第三十六話 一人にしない
騎士団の宿舎の前まで来て、エリゼオの手が急に離れた。
どうしたのかとエリゼオを見上げれば、ごめん、と一言返ってくる。
「ちょっとだけ待っててくれるか?」
「……はい」
「すぐ戻るから。まじで、すぐ。ここにいて」
はい、という私の返事の後、宿舎の中へと走って入ったエリゼオは、本当にあっという間に帰ってきた。手には袋が握られていて、空いている方の手がまた私の手を取って歩きだした。
「話したいことあったから。消毒しながら話そう」
言いながら進むが、使用人棟とは別の方向だった。
しばらく進み、エリゼオが足を止めたのはラフィクと夜に訓練をしている場所の近くで、さらに人目からは避けられるところだった。
「少し滲みるかも」
準備良く、持ってきていた水でサッと手を洗い流して、ハンカチに消毒をつけて手の傷にそっとあてられる。こんなことされるほどの傷ではないのに。エリゼオが私の手を大事にしてくれているようで、断る気にはなれなかった。
「よし。しかしまぁ……あれは恐かっただろ。眠れそうか?」
ハンカチと消毒をまた袋にしまって、ポン、と頭に手が置かれた。
「……はい。ありがとうございます。大丈夫です」
しばらく撫でられてから、その手が離れた。私は持っていたタオルを両手で握る。どうせ、洗わなければならないから、多少の皺が寄っても大丈夫だろう。
騎士とのことを訊かれるのは……まだ、少し恐い。だから布を握りしめて、何を訊かれても良いように、心の準備をした。
「ダンさんと話してたのは、そのタオルのことか?」
「はい……お嬢様が縫われたものなのですが、窓から飛んでいってしまって。探していたら、先程の方が拾ってくださって……」
「なるほどな。それ、ここの家紋、だよな?」
タオルは適当に畳んでいたが、家紋だと分かるぐらいには刺繍が見えていた。騎士団に毎年配っているハンカチにも同じものが縫ってあるし、色々と敷地内には家紋が刻まれているから見慣れたものになったのだろう。
ここの家紋かという質問に、はい、と答えた私に、エリゼオは間髪入れずに尋ねてきた。
「ハンカチのより歪じゃね?」
「え?」
てっきり、あの騎士とのことを訊かれると身構えていたのに。この刺繍が、歪かどうかなんて訊かれると思っていなかった。
パチパチと瞬きをしている間に、エリゼオは袋の中へと手を伸ばし、例のハンカチを取り出して広げてみせた。
「どう見ても、それとこれは別のやつが縫ってる。ということは……これは、お前が縫ってんだな?」
そこには、私が縫った刺繍。もう何年も騎士団全員にお嬢様からと言って配るために縫っているので、家紋に関してはそこそこの腕前にはなっていた。
時折縫うお嬢様のものとは、確かに出来栄えに差がある。
それでも……ここは、否定しなければ。
「大きさが違いますから、なかなか難しかったのではないかと……」
「その家紋と、こっちの家紋。大きさの違いだけじゃなくて、明らかに丁寧さが違う。しかもここ、間違ってるし、毎年、騎士団全員分のハンカチを縫ってるやつが、こんな凡ミスするとは思えない」
ハンカチが揺れる。
質問されてはいるが、差し入れ同様、エリゼオの中では確定事項となっている。真っ直ぐに見つめられる視線の強さがそれを物語っていた。
「本当のこと、ジェイラから教えてほしい。この刺繍のことと、今日あったこと」
……話すしかないんだな、と思った。
エリゼオは私を追い詰めながらも……あんまりにも優しい眼差しを向けてくれるから。そんな彼に嘘なんかつきたくなかった。
けれど……ここですべてを話すのは、誰かに聞かれるかもしれないという不安がある。
人との遭遇を避けたくて最適な場所として、思い浮かんだのは……
「……エリゼオ様、はしたないと思われるかもしれませんが」
「何?」
「私の……部屋に、来ていただけませんか? ここで話をするのは……」
「あー……そうか。そうだよな。ごめん、俺が考えなしだった」
エリゼオのその言葉に、私は首を横に振る。
「私も、聞いてほしいので……」
「うん。行く……あ、いや……俺、今日は夜の巡回か。しかも相手が……」
エリゼオは独り言のようにぶつぶつと言いながら、んー……としばらく唸った後で、ごめん、と謝ってきた。
「俺から言ったのにごめん。今日より明日の方が時間をゆっくり取れるんだ。明日なら一晩中でも大丈夫だから、良かったら明日、聞かせてほしいんだけど、いいか?」
「はい。それは、大丈夫です」
「本当ごめん。大丈夫か? いや……でもなぁ、今日のうちに聞いておきたいってのはあるし……」
うーん、と思いっきり悩んでいるエリゼオは、私のために時間を作ろうとしてくれている。それなら、私が取るべき行動は。
「ハンカチは、私です」
「…………やっぱり」
詳しくは明日にして。
簡潔に、事実だけは今日話せることを話す。
「全員分? 一人で?」
「はい。一人で」
「……ちょっと待て。結構前に……手紙と一緒に入ってた、あの、イニシャル入りのやつももしかして……」
「私です」
「だよなぁ。あれも綺麗だったもんなぁ」
言いながら、エリゼオはきれいに畳むことなく ハンカチを袋に押し込んだ。
「差し入れもして、これもして。もちろん侍女としての普段の仕事もあるんだろ。ここまでやってて、ちゃんと眠れてるか?」
「…………はい。大丈夫、です」
「今の間は怪しいな」
そんなことを聞かれたことなんてなかったから。質問を理解するのに時間がかかってしまった。
「初めて、ちゃんと眠れてるのか……訊かれました」
「また初めてをもらえんのは嬉しいんだけどな。本当、ここのやつらは……いや、ジェイラがしっかりしてるから、できるのは当たり前になってんだろうな」
しっかり……してるのかな。当たり前にはなっているだろうけど、それはお嬢様の侍女だからで、お嬢様の命令を聞くのは当然のことだからだ。
でも、エリゼオは侍女として、ではなく。一人の人間として、私のことを見てくれている。
「しかし……ジェイラはすげぇわ。でも、あんまり無理はするなよ。まだ成長途中なんだから、睡眠時間は大事にした方がいい」
「はい」
「俺なんて、部屋帰って即寝することだってあんだから」
それには……覚えがある。
「早朝に素振りされていた日も、前日に早く寝たと言ってましたよね」
「そうそう。ジェイラも寝れる時はしっかりと寝るようにな。俺もお前も、体が資本なんだし」
「はい。気をつけます」
エリゼオの言葉は、すんなりと聞き入れることができた。私が返事をしたら、嬉しそうにエリゼオが笑う。
その笑顔を見て、なぜだか泣きたい気持ちになった。真っ直ぐに心配されたことに、遅れて涙腺が反応したのだろうか。
明らかにぐしゃ、と顔を歪めた私に動じることなく、エリゼオは微笑んだまま口を開いた。
「さっきのこと、まだ恐いか?」
「違っ……違います。もう、恐くは……」
すぐに否定して首を振ると、エリゼオの微笑みが苦笑交じりになる。
「俺は、まだちょっと恐い」
「エリゼオ様が? どうして……ですか?」
「あの道を通らなかったら、今頃ジェイラは一人で怯えてたのか、って思うと恐ろしい。見つけられて、本当に良かった」
エリゼオが肩の力を抜いたのが分かった。
それほどまでに、心配してくれていたということが伝わってくる。
「俺はジェイラに傷ついてほしくないし、恐がるような目にも遭ってほしくない」
エリゼオは周囲をぐるりと見回した後で、私の右手を取る。
その手を少しだけ上げて……騎士が忠誠を誓う仕草の途中で止まったかのような姿勢を取った。
「俺が男として守りたいのは、ジェイラだけだから。それは覚えてて」
「……守って、くださるのですか?」
「うん。守らせてほしい。それと、もしもその場にいなかったら、俺を呼んでほしい。今日みたいに恐い時は特に」
その言葉の裏側には泣いてもいいという彼の気持ちが込められているみたいで、目頭が熱くなる。
こんなにも、言葉でも態度でも私を不安にさせまいとしてくれるエリゼオに、私もちゃんと伝えなければと思った。
「あの……エリゼオ様、先程の騎士の方とのこと……」
「うん」
「過去に、あの方に迷惑をかけるようなことを、私がしてしまって。それで、謝罪をしたことがあるんです」
「うん」
「その後にも、色々あって……今日、あの方を見たら、その、過去に色々あったことを、思い出してしまって……先程は、あの方から何かされた訳ではないんです。むしろ、タオルを拾っていただいて、渡してもらったのに」
「うん」
「必要以上に、怯えてしまって……私が悪──」
「ジェイラ、それは違う」
悪かった、と言う言葉を遮られた。エリゼオは真剣な表情になって、私を見つめる。
「そのことが、トラウマになってんだろ? それなら、あんなふうに手首掴んで大声を出したダンさんが間違ってる。少なくとも俺はそう判断する」
「…………っ」
「特に騎士なんて、普段から体鍛えてんだから力勝負に敵うはずもない。そんな相手に対してのトラウマは、簡単に克服できるもんじゃないんだ。それを力づくでどうにかしようとするのはだめだ」
エリゼオに、優しく包みこまれる。
抱きしめるというよりも、誰からも見られないように私を隠してくれる腕の中で、私の呼吸は細かく震えていた。
「ジェイラは今日、トラウマがある相手に声を上げて、ちゃんと自分を守った。それってすげぇことなんだよ。そんだけすげぇことをしたんだから、自分ばっかり責めるな」
自分を守るため。それを、責めなくていい。
「恐いもんからは逃げてもいいし、助けを呼んでもいい。そんで、呼ぶなら俺を呼んで」
少しだけ強まった腕の力に、息ができなくなりそうだった。でもそれは、今までとは全く異なる理由だ。
助けてと呼んでいい。そんな存在が、ここにいる。信じられない。まさかそんな。これこそ本当に、夢みたいだ。
「俺が絶対にジェイラのとこに行くから」
温かな腕の中で視界が滲み、堪えることすらせず……
私の両目から、次々と涙が流れていく。
「偉そうなこと言うけど、今日は本当、めちゃくちゃ頑張ったな。恐い中で、自分の意思を口に出したのは本当にすげぇんだから。もっと自分を褒めとけ。ジェイラが声を上げてなかったら、俺もラフィクもジェイラに気づけなかったかもしれないんだし」
トントン、と優しく背中を叩かれて、嗚咽が漏れる。
その手がまるで、言ってもいいと促してくれているようで……
震える腕を上げて、エリゼオの胸元の服を掴んだ。
「……恐かっ……恐く、て、放して、ほし……助けてって……」
「うん。一人ですっげぇ頑張ったな。やっぱかっこいいわ、ジェイラは。でも次は、俺がいるから。絶対に一人にしない。ジェイラも一人になろうとしないで」
「はい……っ!」
約束な、と。また一つ、約束が増える。
「それが当たり前だって思えるようにするからな。そのうち、来るのが遅い! って怒るぐらいまでになってほしいけど」
「……ぜいたく」
「贅沢かぁ。ジェイラはもっと欲張りになんなきゃな」
それからしばらくしても、私は彼の腕の中にいた。
これが一番の贅沢だと思いながら、その温かさを堪能していた。
やっと落ち着いたので体を離すと、エリゼオは苦笑しながら私の目元を親指でなぞった。
「目の周りが赤くなっちゃったな。ごめんな。冷やすの持ってこようか?」
「いえ、厨房に、ありますから。ありがとうございます」
「それじゃあ、今日はゆっくり休んで、また明日会お」
「……はい。今日は、ありがとうございました。ラフィク様にもお礼をお伝えください」
「おう。そんじゃ、部屋に戻るか」
使用人棟の裏口までの道をエリゼオの半歩後ろをついて歩いた。すぐに到着してしまって、入口の前でエリゼオとはおわかれとなった。
エリゼオからまた明日な、と言われて、また明日、と返す。
……タオルを洗うのはそこそこにしてしまおう。ちゃんと眠るように言われたのに、それを守らない方が、自分の中では嫌なことになったから。
心配してくれて、認めてくれて……助けてくれた人の言うことを、ちゃんと聞く人間でありたかった。
騎士団の宿舎の方へと去っていくエリゼオの背中をこっそりと見送っていたら、ふいにエリゼオが振り返った。
エリゼオは私がいることが分かっていたかのようにちょっと笑って、中の方を指差す。早く入れ、ということだろう。
もう少し、見ていたいのに。
そんなことを考えた自分に気づき、一気に羞恥心が込み上げてきて、思わず手にしていたタオルを胸元で抱きしめる。
その行動の意味はエリゼオには伝わらなかったようで、彼はきょとんとした顔をした。
私は急ぎ一礼してドアをくぐろうとしたけれど、名残惜しくもまたエリゼオを振り返ったら、エリゼオは笑いながら手を振ってくれた。
その姿が……初めて彼と会った日の別れ際と重なった。
あの時との違いは、特別と、好きの違い。
好き。私はもう、エリゼオがいない世界で生きてはいけない。
だから、話したい。
全部。私の過去も。これからのことも。
部屋に戻った私は、お嬢様のタオルはさっと洗って、早々に寝る支度を整えた。
ベッドに横になって考えるのは、エリゼオのことだ。
どうやって伝えるか悩んでいたのが嘘みたいに。
今はもう、あるがまま、話してしまおうと思っていた。
お嬢様からの『好きになりなさい』という命令は、エリゼオを『好きになってもいい相手』という認識に変えた。お嬢様があんなことを言わなければ、私がエリゼオへの想いを明確な言葉にすることはなかった。
それこそ、憧れで終わらせていただろう。だってお嬢様が望む相手だ。憧れ以上の感情を持つなんて絶対に許されない。
けれど許されてしまったのだ。お嬢様直々に。
そして今日のことで、私の心の奥底に根付いている騎士への恐怖心も、彼がいるなら大丈夫だと思えるようになった。
逃げてもどうしても、エリゼオが助けてくれる。守ってくれる。
……私の中にはもう、お嬢様を主として敬う気持ちは失くなってしまっている。そうなったら余計に、私は早くエリゼオと話がしたい。
あなたが好きです、と告げて。
王都に帰るあなたを追いかけたい、と言ってしまいたかった。




