第三話 初めから全部、お嬢様のもの
それは、とても静かな呼びかけだった。
「料理長が君を探しているよ」
そんなはずはない、と言い返す気力すら私には残っていなかった。
「騒ぎを聞いて……お嬢様も大変心配されている。皆のところに戻ろう」
「……分かりました」
手を差し出されても、私がその手を掴むことはなかった。
騎士は怪訝そうな顔をしながらも手を下げたが、そこで私が足を怪我していることに気づいてしまった。
「君、怪我を──」
「大丈夫です。申し訳ありませんでした。戻ります」
門番にも、ご迷惑をおかけしてすみませんでした、と謝って私は歩きだした。
ここに来るまでは見つからないように細道や植木の間などを通ったから、服は汚れていたし、傷口も痛んだけれど。騎士に手を引かれて歩くより、よっぽどマシだと思った。
だってこの人は、料理長とお嬢様に言われて来ただけだ。私が心配だから来たのではなく、お嬢様が心配している私を、探しにきただけだ。
涙はその時に枯れたかのように引っ込んだ。やけに冴えた視界が、朝日に照らされて眩しかった。
一人歩く私の後ろから、静かに騎士もついてくる。
戻ったら、またひどく怒られるんだろうな。いやさすがにもう、怒られることすらしないかも。放っておいてはくれないかな。問題児だからと部屋に閉じ込められた方が、ずっとずっと幸せのように思えた。
私のこれからの人生、お先真っ暗だ。お金もないし、逃げ道もない。
ズキズキと痛む足が気になって、途中の水道でざっと足を洗い流した。服はどこも汚れてしまっていたから、上着を一枚脱いで裏返し、傷口は避けて水を拭った。そしてまた服を着直して歩く。
「ちょっと待って!」
騎士からお声がかかってしまった。時間を使いすぎただろうか。勝手なことをするなと怒られるだろうか。
「化膿したらいけない。私のもので申し訳ないが、まだ使っていないから、これで拭くといい」
言いながら騎士が差し出してきたのは、真っ白なハンカチだ。そこには見覚えのある、辺境伯家の家紋の刺繡が入っている。未だに定期的に縫わされているそれは、お嬢様から騎士たちへの贈り物。
最初こそ慣れずに夜までかかってしまっていたが、量をこなせば腕も上がる。まだ二年だというのに、今はさくさく縫い進められるようになった。騎士のハンカチの刺繍の歪さを見るに、去年のものだろうと思う。
「……けっこうです。血がついたらなかなか汚れが取れませんし、新しいものを用意するお金がありませんから、お借りできません」
「新しいものは必要ない。怪我をしているのだから遠慮など──」
「お嬢様をお待たせしては、怒られますから。それに、騎士様の手は煩わせるなと……料理長から言われておりますので、ハンカチを借りることはできません」
「ジェイラ……」
「もう、怒られたくないんです。ですから、いりません。お気遣いいただき、ありがとうございました」
きっぱりと言って、私はまた歩き出した。騎士はまだ何か言おうとしていたが、私が聞く耳を持たないと思ったのか、黙ってまたついてきた。
早歩きで進めば、思いの外、すぐに使用人棟へと帰ってきた。
使用人棟の前には、料理長と使用人達と、ルシールお嬢様と数人の騎士。
「ジェイラ!」
お嬢様は私の姿を見るなり、こちらへと駆けてくる。
「もう! どれだけ皆を心配させるのよ!」
その言葉とともに、私の前まで来たお嬢様は、なぜか、私の左頬に平手打ちをしてきた。
パンッという音が料理長より軽く、料理長より痛くないことを教えてくれた。しかし今日だけで計二発。こんな日もあるんだな、と思った。
お嬢様は叩いた手を自分で握りしめるようにして、瞳いっぱいに涙を溜めていた。何であなたが泣くのかと訊きたいが、それはだめだということも、ちゃんと分かっていた。
「どこに行こうとしていたの!? ジェイラがいなくなったら、私は悲しいわ!」
そう言って今度は抱きしめられた。
お嬢様の後ろにいた料理長と使用人達は、私と目線を合わせず俯いている。そして騎士達は、どこか温かい眼差しでこちらを見ていて……吐き気がした。
お嬢様は私を抱きしめながら泣いた後、そっと体を離して、私に向かってはっきりと告げた。
「ジェイラは、これからもずっと、私のそばにいなきゃだめよ。ジェイラがいなくちゃ、私は寂しくて毎日泣いてしまうわ」
これはもはや、私にとって奴隷宣告と同じだった。
一方で、問題児を受け入れる心優しきお嬢様の誕生の場面となった。
もしかしたら使用人の中には、何か思うところがあった人もいるかもしれないが、それが私に届かないのだから、この先には閉ざされた道しかなかった。
諦めよう、と思った。
私の話をなぜ信じてくれないの、と思うから虚しくなる。
私が努力したのになぜ認めてくれないの、と思うから悔しくなる。
私はなぜ祖父母の家に帰れないの、と思うから悲しくなる。
私を主体におくから、いけないのだ。
初めから全部、お嬢様のものだった。
私が成し遂げたことであろうと、寝ずにやったことであろうと。時間もお金もかけてやっても、どれだけ身を削っても。
全部全部、お嬢様のものになるんだ。
それならばもう……私を、諦めてしまえばいいんだ。
「……ふふふ」
「ジェイラ?」
「あははははは!」
どうしてこんな簡単なことに、今まで気づかなかったのだろう。
諦めてしまえば、楽になるじゃないか!
必死になって自分は悪くないと訴えていた過去の自分がおかしくなった。
おかしくておかしくて。滑稽で愚かだ。
何を期待していたんだろう。何を望んでいたんだろう。
誰も私なんか見てはいない。気にしてもいない。
この世界はお嬢様を中心に回る。私はそれを滑らかに回すだけの役割なのに。意志を持つなど、必要なかったのだ。
そう思うと、心の底からおかしくなった。
だから笑った。声を出して。ここに来てから、こんなに大声で笑ったのは初めてだった。
初めてで、これが最後だ。もうこの先、ここにいて、笑えることなんてない。望むことすらしたくない。
楽しいも嬉しいも、全部全部、捨ててしまえ! 笑い声とともに失くなってしまえ!
そうしたら、もっとずっと、私は楽になれる!
皆が私を色々な視線で見てきた。父だった人は悲痛な面持ちだった。洗濯女中は怯えていた。騎士は困惑していた。お嬢様は戸惑っていた。それらすべてが、どうでも良くなった。
「ははは! はは……ふふ……ルシールお嬢様」
「ジェ、ジェイラ……大丈夫?」
「はい。いきなり笑って申し訳ございませんでした。ご迷惑とご心配をおかけしたことも。朝からお騒がせして大変申し訳ございません」
「いいのよ。ジェイラが無事なら」
無事?
無事とは、肉体があるかどうか、というところだろうか。
それなら無事だ。少し傷ついたけれど。なんてことはない。
「これからは更に精進して参ります。至らぬ点ばかりの私ですが、よろしくお願いいたします」
お嬢様から数歩後ろに下がり、礼をした。
「……ええ、嬉しいわ、ジェイラ。これからもよろしくね」
お嬢様からの返答を受け、たっぷり十秒ぐらいしてから顔を上げた。
自分を諦めたら、世界は楽しくないが、ずっとずっと楽になった。