3章【噂 進展 転換期】その四
「あっ、先輩、ケガしてますっ」
俺が少しの間、当時のやり取りを思い返していると、華彩が慌てた様子で声をあげた。
「んっ、ケガ?」
華彩に言われた途端。
思い出したかのように、右手が痛みと熱を主張し始めたので見てみると、右手の甲。指の付け根部分の皮膚が破れ、血が滲んでいた。
「あー、まぁ、全力で殴ったしなぁ」
左手で血が床に落ちないようにケガを覆いつつ、軽く手を開いたり閉じたりと動かしてみるが、皮膚が破れた箇所を除けば、特に痛みを感じないので、今の所問題はない。
こういった時に怖いのは、外傷よりも寧ろ骨や間接を痛める事なので、そこに異常を感じないのであれば、数日もすれば治るだろう。
何かあったか、と聞かれても、転んでぶつけた、以外に言うつもりもないし。
ただ、華彩にしてみれば、一大事だったようで。
「ほ、保健室に行かないとっ」
「いや、さすがにもう先生帰ってるし、それにケガの説明も面倒くさい。後でやっとく」
あわあわと口を動かす華彩を尻目に、とりあえず血を水で洗い流して、血が止まるまで様子を見よう。
そう思って「ちょっと移動する」と教室を出ると、近くにある流し台へ向かい、流しの蛇口を捻って血を洗い流していく。
華彩は俺の後について、その様子を眺め、「あぁ、いたそう……」と声に出していたので、「大丈夫大丈夫」を笑い返しておく。
その間に血を流して、水から離し、血が出れば再び水で流す、と言うのを何度か繰り返した。
ある程度血が止まった所で、蛇口を捻り水を止める。
そしてハンカチなどを持ち合わせていないため、軽く左手を振って水気を切ったところで、華彩がポケットから取り出したハンカチを、俺の右手に添えた。
「ありがたいんだけど、汚れるぞ?」
可愛らしい模様がついた、いかにも女子が好むようなハンカチが、よりのもよって俺のせいで汚れる事に罪悪感が湧いての発言だったのだが。
「そんな事、気にしないでください」
そう言いながら「本当に大丈夫ですか?」と呟いて俺の右手を見ている。さすがにこれ以上言うのは野暮かなと思ったので、素直にありがとうと伝えた。
「ちゃんと洗って返すよ」
「別に気にしないでください」
そういうわけにもいかないだろう。
ただ……血で汚れたモノを、洗ったとはいえ、返していいものなのか、判断に迷う。
とりあえず、洗った後に、別の物でお返しするとか、そういった事は後で瑞希に相談するとしよう。
「俺のケガは見た目ほど大したことないから、大丈夫。それより華彩の方こそ大丈夫だったか?」
「私、ですか?」
「体の方は、特に何もされてなかったと思うけど、色々言われてたみたいだし、それに俺暴走しちゃって、迷惑かけただろ?」
少し思い返すと。華彩は言い寄られた挙句、俺が登場してから散々な言われようだった。
付き合いたいと言ってた割にはブスなのなんだの、仕舞いには頭が可笑しいだのと。
……何かまた腹が立ってきたが、一旦落ち着け俺。
それで迷惑かけたんだから、今ぶり返すのはダメだ。
「ええと、正直私、あの人の事あまり好きではなかったので、何か言われても別にそこまで気にしてないといいますか……」
「いや、でも、あれだぞ? 普通に見た目が貶されたら嫌だろう、知らない奴だからって貶められたらいい気はしない。華彩に断られたからって、言って良いことじゃないよ。……まったく、華彩はこんなにも可愛いのに」
ホント、俺の癒しに向かって、何て事を言ってくれたのか。
「せ、せん、ぱいっ?」
「まず、見た目は当然として、笑った顔も微笑ましい。困った所は何か力になってあげたいと思うし、見た目に反して、いざと言う時、きちんと自分の意見を言えるのも華彩の魅力の一つだな。全くそれが分かってるから告白したんだろうに、断られたからって、見当違いの事を言わなくてもいいのにな」
やれやれと首を振って答えると、華彩は何故か顔を赤くしていた。
そして「うぅ……」とか「あぅ……」とか言葉にならないことを呟いて「先輩はやっぱり、凄いです」とぼそぼそとそんな事を言う。
凄い?
俺が?
何か、俺したっけ? と考えている内に。
ふと思ったことがあった。
そして、少しの間言うべきか迷ったが、先ほどの山田(仮)のやりとりを思い返し。
「なぁ華彩」
躊躇いがちに声をかける。
「えつと……まず、凄い余計なお世話だって事はわかってるし、人間関係に疎い俺が言えた事ではない、というのは、重々承知しているんだけど」
しかし、やはり口に出していいのか迷っているためか、ぐだぐだといらない前置きが口から出てしまう。
俺が何をいいたのかわからない、と言った顔で俺を見る華彩。
そんな華彩を前に、一瞬言うのをやめようか、などと思ったが。
だが
ブス。
頭が可笑しい。
山田(仮)から放たれた暴言が、再度脳裏をよぎって、俺は言った。
「もし、よければ華彩の好きな人が誰なのか教えてくれないか?」
「えっ!?」
「いや、今回の山田(仮)は置いといても、何かチラッと『俺と華彩が付き合っている』んじゃないか、ていう噂を耳にしてさ」
この時、初めて華彩の同級生を山田(仮)と言ったのだが、華彩はそれが耳に入ってなかったようで――
「つ、付き合っているですか? 私と先輩が?」
――付き合っていると単語に過剰に反応していた。
「うん、わかってる」
その反応に、俺はウンウンと頷く。
「えっと」
「俺なんかと付き合っている、なんて噂が広がっているなんて迷惑極まりないもんな」
「――――えっ?」
「それでだ、何とかしないとなーとは思っていたんだよ。けど、相手が分からないのに誤解なんて解けないし。 かと言って、人の恋愛事に首を突っ込んでも、上手く行く気がしなくて、さ。 でも、今回の一件で思ったんだ。華彩はあいつの事を好きじゃないから良かったけど、でも嫌な想いをした原因の一端は俺にあって、そして華彩の好きな相手が、あの噂を真に受けていたらどうしようってさ……」
華彩の好きな相手が、華彩にどんな気持ちを向けているかわからない。
今、どんな風に関係を築いているかもわからない。
ただ、今の状況が良くない事なのは、わかった。
「だから、もしよければ誤解を解くためにも――」
――相手が誰か、教えてくれないか。
そう言い切る前に、俯いていた華彩が顔を上げる。
先ほどのように、困っているという風じゃなく、キッと睨みつけるように俺を見た。
「何でそんな事を言うんですかっ!?」
そして声を荒げて、俺に言う。
「何で自分の事をそんなに悪く言うんですかっ!!」
こんな華彩は今まで見たこともない。
「私、楽しかったんですよっ……?この数日間……本当に楽しかったんです……」
明らかに怒っていた。
俺に。
俺が言った言葉に。
「たくさん話して、一緒に過ごして、色々助けてくれて、教えてくれて――!」
目尻に涙が浮かべて。
「だから! そんな事、言わないでください……自分の事を、悪く、貶めるようなこと。先輩の口から聞きたくないですっ!」
浮かんだ涙が頬を伝っても、それを気にすることなく言い続けていく。
その姿に、その言葉に――呆気に取られる俺。
だが、それについて考える隙を与えず、華彩は言い放つ。
「だって、先輩ですよ? 私が好きな人」
今日一番の爆弾を、華彩は俺に叩き落とした。
「本当は……もっと時間とか、準備とか、そういうのが必要だって言われてたから、まだ言う気はなかったんですけど」
少しだけ、恥ずかしそうに目を伏せたが、それでもはっきりと華彩は言った。
「へっ?」
「私が好きな人は、私が付き合いたいのは、先輩です」
「えっ?」
「私は先輩が大好きです」
「えっ?」
混乱した頭、真っ直ぐ叩き付けられた好意に、何も言えなくなる。
「先輩」
「はっ……はい」
現状が理解できていない俺をよそに、華彩はじっと俺を見つめて、宣言するかのように。
「もし、もしよかったらですけど――」
潤んだ瞳、染められた頬。
いつもと違う表情で。
うっすらと赤く頬を染め。
一度ぎゅっと唇を引き締めた後に。
「私と付き合ってくれませんか?」
自分の思いを俺に告げた。
「……」
この日。
あまりに唐突に。
理解が追いつかない状況で。
俺は、華彩に告白されたのだった。