Attack on artemis : dance in the palm of your hand
丁寧に投げ出されたバットを横目に、文郁は足元を蹴飛ばした。
軽く頭を振って帽子を被り直し、一息入れた横目にベンチの姿が映る。
グラウンドを慮る顔が並ぶ傍、壁に貼り付けたチームスローガンが目に入った。
少しだけ芽生えていた苛立ちがすうっと溶けてゆく。
自然と上がった口元から笑いが溢れる。
さながら山の天気の如く移り変わる文郁の表情を怪訝に思ったのか、この日の相棒が颯爽と駆け付けた。
回は五回表、点差は二点。
文郁はまだ一点も相手に献上していない。だが、追い込まれている。
「様子がおかしい。なんか、やりました?」内野陣が集まる前に、ミットで口元を押さえながら撫子が言った。
「いや?」
そう言いつつ、笑いが込み上げる。
目はスローガンに向いたまま。
少し前の事が脳裏を過ぎる。
夏の大会のエントリィが決まり、今回のスローガンを決めようとした時。
文香は真っ先に提案した。またも天の思し召し、と思われる程の直感的閃き。
——スローガンさ、”(笑)”が良い。
——ふざけんな。
藍が神速で却下する。
——何でさ、どんな時でも、どんな事でも(笑)つけときゃ笑ってすませるダロ?
——私には、免罪符にしか感じない。却下。
まあ、藍の言い分も解らなくはない。
そういう一面があるのは確かなので、文郁の思う本質は伝わり難いか、と思い直す。
再びの閃き。まさに天啓、とすぐさま第二案を口にする。
——じゃあ、”草ァ”が良い。
——お前少し黙れよ。
藍が額を押さえ天を仰いだ。
——雑草根性ってあるじゃん。ソレだよ、ソレ。私達は最底辺の挑戦者、ピッタリだと思うけど?
——語感! 絶対良い意味で捉えられない。捉えられないよね?
今度は撫子がツッコむと、静観していた監督が緩りと動いた。
——意味合いとしては良いんだけどさ、有坂とか瀬名とかって実績あるし、雑草じゃないよね。完全に名のある草花。ちょっと違うと思う。
——そこかよ! そういう問題じゃねえよ。監督のクセに何考えてんだよ!
一歩引いて皆を取り纏めるのが常の藍がキレた。
珍しいものを見たなあ、なんて事を文郁が考えていると、やはり矛先は自分に向かう。
——何傍観者ヅラしてんだよ。全てお前の所為だろうが。
——ちゃんと提案したじゃんかよう。
そんなやりとりを経て、結局、スローガンは”笑利”に決まった。
意味合い的には文郁が提案した第一案に近い。
窮地に追い込まれようが、笑みは絶やさない。ネガティブに沈むのではなく、ポジティブに笑い合う。ファニィな空気は強張った身体を解してくれる。
一方で、スローガンなんて綺麗事。他力本願もいいところ。そんなもので絶対的な差が覆るとは思えない。口には出さないが、文郁は心のどこかにはそんな思いもある。
だが、どうにも笑えない世界というものは確実にある。
そして、それを知っている者がここにはいる。だから、きっとここではそれで良い。
ま、個人的にも笑っていた方が良いもんナ、と文郁は薄昏いものに蓋をする。
「連続でフォアボール出したヤツの顔とは思えない。公式戦でふざけてんの?」
マウンドに集まる内野陣、藍がややうんざりした様に言う。
おそらく、本気でそう思っている訳ではないだろう。
だが、少しばかり様子のおかしい文郁を訝しんでいる節はある。
「私だって、時にはフォアボール位出すさ」
「そうじゃない」藍は小さく肩を落とす。「別にフォアボール位、なんて事はない。私が言ってるのはアンタの態度。ヘラヘラ笑うとこ?」
「ああ。ちと、あれ決めた時の事思い出しちゃっただけ」文郁はベンチのスローガンに顎をしゃくる。「正直、少しヒリついた。けど、あれ見たらさ……」
再び文郁の口元から溢れる笑いで、マウンドに集まった乙女達のほぼ全てが白い目を向ける。
「……流石に今は空気読もうよ、フミカちゃん」言いながらも、昴は笑いを堪えている様子。
「らしいっちゃ、らしいですけど。まあ、空気読むとこですよね」撫子が続く。
「別に、なんかあった訳じゃないなら、良いけど」藍が一息吐いた。「紛らわしい!」
「いやあ……」文郁は背筋を伸ばし、腰を折った。「すまん」
「お前、そういうのやめろって」慌てて藍は文郁を引き起こす。ちら、周囲に目を回し、胸を撫で下ろす。「勘違いされるだろうが」
「大丈夫ダロ。別に険悪な雰囲気じゃない」
「それ、文郁さんが言います?」溜め息を呑み込み撫子が言った。
「まあ、何もないならもう良いわ」やや投げやり気味に藍は言う。再び周囲を見回し纏める。「取り敢えず、ワンナウトで満塁。理想はゲッツーだけど、ワンアウト優先。一点は許容範囲、無理はしない。一つづつ確実に。オーケ?」
皆の頷きに藍も応える。
「大丈夫だよ」呟きながら文郁は左右に首を伸ばし、左手のボールを勢い良くグラブに収める。「一点もやるつもりはない。だから、頼むな」
「解った。任せろ」
先ず藍とグラブを重ね、続けて皆と重ねてゆく。最後に撫子の前へ。
「スクイズ来たら強引に外すから、そこは頑張れナ」
「またそういう……」撫子は小さく首を振った。「いや、解りました。頑張りますよ」
グラブとミットが合わさるのを合図に、皆が自分の居場所に散ってゆく。
さて、やりますか、と文郁はロジンパックに軽く触れた。
指に息を吹きかけると、白い粉が少しだけ流れる。
少し膝を折った前傾姿勢で、撫子のサインを読み取る。
打者は左。撫子はアウトコースで攻める方針。満塁なのでランナは気にしなくて良い。初球スクイズはおそらくないだろう。
そこまで考えると、朧げに視界の片隅にいたバッターに引っ掛かりを覚えた。
おや、と文郁は思う。
これはもしかして、誘導出来るのではないだろうか。
そんな考えが浮かんだ。だが、内心直ぐに首を振る。
博打レヴェルの確率だし、望む結果の為に選び取る選択肢はかなりシビア。
仮にうまくいったとしても、やはり最後の最後はどうしても運任せになってしまう。
加えて、公式戦という舞台が無意識のうちに身体を硬らせていたのか、五イニングスにしてはやや疲労感を感じる。
制球も怪しい。
やはり正攻法が無難、取り敢えず撫子に任せるか、という帰結を一瞬のうちに処理した。
サインはアウトコースに直球。
強気なのは嫌いじゃない。
左足をプレートにつけて静止。
踏み出す。
狙いはアウトローギリギリ。
その結果いかんで、次の選択が決まる。
タイムで一呼吸置いたのが良かったのかもしれない。
制球は普段の感覚に戻っている。
まあ、アウトローはしこたま投げ込んでいるから、これまでの自分を少しだけ褒めてやろう、と文郁は思う。
二者連続で四球を出したのだから、相手からすれば様子は見るだろう。
次をど真ん中に入れたらどうなるかな、なんて事を思うが、流石に博打が過ぎる。
いや、意外にアリかもしれない、と文郁は隠れて口元を上げた。
打者の佇まい。表情、目の色。バットを握る手の平、呼吸、肩の動き。重心、膝の位置。
引っ掛かりは確信へと変わる。
「ふうん」
文郁の呟きは、グラウンドに響く嬌声で掻き消える。
確率はかなりあると文郁は見る。
内心、撫子に詫びて、セットに入った。
左腕を振る。
アウトハイに流れる直球。
微かに、首を傾げてやる。
撫子が両手の平を下げる。低めのアピール。
続けて、踏み込む。
ほぼ同じ軌道でボールは外れる。
上々。
首を傾げ、少しだけ眉根を寄せる。
再びタイムをとりそうになった撫子に、大丈夫と手の平を翳す。
カウントは2-1、いかにもな状況。
目線は撫子、意識は打者。
打者が手がメットに触れる。
緩りと左足をプレートにつけ、一呼吸。
静止したまま、もう一呼吸して僅かにディレイ。
踏み出す。
と、同時に。
「スクイズ!」内野陣の声が響く。
文郁の口元が上がる。
やれるもんならやってみな、と、モーション途中で手首を傾け、無理矢理カットボールに変えた球をインハイに投げ入れる。想定通り、ゾーンの遥か上。
何とか繰り出したバットの根本が球を捉え、明後日の方向に上がる。
フォロースルーで流れた身体を元に戻しながら、文郁は左手を握る。
直ぐにカヴァーに駆け出す。
元々フットボールでGKを嗜んでいた撫子の反応は見事。
ファールゾーンに飛んだポップフライを難なく掴み取ると、即座にランナが飛び出たサードに投げ入れる。
カヴァーに入った昴に渡り、塁審の手が勢い良く振り下ろされた。
文郁は自分のグラブを叩く。流れた左手の平が拳を握る。
吠えはしない。ただ内心ほくそ笑んだ。
飛んだ場所は幸運に味方されたが、スクイズ失敗は想定通り。
まさに、左手の平の上の出来事。
「ナイピっ、フミカちゃん」
マウンドにやって来た昴からボールを受け取り、そっと地面に置く。
肩を並べてベンチに駆け出す。凱旋じみた迎え入れ。
文郁は半円の中に滑り込む。
「よく凌いだ!」手を叩きながら、やや興奮気味に監督が言う。「この良い流れを、攻撃に繋げよう!」
「点差は二点。余裕はいくらあっても良い。追加点、取りに行くぞ!」
藍の張った声に、皆が応える。
散らばるチームメイトを横目に、この回先頭の藍の背に文郁は声を掛ける。
「援護、頼むゾ?」
忙しなく準備をする、藍が顔を傾けた。満面の笑みが浮かんでいる。
「……後で、じっくりみっちり説明して貰うからな?」
「……ええと、なんの事カナ?」文郁は思わず目を逸らす。
あらあ、完全にバレてますナ、と文郁は思う。
藍はバッテリィサインを解っているし、セカンドの位置からならそれを見るのも可能。
これまでの付き合いから文郁の性質も把握している。
撫子の立ち振る舞いも考慮すれば、文郁の独断専行を見抜くのは難しくない。
「ちょっと、文郁さん!」若干プンスコ気味に撫子が言う。
「今度はお前かよう」
文郁が呟くと、撫子はベンチの片隅を指差す。つい反射的にその方向に目を向けると、そこにも笑みを浮かべた監督の姿。
文郁は、まあ、目を逸らす。
「前野〜、ちょっとおいで?」
仕方ない、と肩を竦め、さながら連行される宇宙人の心持ちで監督の御前に向かった。
「はい、何でしょう?」
「雪村に説明」
ああ、そういう事か、と納得した。
慶侑もまた文郁の性質を理解しているので、大方想像はついているのだろう。
「コントロールミス、ではないですよね?」訝しみを前面に押し出し撫子が尋ねる。
「まあな」悪怯れずに文郁は答えた。
「ま、なんて態度」奇怪なモノを見る様な目を撫子はした。「それで?」
「しこはよくやってるよ。だから、今はまだそこまでは求めない。けど、情報ってのはそこらじゅうに転がってんの。あのタイムの後、しこの目にはグラウンドはどう映った?」
「え?」撫子は目線を上にする。「満塁、スクイズ警戒、あわよくばゲッツー。長打は避けたいから、アウトコースで……」
「それはただのおさらいだろうに」文郁は笑う。「別に悪くはない。指差し確認は大事だからナ。基本だけど、私らは打者を抑えるのがお仕事だな。状況によってセオリはあるけど、極端な話、バッタ勝負でいんだよ。どうすれば抑えられるか、が重要。抑えられない、もしくはその確率が低い、となった時初めて一点は良いからワンアウト優先って選択肢が出てくる」
「ですから、そういう状況だと判断したんでアウトコース中心に……」
「間違いじゃないけどさ」文郁は笑う。「ああいう場面って、相手にもそれなりの重圧掛かってんのよ、あっちは二点ビハインドな訳だろ、ワンナウト満塁なんて逆転出来る大チャンスじゃんか、そりゃ力も篭る。ましてや三年生最後の大会で、しかも負けてるとなれば、プレッシャは相当。それを力に変えられる打者なら、私だって撫子に従ったさ」
「へ?」
文郁はニヤリと口元を上げた。
「あのバッター、確か一年だろ? まだプレッシャと同棲出来てない。それが全身から滲んでた。前打席まで、良い当たりも出てなかったし、スウィング見る限り悪くはないけど、そこまでの脅威もない、おそらく守備を買われての出場。だからヒッティングは選択されないと思った。じゃあ、どうなるか。もうスクイズ一択だろ。で、どこでやるか、って事になるんだけど、ここがこっちの賭けの部分だった訳」
「賭け……?」撫子は額を拭った。「やばい、ついていくのに精一杯です」
文郁はちら、とグラウンドに目を向ける。
「アオが粘りそうだから、まだ大丈夫。サクうっと続けるゾ」
「はい、お願いします」
「で、賭けってのはだナ。つまり、私の制球。実際タイム取る前までは怪しかったよな。攻めた結果とは言え、二連続は流石に厳しい。そんなコントロールじゃ誘導出来ないからさ、初球で確かめた」
「は? 誘導?」
「そ、誘導」文郁は頷く。「誘導っていうかお膳立てに近いナ。それまでの制球が乱れているって私の情報はあっちにあるだろ? 満塁だし押し出しも視野に入るから、相手からすれば初球は見る。私が確認するにはそこしかなかった。賭けっていうのはそういう意味。んで、私は賭けに勝った。タイムの所為かな、感覚は元通り。しこには悪いとは思ってるんだけど、その後の二球は敢えてボール球を放ったの。制球が定まらないアピールをしつつナ」
「ちょっとワザとらしかったけどね」監督が苦笑いつつ口を挟んだ。
「まあ、そこは後々演技指導して貰うとして」文郁は言う。
「……そこ、力入れなくて良いから」慶侑は肩を竦め先を促した。
「で、いかにもなバッティングカウントになった。そっから先はいつ来ても、まあ大丈夫だと思ったけど、まあ、素直にやってくれたよナ。バント体勢みて、保険で無理矢理回転掛けて、一番やり難いインハイに外したって訳。事前に言っておいたし、しこならスカっても捕れると思ったし」
「……私が捕れなかったらどうするつもりだったんですか?」
「そん時はそん時だナ。でも、まあスクイズ続けるなら構わないし、仮にヒッティングに切り替えるとしても、ウチの守備陣なら、失敗した後のあの子ならどうにでもなると思ったかな」
「私はまだ経験値全然足りないですけど、それでも、博打が過ぎる事くらい解りますよう。運任せにも程がある」
「いや、だから、運任せじゃないんだって。目の前にある情報を分析した結果、成功する確率は高いと思ったから実行したの」
「雪村」監督が声を掛けた。「雪村の懸念は解る。言葉にすれば一応理屈は通ってるんだけど、前野はそれを感覚でやるの。それで全部事後報告。だから、これに関しては慣れて、としか言いようがない。ただ、前野も、今回は成功した、という事を忘れてはいけない」
「まあ。そうっすね。解りました」文郁は頷いた。
絶望じみた表情を浮かべた撫子だったが、一息を呑み込み仕方ない、と頷いた。
「頑張りますよ」撫子はそう言ってから、人差し指を文郁に突き付けた。「その代わり、情報交換はこれまで以上に綿密にして下さいね」
「だな」文郁は快く頷いた。「さて、そろそろ、私も準備するかな……」
そう言ってアームレガースに手を伸ばした瞬間、打席にいる藍の弾き返す音が届く。
反射的に目がグラウンドに向き、飛んだ打球を追う。
当たりは良い。しっかりと捉えていた。
だが、運悪くそれは遊撃手の正面。難なく捕らえられてしまった。
戻って来た藍とすれ違う。
「後は任せとけって」
「うん、頼むわ」
片手を合わせ、文郁はネクストに入る。
前回の満塁を凌いだのは、自分達に取って追い風となる筈だ。
藍が出れなかったのは不運ではあるが、梓、自分と続く打線にはまだ光明が見出せる。
勿論、文郁としては一点も献上するつもりはないが、あと一点。それがあると気持ち的にも大分楽にはなる。
何となくだが、文郁の直感が”ここ”と告げている。
打席に入る、主砲に声を掛ける。
「アズ、私を返してくれ!」
振り向き、梓は微妙に首を傾げた後、少しだけ身体を折って笑った。
「逆、逆。フミカが私を返すんだろう?」




