伝えられない思いたち
エルガドラに出発する日が近づいたある日。
「あれから旅に出る事を、もうテオドールに伝えたのか?」
レティシアが部屋の隅で床に座り、膝を立てながらその膝の上に本を置いて読んでいると、部屋に入ってきたルカがそうレティシアに聞いた。
レティシアは一度ルカの方を見たが、すぐに本へと視線を戻すと本のページをめくった。
「…まだよ」
「伝えないのか?」
「…わからないわ」
「…そっか」
ルカはゆったりとした足取りでレティシアの傍まで来ると、レティシアの左隣に腰を下ろした。
そして既に読み終えたように、床に置かれている本を手にとると、それを開き文字を目で追い始めた。
「ねぇ、もしこのまま何も言わないで行ったら、テオは怒るわよね?」
「怒るだろうね」
「そうよね…わかってるんだけどね」
「なら何で?」
「…いざ言わなきゃって思うと、口が思うように動かないの」
「それは、いつこっちに帰れるかわからないから? それとも、次に会った時に忘れられているかもしれないから?」
ルカにそう聞かれたレティシアは、本のページをめくっていた手が止まり、少しだけ間が空いてからレティシアは読んでいた本を静かに閉じると、その本の表紙を触りながら寂しそうに眉をさげた。
(相変わらず、全部を言わなくてもルカにはわかっちゃうんだね…。そうよ、人は忘れやすい生き物…。少なくとも、転生を始める前の私がそうだった、人の顔と名前が一致する事なんて珍しかったもの。それなのに嫌な記憶と、それに関わった人たちの名前は、永遠に忘れなかったな…)
「多分…。そうだと思うわ。人は嫌な記憶以外は忘れやすい生き物だもの」
「でも、忘れないかもよ?」
「それもわかってるわ。でも…、もうここに、帰ってこない事もあるのでしょ?」
「あぁ、状況次第では、そのままフリューネ領か帝都セーラスに行くからな」
「そうよね、うん、わかってるわ」
レティシアはそう言って本を床に置くと、膝をさらに自分の胸へと抱き寄せて抱えると、膝に顔を埋めた。
(ルカはいま、十四歳…。本当なら来年の九月から三年間は、貴族の義務として、帝都にある学院に通わなければいけない。帰国が未定とは言っていたけど、ルカなら途中で入学できるように、仕事を終わらせる…。そうなれば、ここに帰ってくる事は、もうないわ)
ルカはレティシアの様子を横目で静かに見ていたが、目を閉じると、奥歯を噛み締めるような表情をした後、静かに息を吸い込んで吐きだした。そしてゆっくりと目を開きレティシアの方に向いた。
「レティシア、この間の話し合いで、俺は一緒に来てほしいって言ったけど、別にレティシアは残っても良いんだよ?」
そう言ったルカの声はとても優しく、それはまるで悪魔の囁きのようにも聞こえ、レティシアの気持ちが一瞬だけ大きく揺れた。それでもレティシアは、首を横に振る。
「ううん。ここに居ても、きっと今の状況が良くなる事はもうないわ、それなら可能性がある事を少しでもやりたいの」
「そっか…レティシアは、あの頃と変わらないね」
「ルカは変わったね…私に甘くなった。前なら危険だと判断したら、無理にでも連れて行こうとしたと思う」
「確かにな…前なら嫌がっても連れていく判断をしたと思う、その方が安全だしな。でも今回は、皇帝陛下から提案されたのもあるけど、レティシアを連れて行こうとした理由は、俺が…」
「俺が…?」
続きが気になったレティシアは、顔をあげてルカの方を見ると、悲しそうなルカの瞳と視線が重なる。
ルカはレティシアが、顔を上げると思っていなかったのか、少しだけ慌てた様子でレティシアから顔をそらすと、口に手を当てた。
「いや、なんでもない。ちゃんとテオドールに話すなら話せよ、話さないなら最後まで悟らせるな」
途中まで言って、続きを言うのを辞めてしまったルカはそう言うと、本を閉じて元の場所へと戻すと、その場から立ち上がり、レティシアの方を向かずに、彼女の頭を軽く二回たたいて足早に部屋を後にした。
「やっぱ変わったわよ、前なら頭を撫でてくれたのに…」
レティシア以外に誰もいなくなった部屋で、レティシアはそう呟くと、膝を伸ばしそのまま横へと寝転がった。
(ルカは何が言いたかったのかしら…)
そう考えながらもレティシアは魔法で部屋の明かりを消すと、雲の隙間から月明かりが部屋の中を照らしていた。
(テオには、お別れを言いたくないわ…言ってしまったら、二度と会えない気がする)
そう思うと、寂しさが波紋のようにレティシアの心に広がっていく。
(私…テオドールにお別れすら言えないなんて…この五年で心が弱くなったわね…)
レティシアは横になった状態で膝を抱えて丸くなると、喉の奥が熱くなった。
ずっと一緒に過ごした相手と離れるのは、レティシアも寂しい。
決してレティシアが弱くなったわけでは、ない。フリューネ家を出たあの日から、ルカが言うようにレティシアは変わっていないのだ。
(お母様だって守りたいのに、今の私じゃ傍にいる事すらでない…、 やっと…親からの愛を、手に入れたと思ったのに…、お母様に……会いたい)
レティシアは月明かりに照らされた部屋で、声を出さないように独りで泣いた。




