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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Hundred flowers : 3  〜 花咲く命、ある限り 〜
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 Attack on artemis : the meaning of being here

 細い通路の先は、それでも光に溢れている。

 昨日の雨の残り香はまだ辺りに漂っていて、見上げた空には雲が多い。

 だが、薄暗いベンチから望むグラウンドには光が溢れている、様な気がする。


 珍しく感傷的だナ、と少しばかりの苦笑を零し、前野文郁は自身のエナメルを丁寧に置いた。


「ここまで来れたのは神の思し召しか」文郁は頭に浮かんだ言葉をそのまま呟く。

「あらあ、フミカちゃんにもそんな一面が……」チームスローガンの描かれた幕を壁に貼り付けながら、昴が言った。

「何が?」

「信仰とは無縁の人、だと思ってた」 

「無縁だが?」

「は?」


 二人して首を傾げる。


「おい、お前ら。そのボケっとした時間で何が出来るよ? 色々出来るよなあ?」両手に持った荷物をベンチの片隅に置くと、藍がこれでもかと笑顔を浮かべる。「時間が限られてるって昨日言ったよ?」

「そんなプリんなヨ、アオらしくもない」

「別に怒ってないし、焦ってもない。ただ万全の準備をしろと言ってるだけよ」

「解ってるって」文郁はそう言って、自分のエナメルからグラブケースを取り出す。丁寧に紐解き、脇に抱える。「んじゃ、私は一足先に」

「急にギア入れんなよ?」


 藍の言葉に片手を振って、文郁は答えた。

 ちら、とベンチを見回すと、相棒はまだ支度の途中。

 なので、既にベンチの外で身体を動かしている梓に繋ぎを頼む事にした。


「キャッチボールしようぜ? 言葉の」

「……いや、そこは普通のキャッチボールでいいでしょ」梓は目を細め切り返すも、内容自体は快く承諾する。


 二人で肩を並べつつライト線を歩く。


「まさか、アオとアズと……。いや、それよりも再びグラブを手にするなんてナ」文郁はグラブを嵌めて両手を高らかに挙げた。「しかもこんな立派な球場でさ」


 梓は酷く苦い物を口にした様な顔をした。


「……朝食、皆一緒だったよなあ? アレルギかなんかある?」

「おま……、失礼なヤツだな。私だって時にはセンティメェントゥな事を言うよ?」

「微妙に発音がいいのが、またイラッとする」そう言って梓は笑った。


 左手の中にあるボールを転がしつつ、文郁は思う。

 信仰心なんてものは文郁には無い。

 だが、神の思し召し、と思える程の幸運が降って来たのは確かなのだ。

 諦めざるを得なかったし、実際一度は断ち切った。


 厳格且つ、エリートコースを歩んで来た両親の元では学業が最優先だった。

 両親を黙らせ、自分のやりたい事をするには、それなりの成績を示さねばならない。

 尤も、文郁にとってそれは然して難しい事ではなかったのだが、いざ分岐点に立った時それが裏目に出た。


 文郁の希望は、女子の野球部があり、且つそのレヴェルの高い所。

 自分で資料を取り寄せ、両親にプレゼンするも、主に父親が首を縦に振らなかった。

 理由としては偏差値の開き。

 文郁の成績ならもっと上を狙うべきだというのが、彼の主張。

 ならば多少はレヴェルを落としても、と父親のお眼鏡に適う文武両道と評される高校を提示するも、今度は寮生活は許さないと来た。 


 ならば戦争だ、と文郁は第三次家庭大戦も辞さない覚悟で臨んだのだが、今度ばかりは決して父親は折れなかった。

 第一次、第二次と違い、今回はどうしても両親の承諾が必須、自分の裁量だけで決められない。

 坊主にしたり、ピアスを開けたりといった、やっちまったもん勝ちの事後報告という強行策が使えない案件。


 自分には阿呆の血が流れている、と文郁は思っている。

 だから、大抵の事は流せるし、流せてきた。だが、今回ばかりは対処が出来ず、文郁は初めて感情的に泣いた。枯れる程に泣き疲れると、今度は諦観じみた物が湧き上がり、仕方無い、と父親の提示した条件を受け入れた。

 若干の抜け殻感を感じつつ、迎えた春。

 そこには、決している筈のない者達が、新たな歴史を作ろうと模索していたのだった。


 曇天の空の下、乾いた音が響く。


「相変わらず、コントロールだけは良いね」

「だけとは何だ。だけとは」地団駄を踏みつつ文郁は返す。

「コントロールは努力の証、それだけ誇れるって事だよ」

「褒めてんのか!」

「……いや、なんで怒ってんのさ」訳が解らない、と梓は苦笑する。


 文郁は自分の事を凡人だと思っている。

 阿呆の血こそ、一般を逸脱しているのかもしれない、という自覚はあるにせよ、フィジカルに関しては人並みという認識。だから、凡人がやれる事をしたまで。

 ネットを突き破るストレートを投げる事は出来ないし、追う事が出来ない変化球も投げれない。

 だから制球を磨いた。

 それしか出来なかったのだが、それだけを、それこそ阿呆の如く続けたからこその今の文郁。

 近場に敵わないと思う乙女がいたから尚更、という側面もある。


 それは、試合で相対した結城碧であり、有坂藍、一つ下の水木昴もまた然り。

 そして、一番近しかった千家知紗。


 ——ずっと勿体無いって思ってた。だから戻って来れて良かったね。マエちん的にも私的にも。


 開会式の後で交わした言葉。

 かつていたチームの中で一人飛び抜けていた乙女から貰った言葉は素直に嬉しかった。

 随分と先を歩いている筈の乙女が自分を待っていてくれたのが解ったから。


 約二月程前の対戦は文郁が療養中だった為叶わなかった。

 文郁に信仰心はないが、そこは少しだけ神様を恨んだ。

 だが、それは過去で今は違う。

 去り際に鳴海大葉山の我が儘プリンセスが宣った様に、互いに勝ち進めばいつかは当たる。

 だから、勝ちたい。勝って相対したい、と文郁は思う。


「怒ったり、にやけたり、沈んだり。忙しないね、フミカって」球を投げながら梓が言う。

「アズだってそうすれば良いんだ。簡単な事だろ?」

「人には向き不向きがあるのさ。私はまだ、フミカの様にはなれないよ」


 再び投げ返された球を捕り、左腕を振る。


「何だかんだ言って、心のキャッチーボールしてるナ」

「フミカのペースの呑まれると、すぐこれだよ」梓は少しだけ自嘲気味の笑みを浮かべる。


 暫く投げ合っていると、漸く相棒がやって来た。


「お待たせです」防具で身を固めた撫子は、小さく頭を下げた。

「じゃあ後よろしくね」ボールを撫子に手渡すと、梓は文郁に指を突きつける。「ウォーミングアップって事、忘れない様にね」


 梓が踵を返した時、不意に、懐かしい声が文字通り降って来た。


「フミカ!」


 文郁は、ほぼ反射的に声の方に顔を向けた。


「レイちゃん! ユイちゃん!」自分の顔が緩むのを文郁は自覚する。


 普段の文郁が出さない華やかな声だったので、何事かと梓が振り返る。

 撫子もまた同じ様にやや見開いた目を文郁の方に向けている。

 彼女達の視線を背に受けつつも、文郁の身体は一段高い柵の向こうにいる二人に引き寄せられる。


「いいって、こっち来なくて」細身のジーンズにサマーセータを合わせた、茶色のショートカットの乙女が微かに苦笑する。

「仲間をほったらかしにすんなよ」夏物のワンピースに身を包み、その清楚な風貌からは想像し難いしゃがれた声で黒髪のロングの乙女が顎をしゃくる。


「え?」


 文郁の振り向いた先には撫子の顔。


「別に喋るなとは言いませんけど……」撫子は一段高い場所にいる乙女二人に目を向ける。「長居すると、またアオイちゃんの雷が落ちますよ?」

「それは解ってるけどさ。すごい久しぶりなんだよナ」

「んな事言ったら、今この場所は初めての場じゃないですか。文郁さんはどちらが優先なんですか?」


 うぐ、と文郁は言葉に詰まる。

 知らぬうちに正論を身に付けた後輩の成長を喜ぶべきか、はたまた、なんて事を瞬時に考え出すべき言葉を選んでいると、再び声が降る。


「後輩? の方が正しいじゃん、アンタの負けだわ。ウチらに構わず続けな」ワンピースの乙女が片手を上げて身を翻す。

「だから、そう言ったのに」口元に涼しい笑みを浮かべて、もう一人の乙女も後に続く。


 確かにこの場は皆の舞台であって、自分だけのものではない。

 突然の出来事に舞い上がり過ぎたか、と文郁は一瞬の間に自省する。


「所で、お綺麗な方達でしたけど……」歩き去る二人に目を向けつつ撫子がきいた。「誰なんです? 文郁さんにあんな知り合い……、おっと」

「……しこも言うようになったナぁ」一旦白い目を撫子に向けて、彼女同様二人の背に視界に入れる。「姉ちゃん達。二人共関西の大学に行ってるからナ、中々会えない」

「ああ、なるほど」撫子は一度頷くと、拳を握る。「なら、尚更良いトコ見せなければ、ですね」

「だな」


 そう言って、文郁は自分のいるべき場所に歩みを進めた。

 周りと比べて一段高い場所。こここそが自分の居場所だという自覚が文郁にはある。


 投手と言えども、他のポジションと変わらず、九分の一。だが、ここでしか見えない景色、ここでしか感じ取れない何かも確かにある。

 自身に向けられる期待や希望、それらを背負いきってこそ、ここにいる事が出来る


 肩が重いな、と文郁は思う。

 だがそれは幻覚の様なもので、実際の調子は良好。だから、重いと感じるのは、これまでと違って明確な自覚が生じ、確固たる目標が自身に芽生えたからなのだろう。

 託された場所、千家との邂逅、姉達の来場。昂っている自分を文郁は自覚する。


 藍が嫌気を感じなかったのなら、梓が地元から出るという判断をしなかったのなら。昴が藍を慕っていなかったら、千彩が、撫子が。斯くも細い糸が幸運にも合わさったから、今文郁はここにいて、置いた筈のグラブを嵌めている。

 そして、それがあるからこそ、皆の前で誇れる自分でいられるのだと、文郁は思う。


 離れた場所で藍が呼んでいる。

 戦う準備が整ったのだろう。

 今までいた仮初の小山に別れを告げて、文郁は撫子の元に歩み出す。


「じゃ、今日も一つ、よろしくナ」

「はぁい。精一杯頑張りますよ?」最近見せる様になった、少しだけ自信が覗く笑顔で撫子は応える。「あ、言っときますけど、ホント、突発だけはやめて下さいね? 今日は公式戦、負けたら終わり。私達の意思疎通が乱れた所為で負けました、なんて私は嫌ですから」

「解ってるよう」撫子と肩を並べ文郁は言う。


 チームメイトは既にベンチの前に集まり半円を描き、文郁達を迎え入れる様に溌剌とした顔がこちらに向いている。 

 ベンチの柵の隙間、半円の中心には監督の姿。

 その後ろにいるのは部長の教諭。二人とも見慣れないユニフォーム姿。こんな所でも、今日の日が特別だという事を実感させられる。

 時は来た、とばかりに監督が一歩踏み出す。


「ん〜、特に言う事ないかな」


 普通なら拍子抜けしそうな事を、監督・今泉慶侑は平気で言う。

 普段からこの人はこうなのだ、という事を皆が解っているので、リアクションは薄い。


「あら?」皆を見回した監督は少しだけ怪訝な顔をする。「もしかして緊張してる? まあ、するだろうけどさ、らしくないよねえ。君達はまだ挑戦者。全てが経験になる時期。緊張だろうが何だろうが、全て呑み込んじゃえばいい。さあ、見せてやろう。自分達の全てを」


 有難い監督の言葉。

 普通ならここで全員が大きな返事をする所。

 だが、”ここ”は普通ではない。だから、返事ではなく、別の期待を皆が浮かべる。


「言う事ないなら、無理に言わなくても良いじゃないですか。無理矢理絞り出した言葉なんて、ペラい。監督の人間性が前面に出ちゃいますよ?」

「有坂、ドイヒー」


 半円はここで笑いに包まれる。これが”ここ”の普通。


 文郁は、然程厳しい環境というものを知らない。

 だから、ここがどれほど緩いのかは判断出来かねる。

 だが、ここはとても居心地が良いとは思う。居心地が良ければそれはモチベーションの下地となり、土台がしっかりしていれば、自ずとその上に築かれる物は盤石となる。


 昂る気持ちは共有されている。

 そして、それを支配下におき、皆を導いてくれる主将がいる。

 ポジティブ且つファニィな空気に包まれる中、監督は、その司令塔を促した。


「じゃ、有坂、よろしく」慶侑は乗り出した身体を一歩引いた。


 こくり、と頷くその姿は威風堂々。

 肩で風を切り、半円の中心へ。

 顔を上げると同時に吹き抜けた風で、後ろで纏めた黒髪が舞い踊る。

 揺らぎのない瞳が一人一人に流れてゆく。


「まずは、私達の無謀とも言える挑戦に付き合ってくれた先輩方、ありがとうございます。みなさんがいなければ、こうしてここにいる事は叶わなかった……」

「試合前にいう言葉じゃなくない? 始まってもないのに終わりみたい」


 その言葉で若干の笑いが生まれる。


「でも、このメンツでいられる時間は少ない。勿論……」藍の目には強かな光が宿る。「こんな所で終わらせるつもりなんて毛頭もありませんよ。でも、伝えておきたい言葉だった。これで心置きなく戦える」


 かつては無くて、今はある、校名のロゴに左手が触れて。

 静かに目を閉じ。

 有坂藍は小さく息を吸う。

 開いた目には自信が沸る。


「戦う準備は出来ている!」


 力強い声が曇天に響く。

 返って来る皆の声は猛々しく。


「これまで得た全てを胸に、楽しむ事を、そして最底辺の挑戦者である事を忘れるな」藍の胸に置いた手の平に力が篭る。「一欠片すら見落とさず、貪欲に吸収し明日に繋げろ。私達は強い!」


 猛々しい声は重なって。

 藍の顔が上がり、空に向かって人差し指が伸びる。


「そしてこの時間をあらん限り続ける為に、皆一丸となって駆け抜けろ。いくぞ!!」

「応!!」


 空を指す皆の指は重なり、一つとなった声は空に吸い込まれる。

 自然と上がる口角。

 アンダーの下で鳥肌が立つ。

 時は来た。

 左手を握り、文郁は今一度曇天を仰いだ。

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