼食前に、少しだけ時間が空いた。
お嬢様はエリゼオを求め、鍛錬場に行く。
けれどエリゼオは夜の巡回だからまだ部屋にいて、鍛錬場にはいなかった。お昼からは出てくるそうだ。
「せっかくですし、呼んできましょうか?」
「かまわないわ。寝かせてあげて」
「ルシールお嬢様はお優しいですね。エリゼオは本当に幸せな男ですよ」
「いやだわ。恥ずかしいじゃない。それに、優しいのはエリゼオよ。彼が優しいから、私も優しくならなければと思うのよ」
エリゼオが、幸せ。
幸せなら、それがいい。
エリゼオが幸せなら、笑っていられるなら──
「そうだわ。皆にお礼を言わないとだったわね」
お嬢様が、私の腕を取って、一歩前に立たせた。
その場にいる騎士の視線が私に集まる。
「皆には、ジェイラの恋心を見守ってもらっていたお礼を言わないといけなかったわ」
お嬢様が話し始めると静かになる統率のとれた騎士達は、満足そうな顔でこちらを見ていた。
私は訳も分からずお嬢様を見る。
お嬢様は、楽しそうに笑っている。
「見守って……?」
「私からお願いしていたのよ。ジェイラにとっての初恋だから、大切にしてあげたいって。だから皆にも話をして、理解してもらっていたの。ちょうど今はエリゼオもいないし、ここでお礼を言っておきなさい」
何の、お礼?
見守られていた?
この人は一体いつから……私をそんなふうに扱っていたの?
疑問は尽きない中、失礼します、とお嬢様へと声をかけたのは、ベランジェとよく一緒にいる騎士の一人。
「その件についてです。お嬢様の寛大な御心からの指示ではございましたが、その者が本格的に動き出す前に、諦めさせるべきではないかという意見も出ております」
諦めさせるべき?
「人を好きになるのは仕方がないことよ。そう簡単に諦められるものではないわ」
「本来なら、思うことすらも許されないものなのです。それをお嬢様の温情により思いを寄せることは許されてはおりますが、行動するというのはお嬢様への裏切りともとれます。従者としてあるまじき行為です。それにまだ大きく動いた素振りは見えませんが、これから動き出しますと、エリゼオにも迷惑をかけるのではないかと懸念しています」
「エリゼオに?」
「エリゼオの手を煩わせる行動を取ったり……やたらと弱っているように見せかけて同情を誘うこともありうるかと」
……何の話をしているの、この人達は。
「お嬢様、使用人を大切にし、哀れに思う気持ちは大変ご立派です。しかしここ最近の、その侍女のお嬢様への言動は目に余るものがあります。お嬢様が優しくしすぎていることで、つけあがっているのです」
「つけあがっているだなんて……そんな恐い言葉は遣わないで。ジェイラも一生懸命なのよ」
「お嬢様の教育あってこその今の立場だということをしっかりと理解させるためにも、今ここできっぱりと引導を渡し、使用人としての職に専念させるべきではありませんか?」
「……分かったわ。ジェイラ、先に皆にお礼を言って。そうして、エリゼオのことはここで諦めると宣言しておきましょう。そうしたら皆も納得してくれるから」
大きく頷く面々。
お礼を言って、諦めると宣言することが。
ここでの正しい姿。
「まずはお礼を」
もう一歩。背中を押されて。
初めて、騎士達が穏やかな眼差しで私を見つめていた。
消えたい、と。
今が人生で一番思っている瞬間だ。
ここで正しいとされることは、お嬢様の意思に従うこと。
お嬢様が笑っている未来を、願うこと。
その形に、自身を埋め込むだけ。そのために、必要なお礼と宣言。
ゆっくりと、口を開く。
ありがとうございました。諦めます。
簡単な言葉だ。私の呼吸音すら聞こる場で。それだけを言えば良い。
「さぁ、ジェイラ」
促されて、私を消す言葉を。
この地で。お嬢様の侍女として。望まれる言葉を。
「…………エリゼオ様、助けて」
両目から涙が溢れた。
止まることのないそれを、乱暴に拭いながら立ち尽くす。
門番のところで、ダンが迎えに来た時も。
三男に蹴られて逃げたところで、ベランジェの母親である使用人が私の前に立った時も。
私は心配されているなんて思わなかった。
その手を取れず、助けを求めるなんて考え、浮かびもしなかった。
けれど今は。
「助けて、ください」
エリゼオに助けてほしい。
呼んだら来てくれると言った彼の言葉を信じて、すがりたかった。一緒にいてほしい。そばにいてほしい。
「……ジェイラ、あなた……何を言ってるの?」
お嬢様は明らかに不機嫌な声色だった。しかし少しだけ戸惑いも含まれている気がした。
それに騎士達もざわついていて、困惑している様子だ。
しかし私はもう、止まれなかった。
ここで黙ってしまっては、本気で自分を失うと思った。
出せるだけの、大声で。
彼に、届くように。
「助けて、エリゼオ様!」
一際大きく響いた私の声に呼応するように、背後から衝撃が訪れた。けれど私はよろけることなく、温かな両腕にがっしりと抱き込まれる。
聞こえる呼吸は息を切らし、けれどこの世で最も安心する音として私の鼓膜を揺らす。
「呼んでくれてありがとな」
それまで私の中にあった感情が安堵に振り切れ、とうとう声を上げて子供のように泣くことしかできなくなった。




