幕間5
――きっかけは、その人の笑った顔を見たからだった。
私、華彩 日和が中学3年になり、まだ志望校を絞りきれていない頃。
『ねぇ、こんな学校があるだけど』
仲の良い友達の1人が、その高校を教えてくれた。
伊吹乃学園。
全寮制の高校で、総合学科。
県内にあるけど、地元から遠く離れた学校に軽く興味は覚えても。
自宅からの通学を考えていた私は、正直そこに行くという選択を選ぶ気にはなれなかった。
けれど、私と違いそこに行く気満々だった友人は――
『日和も一回、行ってみようよ』
――そうやって、私をその学校の体験入学に誘う。
その学校に進学する気は無かったが、体験入学だけならと申し込みをして。
体験入学当日を迎え、友人と一緒にその学校へと向かった。
到底歩いていける距離でもなく、通常の交通機関では半日以上消費してしまうため、私も友達も、それぞれのお父さんに頼んで車で連れて行ってもらう。
目的地に着いた時にに思ったのが、「こんな所に本当に学校があるんだ」と言う事。
周りは山に囲まれ、スーパーどころかコンビにも近くになくて、お家もぽつりぽつりと並び、畑や田んぼが多い、そんな場所。
でも、そんな場所に立つ学校は、山の中の学校とは思えないほどしっかりしていた。
生徒数が少ないため、そこまで大きな学校ではなかったけれど、でも何年も前に改築していたという話の通り、校舎はそれなりに綺麗だな、というのが私の感想。
それでも、自宅から遠く離れたこの場所に、入学したいとは思えなかったけれど。
学校に到着して、受付を済ませた私達は、体育館に集められ、この学校がどんなふうに教育を行って、生徒達はどんな風に学び、生活しているか、と言う事を校長先生から説明を受けた。
その後、校内を軽く案内をしてもらい、今度は学校の敷地内にある学生寮へと移動。
そこでは寮生活の説明を受けてから、学生達の食事を体験と言う事で、昼食を寮の食堂でとる事になった。
食事の最中、ずっと目をきらきらさせて「私、絶対にここに入学する」と話をする友達に、軽く相槌を打ちつつ、「私は、いいかな」なんて言葉を返す。
友達も、私を誘いはしたけど、強要するつもりもないらいく「そっかぁ、残念」と言った後は「でもせっかくきたんだし、今日は楽しもう」と笑ったので、その言葉に私は頷いた。
食事を終えた私達が次に体験するのは、この学校の最大の売りである『総合学科』の体験授業。
普通科と違い、専門的なモノを学ぶために【国際交流系列】【総合スポーツ系列】【美術工芸系列】【介護福祉系列】【環境技術系列】の五つの中から一つ、選択して、それぞれの系列が行っている授業を体験するといったモノ。
その中で私が選んだのは【美術工芸系列】
選んだ理由は単純で、他の物に興味が持てなかったからだ。
人並み以上に勉強ができたけど、英語が別に好きでもないし、国際交流と言われてもいまいちピンとこない。
運動が得意ではないから、そういった系統を選ぶ気にはなれず。
環境や、福祉については、もはや私にとって専門的すぎてよくわからない。
だから、まだ身近に触れている”美術”という単語で,私はその系列の体験を選んだ。
体験入学生である私達は、選んだ系列毎に班を分けられ、各々の担当先生の案内の下、受ける専攻の授業行われる教室へと案内される。
ちなみに一緒に来た友達は、福祉系列を選んだため、ここからは一旦別行動となった。
今回体験を受けるために、美術室まで案内される途中で、美術工芸系列で学んでいる先輩方の作品が、いくつも展示されていた。
みんな上手い。
正直、専門的な知識も技術ももち合わせていない私に、作品の細かな良し悪しがわからない。
でも、そんな私から見ても、どれも上手くて凄いと思える物ばかり。
中には全く理解できないものもあったけど、「芸術とはそう言うモノ」だと思い、深く考えるせず、歩き続けて行く。
そうやって考えている中で、辿り着いた美術室は、いくつもあるうちの一つらしく、私の中学にある美術室を一回り小さくしたような場所だった。
今回そこで体験授業を行う。
体験するのは、たまに美術の時間にも時々行う”クロッキー”と呼ばれるもの。
モデルとなる生徒を一人選んで、短時間でその人物像をスケッチするといったモノだった。
今回体験で来ている事もあり、モデルは私達ではなく、先生の手伝いとして参加しているを先輩方の中から選ぶそうだ。
私は、この授業を担当している夢野先生の周りにいる、数人の男女に視線を向ける。
私服OKとなっているらしいこの学校だが、今日は体験入学のために、この学園の制服――薄い紺色を基調としたブレザーに、チェックが入ったズボンたとなっているものを着用していた
『なあ、お前やってみる?』
『マジで勘弁してくれませんか? 手伝いはする、と言いましたけど、人ごみ苦手な俺に、この人数の前で、しばらくの間立っていろ、と?』
『そのまま立つのが嫌だったら、カッコいいポーズを決めて貰ってもOKだぞ?』
『そういう事を言ってるんじゃなくて……ってか、マジで言っているんだったら……帰りますよ?』
『わかったわかった。冗談だよ、冗談。正直手伝いは助かってるしな。今帰られてら困る。じゃあ平坂、お前は? ああ、まぁ、お前は頼んでも嫌がらないよな』
『モチー、大丈夫でーす』
『OK。――ということで、体験入学生の諸君。今回のモデルはこのお姉さんに決まったから、よろしくな』
『平坂 珠美で~す。タマちゃんって呼んでい~よ~。 よろしくね~』
平坂先輩ははとてもフレンドリーな人らしく、挨拶しならが「にゃはは~」と笑いながら手を振ってくれ、私達は椅子に座ったまま「よろしくお願いします」軽く頭を下げた。
なんか楽しそうな人だな、
そう思う反面、私はもう1人の男の先輩に目を向ける。
手伝い、と言っていたその人は、先生の周りで指示されたことをきちんと行う割りに、とてもぶっきらぼうな人だった。
表情にあまり変化がなく、先生が声をかけても、短く返事をするだけ。
目が悪いのか、若干目が釣り上がっており、ぶっきらぼうな表情と相まって、ちょっと怖い印象だった。
しかも、平均より身長が高く、印象としては美術とかよりもスポーツをやっていそうな雰囲気がある。
――選ぶ系列、間違えてませんか?
思わずそんな事を思った時に、軽く辺りを見回していたその人と、偶然目が合う。
何だか心を読まれてしまったのでは、と錯覚してしまい咄嗟に目を逸らす私。
勿論、心を読まれるなん事もあるはずも無く、
その人は「次は何したらいいですか?」と先生に声をかけ「うーんそうだな……今は特に無いから、クロッキーやっている時に、見て回って必要だと思ったら、アドバイスでもしてやってくれ」という先生の言葉に「わかりました」といって教室の隅へと移動していた。
どことなく、居心地の悪さを感じてしまい、別の系列に参加したほうがよかったかも。なんて思いっている間に、モデル担当の平坂先輩ががテーブルに上り、用意されていた椅子に座り、先生が「じゃあ、スタート」と合図をして、授業が開始されてしまう。
不安の気持ちを振り払うように、私は用意されたA4サイズの用紙に、鉛筆を手に取って、絵を描き始めた。
途端に室内は静かになって、鉛筆を走らせる音だけが響く。
時折、先生にアドバイスを求めて声が上がり、それを受けて先生がアドバイスするやり取り何度も私の耳に届いた。
そんな状態の中、一生懸命に絵を描いていた私だったが。
『……っ』
ど、どうしよう。
ちゃんと描かなきゃいけない、と思っても、上手くいかず。
駄目だと思う部分を直しても、良くなる所か、さらに悪くなっているような気がする。
美術に馴染みがあると言っても、別に得意なわけでもなく。
ただ何となくで選んだ今回の体験授業。
ちらり、と隣の人の絵を覗いて見ると、私なんかよりも全然上手くて。
確か、絵が出来た後は、その絵をみんなの前に並べて、総評するとか言っていたような……
――そこまで考えて、頭が真っ白になって、一気に泣きそうになる。
他の人の絵はどうなっているかわからないけど、5つある系列の中から、この授業を選んだ人達だ。
だからきっと、みんな私よりずっと上手くて。
そしてそんな人たちの前で、私の絵も並べられる?
その事実に一気に泣きそうになる私。
――ど、どうしようっ。
何となくで、この授業を選んだ事を、本気で後悔しかけてきた時だった。
『なあ、大丈夫か?』
怖いと思っていたその人が、私に声をかけてきたのは。
『えっ?』
『いや、何か、描きにくそうにしているから……どうしたのかと思って』
振り返り、少し見上げてみれば、さっきまでぶっきらぼうにしていた人が、この時始めて表情を変えて、心配するように私を見ていた。
途方に暮れていた私は、その声に何だか感情がこみ上げてきてしまい。思わず助けを求めるように答えてしまう。
『上手く、描こうとして……でも、上手くいかなくて、どうしたらよくなるのか、それがわからなくて……』
私がそう言うと、どれどれと私の絵を覗き込む。
笑われちゃう、と咄嗟に絵を隠しそうになったが、先輩は笑う事なんて全く無くて、むしろ真剣に私の絵を見て、考え込んでいるようだった。
その真剣な表情に、伸ばしかけていた手を引っ込める。
少しの間時間が経ったあと、言葉を選ぶように、ゆっくり先輩は言った。
『……ここを、こうしたらいい、とか。そんな風に言うのは簡単なんだけど。どうせだったら、楽しく描いた方がいいと思うから、技術云々の話は抜きにして、ちょっとしたアドバイスをしようか』
そう前置きを置いて、先輩は私の絵を見て、ある部分を指差した。
『まず、この絵良い所は、服とか、指とか、一部の描写が細かくて、しっかり把握できている所。クロッキーでここまで描ければ十分。だからそこに関してどうこうは言わない。問題は――他の所だ』
今度は、別の部分を示す。
『――良い部分に対して、他の所は、”見て描いている”というより、それに合わせて『こうだ』っていう”思い込み”で描いているような気がする。だから全体のバランスが崩れて、良い部分まで”駄目な部分に”映って、全体的に良くない出来になっているような、そんな気がするんじゃないか?』
『そう……なんでしょうか?』
『多分な。っで、ここをこう直したら良くなる、なんてことを言い出すと、今度はそこだけ気にして描いて、他の部分のバランスが悪くなるって事になりかねないから、言える事は一つ。”視点”を変える』
そう言いながら、先輩は両手の親指と人差し指を伸ばして、四角の形を作って私に見せた。
『やってみ?』
『え、えとこうですか?』
それはたまに、ドラマとかで絵を描くときにやる仕草だ。
私は言われた通りに、自分の手で四角を作りその人に見せると、先輩は『そうそう」頷いて、自分の位置からその四角の枠にモデル平坂先輩に向けた。
それを見て、私もその人に習うように。自分で作った四角に、モデル全体が映り込むようにする。
『これを、常に意識するんだけど……さすがにこれだけじゃわからないだろうから、さっきまでの君の絵の描き方の視点を見せようか』
そうやって先輩はちょいちょいと自分の隣に来るように手招きして、自分の両手で作った枠からモデルをしている平坂を見るように促してきた。
隣に移動した、覗いてみると、そこに映っていたのは――
『――手だけ、ですね』
『だろう? これでは全体像がわからない。だから次に君がしたのは――』
そうやって手の位置から、腕の位置が見えるように移動させる。
『――腕、ですね』
『うん。こうやって、描くたびに視点を切り替えて、その部分をいちいち観察し直して、そしてバランスが悪くなったら『ここが悪い』と思って。実際がどうかの確認をせずに描いたら、さっきみたいな絵になると思わないか?』
先輩は机に置かれた画用紙から、一枚取り出して、さらさらとではあるが、人物を描いていく。
そして出来上がったのは素人の私から見ても、全体的にバランスの悪い物だった。
『――だから、この手で作った枠に人物の全体を写して。そしてそれをそのまま画用紙に描いて行けば、バランスが悪くなるっていうのは、ある程度回避できるんだ』
そうやって今度は用紙の裏側に、簡単に頭、体、腕、足と何となく人型の形をしているものを描いていって私に見せてくれた。
さっきと違い、細かい描写の無いそれは、目の前のモデルの特徴がまったくないものの、ちゃんとモデルと同じポーズをとっており、またバランスがしっかりしているように見えた。
『簡単な事だけど、これをするのと、しないとで、大分変わってくる。一つ一つを細かく描く事も大事だけど、その前に、こうやって全体のバランスを意識して描いてみるといい』
そう言いがら、今まで描いていた画用紙を退かして、新しい白紙の画用紙を渡してくれる。
『折角の体験だし、時間もまだまだあるから、試しにやってみな?』
そう言われて、画用紙を受け取った私は、言われた通りに全体を意識しながら、時に両手で四角を作って、自分が描いているモノと比較しつつ絵を描いていく。
『最初から細かく描くんじゃなくて、全体がある程度出来上がったら、細かく描いていく――うん、そうそう、いい感じ』
後ろから覗き込んで、時折アドバイスをもらいながら、真剣に絵を続ける。
そして。
『で、できましたっ!』
時間内に描き上げた人絵を見て、驚く。
今まで、何度か絵を描いた事はある。
その中でも今描いた絵が一番上手くかけた。
限られた時間で、色を塗ることもできなかった白黒のそれは、絵と言っていいのかわからなかったけど。
私にとっては、十分立派な絵だった。
『おっ? 随分良くなってるじゃん。良かったな』
一枚目のように、事細かく描写することはできなかったけど、でも変に足が長いとか、服のバランスが可笑しいとか、左右で服の形が可笑しいとかは全くなく。
ちゃんとしたものが、描けたと思う。
その事に喜んで、ずっとアドバイスをしてくれた先輩を見れば。
最初に見たときのような、ぶっきらぼうな顔では全く無くて。
まるで、私がちゃんと描けた事を、心から喜んでくれている。
それが伝わるような優しい笑みを浮かべていた。
そんな顔もするんだ……と思って見ていた私は。
『俺の顔になんかついてる?』
凝視されたことが気になったのだろう、そう言って首を傾げる先輩に。
『い、いえっ、そんなことないです。ただ……えっと、ありがとうございましたっ』
あわあわと両手を振って、先輩にお礼を言った。
――どうしよう、変な子だと思われてないかな。
そんな心配をする私に先輩は「別に大した事はしてないけど」と、先ほどと同じように首を傾げ。
『ただ、まあ結果的に力になれたのなら、よかったと思うけど。あのさ……』
『はっはい』
『楽しかったか?』
そう聞かれて、先ほどまでの事を思い返し頷いて見せる。
『なら、今回の事は、俺にしては良くやった、かな』
その言葉と共に、先ほどと同じように笑う先輩を見て。
胸の鼓動の高鳴りと、顔が赤くなるのを自覚した。
そんな私に先輩が、体調が悪いのかと心配してくれたが。
言えないっ。
今、あなたの笑顔を見て、ときめきましたっ。
なんて、恥ずかしくて言えるわけがないっ。
心配する先輩に、大丈夫です。
何も心配なんてしなくていいですっ。
そう言って、その場をごまかし、乗り切った。
全員の絵が完成して、講評の時間。
みんなと一緒に並べられた私の絵。
他の絵はやっぱりみんな上手くて。それより見劣りするかもしれないが。
でも最初思っていた時よりも、不思議と悪い気がしなかった。
特別に良い評価も貰えたわけでもないけど、でもきちんと描けていると思った私の絵に。
『へー、全体のバランスがしっかりとれているな』
そう言ってくれた先生の言葉が、少し誇らしく思えた。
体験授業終わり。ほかの体験授業を受けた友達と合流した。
親の迎え待つ間、友達は自分が体験した内容を語り。
『楽しかったっ!』
満足げに頷いた後で、「日和の方はどうだった?」と尋ねられたので「うん、楽しかったよ」返事をする。
そして。
『――私もこの学校にしようかな、って思う』
唐突私の言葉に、友達は凄く驚いた顔をして。
『それは……日和と同じ学校に行きたいと思っていたから、むっちゃ嬉しいけどっ、一体どういう心境の変化が起ったの!?」
と激しく詰め寄られたが、「……秘密」とそれ以上の事は伝えなかった。
友達は理由が気になってしょうがない、としきりに尋ねたが。頑なに答えない私を見て諦めたらしく。
代わりに最後は「これで高校でも一緒だね私達」としきりに喜んでくれた。
その言葉に同意して、今日受けた授業について語りながら、迎えに着た、それぞれの親の車に乗り込んで、家へと帰宅。
これが、私の体験入学で経験した事の全て。
あの時聞かれた『何でこの学校を選んだの?』と質問。
その答えは。
その人の笑った顔をみて。
――名前も知らない人に恋をしたからです。
というのが私の答えになる。
勿論そんな恥ずかしいこと決して人に言えない。
でも。
この思い出は、今も私の宝物。
まだ、風間先輩の名前すら知らず。
そしてまだ入学すらしていない時の。
私の、大事な思い出。