第一話 お嬢様と私の当たり前
新作です。
前半の方は主人公が辛い、悲しい、痛い思いをする場面があります。
苦手な方はご注意ください。
私が仕えるお嬢様は、誰からも愛される見目麗しいご令嬢だ。
そのお方は、国の最東端に位置するザックガード辺境伯令嬢、ルシール・ザックガードお嬢様。
お嬢様の容姿は、通り過ぎる誰もが二度見三度見し、分かりやすい人ならば足を止め、振り返ってその背を追ってしまうぐらいに可愛らしい。
ぱっちりとした二重のヘーゼルアイに、スッと通った鼻筋とぷっくりとした薄紅色の唇。白くきめ細かい肌に、ハニーブラウンのふわふわとした腰まで伸びる柔らかな髪。
全体的に色素が薄く、小柄な体。声まで高く澄んで、その笑い声は皆の癒やしとなっている。
幼い頃から可愛らしいお嬢様は、成長すればするほど美しさまで兼ね備え、周囲の人々を魅了してやまない。
辺境伯邸にはザックガード辺境伯騎士団があり、騎士は全員、男性である。そんな中、まるで天使のように愛らしいお嬢様は、彼らにとっては何においても守らなければならない存在だ。
また辺境伯邸には使用人の女性も多いが、その天性の愛らしさと愛嬌の良さで女性であろうとお嬢様の虜となっていた。
そして辺境という土地柄なのか、騎士も使用人も、志望してやってくるのは大体が家族か親族が辺境伯邸で働いていたり、領地にいたりする場合が多かった。
親から子へ。子から孫へ。兄弟へ。従兄弟へ。友人へ……
そんな感じで、騎士も使用人も、旦那様やお嬢様に対する忠誠心や情報は引き継がれているような印象だった。
そんなお嬢様にお仕えする私──ジェイラはというと。
父が辺境伯邸で料理長を務めている縁で、お嬢様の専属侍女として働いている、お嬢様と同い年の平民だ。
少し目尻の上がっている目は、平民では一般的な茶色の瞳である。お嬢様のようにふわふわとした髪ではなく、真っ直ぐに肩甲骨まで伸びたブラウンのストレートヘア。
見るからに平民と分かる見た目の人となりをしている。
私が物心ついた時には、私の生活の中には父も母もいなかった。
父はずっと辺境伯邸に住み込みで働いていて、母とは私の出産後すぐに別れたと聞いていた。父があまりにも帰ってこないことに嫌気が差して出ていったのだそう。
なので私は辺境伯領とは大きな川を挟んで隣の領地にある父方の祖父母の家で、祖父母と三人で暮らしており、父とは年に三回も会うか会わないか、ぐらいの交流だった。
だから私にとって両親がいないことは普通だったし、いつも祖父母が一緒にいてくれたから、両親がいなくても寂しくはなかった。
私に生きていくために必要なことを教えてくれたのは祖父母だ。二人は叱る時はちゃんと叱るし、褒める時は抱きしめて褒めてくれた。
二人の教えで、私は早くから自分のことは自分でできるようになった。父も母も近くにいない私を思って、いつどうなっても困らないようにと身の回りはもちろん、家事全般の基礎もしっかりと教えこんでくれたのだ。
そんな祖父母が大好きで、将来は二人に少しでも楽をしてもらいたいからちゃんと働かないと、と子供ながらに思っていた。
それがある日突然、私が七歳の時に父に連行されるかのように辺境伯邸へと連れて行かれ、お嬢様と引き合わされた。
その日私は、お嬢様の専属侍女見習いとして、お嬢様と初のご対面となったのだ。
当時、すっごく可愛い少女が目の前に現れて、思わず圧倒されたのを鮮明に覚えている。
ただこの時、私はお嬢様の侍女になるつもりは一切なく、これから父とともにこの邸で暮らすということも知らなかった。何も聞かされずにその場にいたので、右も左も分からない状態で大人たちだけで進んでいく会話についていけず……
専属侍女見習いも住み込みも、すべて私の意思には関係なく、決定事項となっていた。
一方、お嬢様は私の家庭事情と今後を説明されているようだった。
子供同士で簡単な挨拶を交わした後、お嬢様は私にこう言ったのである。
「よろしくね、ジェイラ。ジェイラはお母さんのいない可哀想な子だから、私が姉代わりになって遊んであげるわ」
可哀想。その言葉を自身に向けられたのは初めてだった。
「可哀想? 悲しくなんかないよ。おじいちゃんもおばあちゃんもいて、毎日がとても楽しいから」
それは違うと思って言い返せば、父から、その口のきき方は何だ、と怒られた。しかし私も、可哀想な子供ではないのだから否定したまでのこと。
謝るつもりなどなかったのだけど……
父が私の頭を上から押さえ、無理矢理に頭を下げさせられた。
「お嬢様、申し訳ございません。祖父母に甘やかされて育ったためか、このように生意気なことを言うようになってしまって……」
「いいのよ、気にしていないわ」
「ありがとうございます。いいか、ジェイラ。お前は今日からお嬢様の言うことをよく聞いて、お嬢様にご迷惑をおかけすることがないようにしなさい」
納得はいってなかったけれど、父から怒られたくなくて私は口を噤んだ。
父はそれでも怖い顔をしていて、お嬢様は満足そうに笑っていた。
こうして始まった、私の侍女見習いの生活。
私はこの日から、何があってもお嬢様に付き従わなければならない立場となった。
この生活が始まってすぐ、私が感じたのはお嬢様に対する周囲との認識の差だ。
お嬢様はあまりにも、この土地で圧倒的かつ絶対的だった。
それは恐らく、お嬢様が待望のご息女だというところも大きかっただろう。
旦那様は再婚で、前の奥様とは死別だったそうだ。
前奥様とは幼い頃からの婚約者で、お互いに愛し合っての結婚だった。結婚してから一年で跡継ぎとなる御子も身籠り、それはそれは理想的な当主夫妻として領民からも慕われていた。
けれど、出産予定の一月程前に前奥様が体調を崩された。当初は軽い風邪だと思われていたが、容態が急変し、前奥様もお腹の中の子も危険な状態となった。
旦那様は医師を呼び寄せ、あらゆる手を尽くし、どうにか二人の命を繋ぎ止めようとしたけれど……無情にも二人は儚くなってしまわれたのである。
深く傷ついた旦那様は、それから再婚を望まなかった。
しかし歴史ある辺境伯に跡継ぎがいないことは許されることではなく……当主交代の話まで出たほど、だったそうだ。
そんな中で、旦那様を献身的に支え、励ましたのが今の奥様だ。
奥様は、元は子爵家の出身で、この邸で侍女として働いていたらしい。奥様の働きかけで、使用人一同が旦那様を奮起させるべく動いた結果、旦那様は前奥様達が亡くなられてから五年後に、奥様との結婚を決めたという。
そして再婚から二年程で、奥様がお嬢様を身籠られた。
この頃にはしっかりと立ち直られた旦那様は、奥様をとても大切にされ、お嬢様の誕生を心待ちにされたそうだ。もちろんそれは領民も、だった。
そうしてお嬢様が無事にお生まれになった日……
旦那様は涙ながらに奥様にお礼を言って二人を抱きしめた、というのは辺境伯領地では有名な話である。
そういった経緯もあって、お嬢様は待望の跡継ぎであり、辺境伯領の明るい未来の象徴でもあった。
旦那様も奥様も、もちろん使用人も領民も、皆がお嬢様を愛し、大切にすることは当然のこととなった。
けれども、その当然がもたらしたものは、私にとって決して明るいだけの未来ではなかった。
まず驚いたのは、誰もお嬢様を怒らないことだ。普通だったら叱られるだろうことも、お嬢様が涙目になって謝れば、叱る側の人間がお嬢様に謝ることになる。
それは私にとって、おかしな光景だったけれど。誰もそのことをおかしいとは思っていなくて、子供ながらに混乱していた。
しかし、皆が言うのだ。
お嬢様は悪くない、と。
お嬢様はどんな時でも皆から褒められ、敬われ、尊重された。
それがこの土地の、常識。
外から来た私は常識知らず、だったのである。
そんな周囲との違いに戸惑う中でも、お嬢様から一緒に遊ぼう、と誘われると嬉しい気持ちもあった。
遊ぶ時はお嬢様がやりたいと言ったことをやった。私が何をしたいか、などは聞かれなかったし、父からもお嬢様に合わせなさいと言われていたから逆らうことはしなかった。
それでも確かに、楽しい時間はあった。
お嬢様は色々なことを知っていたし、お嬢様と遊んでいたら大人達から微笑まれて、正しいことをしているんだという気持ちになった。
けれど……私が辺境伯邸に慣れてきた頃から、お嬢様は無邪気に笑っていながらも、私にとって酷なことを要求するようになってきた。今までとは違う。新たな遊びを見出したような、そんな感じだった。
「ねぇ、あのお花綺麗ね、取ってきて。庭師もいないし、手でちぎっても大丈夫よ」
その花には棘がびっしりついていて、棘に刺されながらちぎったことで、茎が折れ、お嬢様からはこんなに汚いのはいらないと言われた。その日のうちに、傷だらけの手から花を手折ったことが私だと分かり、庭師と父からこっぴどく怒られた。
お嬢様は大人二人に、私がちゃんと見ていなかったからごめんなさい、と謝っただけで、私をかばってはくれなかった。
「ねぇ、見て。水面がとっても綺麗。水を掬ったら冷たくて気持ち良さそうだわ」
滑りやすいから庭の池にはあまり近づかないようにと言われていたが、お嬢様は池の水を触りたがった。大人達から止められていたので私は行かないでとお願いしたが、聞き入れられることはなく。
しかも水面を覗き込もうとして足を滑らせ、あわや落ちかけたお嬢様を必死に引っ張って体を入れ替えるようにし、私が池に落ちることで事なきを得た。私は自力で這い上がったもののびしょ濡れになり、その後に二日間ほど熱を出した。
池に勝手に飛び込んだ上、熱まで出すとは何を考えているんだ! と父に怒られた。
私に投げられて尻もちをついたお嬢様のドレスが汚れたことを、使用人からしばらく文句を言われた。
お嬢様は、お気に入りのドレスじゃなくて良かったわ、と笑っただけで、どうしてそうなったのかを周囲に説明はしてくれなかった。
「私にはこのドレスのデザインはいまいちだと思うの。ちょっと裾あたりを縫い直してちょうだい」
新しいドレスに対し、渡された裁縫道具とハサミで懸命に言われた通りのデザインを縫った。後日、私が直したドレスを見た奥様と仕立て屋さんからとんでもなく怒られた。
あのデザインは、奥様が何日もかけてお嬢様のために考えたデザインだったそうだ。奥様は寝込むほどにショックを受けており、その日以降、奥様は私を視界に入れなくなった。
お嬢様は、裾部分を持ってしくしくと泣く奥様の背中を摩り、私はとっても素敵なデザインだと思っていたわ。お母様の愛情いっぱいのドレスだもの。どんなデザインだって最高の一着よ、と奥様を励ましていた。
当然、父からもものすごく怒られた。ドレスは弁償にもなりかけたが、それはお嬢様が子供のしたことだから許してあげて、と周りをなだめて免除された。しばらくお小遣いはなしとなった。
そして元侍女だった奥様をこれほどまでに落ち込ませたことで、昔から奥様を知っていた使用人達からはこぞって嫌われた。私が何か尋ねたりしても、答えてくれる人は限られてしまうようになった。
「窓を開けたらハンカチが飛んでいってしまったわ。木に引っかかってしまったみたいなの。ジェイラ、取ってきて」
風の強い日に、風になびくハンカチ見たさに飛ばしたら取れなくなったらしい。慣れない木登りをして、全身汚れながらたどり着いた先。ハンカチはどうにか取れたのだが、恐くて木の上から降りられなくなった。泣きながらお嬢様に助けを求めると、お嬢様は騎士を連れてきて、その騎士に助けてもらえた。
騎士からは、降りられないのなら木登りはしないように、と注意を受けた。お嬢様は、私が止めればよかったのよね、ごめんなさい、と騎士に謝る。すると騎士は慌てるようにしながら、お嬢様は悪くありませんよ、と言った。
父には、騎士の仕事の邪魔をしたと怒られ、助けてくれた騎士に二人で夜にお詫びに行った。騎士は怪我をすると危ないからね、ということと、お嬢様に心配をかけてはいけないよ、と言った。一つ目の忠告にだけ頷いた私は、また父から説教をされた。
お嬢様に心配をかけ、ドレスを汚し、あろうことか奥様が考えたドレスまでぐちゃぐちゃにして。自身は勝手に池に落ちて熱を出し、服を汚し、手を煩わせる。
傍から見たら私はそう見えていて、こんなことが続くと問題児扱いされるようになった。
父が周りに謝りに謝るものだから、余計にその印象が強くなったのもあるのだろう。
そうなると、周囲からの扱いは雑になっていった。
使用人の中には洗濯女中もいて、使用人や騎士の分も洗濯を引き受けてくれるのだが、私の場合、汚れたのは自業自得なのだから自分で洗いなさい、と言われ、自分の分は自分で洗濯するようになった。
なるべく早く終わらせてね、とお嬢様に言われて任された針仕事で、大量のハンカチに辺境伯家の家紋を刺繍していくものがあった。それを何とか終わらせられたのは、夜になってからだったが、私の食事は残されていなかった。廃棄寸前のパンを見つけてこっそりと食べた。
ここまで散々な目に遭っていたら、私だって自分は悪くないと訴える。というより、毎回、訴えてはいたのだ。
しかし一度だってまともに取り合ってもらえたことがなかった。
お嬢様に言われてやったと言えば、やって良いことか悪いことか判断するのは自分なのだから、お嬢様のせいにするな、と言われた。
それならばお嬢様からの命令を拒否すれば、お嬢様が泣き、お嬢様を泣かせるようなことはするな、と言われる。
従おうが従うまいが、悪者は私になる。私からすれば、苦痛しかない日々はどんどんと憂鬱になり、起きることすら嫌になっていた。
そして、私に限界が訪れ、涙ながらに祖父母の元へ帰してほしいと父に頼んだ。しかし祖父母も高齢になる中でお前のような問題児を預けて倒れられてはいけないと、父は話すら聞いてくれなくなった。
何度も出ていくことを考えたし、何度も暴れてやろうかと思った。
でもここは辺境伯邸。
屈強な騎士がたくさんいる。
逃げようがどうしようが、彼らに取り押さえられて叱られて……と考えると、体が竦んでしまってどうにもできなかった。
絶望と失望とだけはたくさんあって。喜びも楽しみもなくなった生活は苦でしかなかったけど……人間はどんどん慣れていくし、できることも増えて、能力だって上がる。
要はその環境に適応するのだ。
日中、お嬢様の命令は聞けるだけ聞き、時間が遅くなれば食事はさっさと諦めて、余ったものをつまみ食いするか、簡単なものを自分で作るようになった。一人で食べる食事は思いの外、気が楽だった。
洗濯は子供の服だけなら早いものだ。掃除は父と二人部屋だったので大体はやってもらえるし、私自身そんなに汚すタイプの人間でもないのでどうにかなった。
人間、慣れるって大事だな、と思ったし、ここまで身の回りのことができたのは、すべて祖父母が基礎的なところを教えこんでくれたおかげだった。二人には、感謝しない日はなかったと思う。
この頃には父から少しのお小遣いをもらうようになっていたので、それをたくさん貯めて、祖父母に何か恩返しの品を贈りたいな、と密かに考えたりもしていた。
……その贈り物を想像する度に、祖父母の元に帰りたいな、と思う毎日だった。