The beginning is fine weather, but the anxiety is to hold 〜 曇り空を抱いて晴天に立つ 〜
蝉の喧しさは変わらずとも、漂う空気はまた別物だ。
朝の早い時間帯。
抜ける風は未だ爽やかさを内包し、開幕を告げるそれとしては申し分ない。
全ての不安を閉じ込め、これまで培った物を惜しむ事なく曝け出す。
それが出来るのが真の強者なのだろう。
そういう意味では、まだ私達は強者とは言えない。直前で発覚した小さな翳りは未だ私達の中で燻っている。
地元・葉山と似ているけれど、どこか違うこの丹波の空の下で。
「ついに来たって感じだねえ」後ろ手を組みながら、金田一葉は目を閉じ鼻を突き出す。「普段と違う感じが、もうヒシヒシと」
「そりゃあ、そうでしょ。開会式に参加すれば嫌でも実感するって」
女子の高校野球の聖地とされる、兵庫県は丹波市の市立スタジアム。
この緑に囲まれた綺麗な球場に私達はいる。
試合日程としては私達は大会二日目が第一戦なので、この日は式に参加するだけ。
とは言え、周りに目を遣れば彩り豊かなユニフォーム姿の乙女、乙女、乙女。
遠く離れた地での非日常が織りなす空気と、期待と不安の入り混じった微かな緊張感が夏が始まった事を実感させてくれる。
内に不安を抱えつつも、新鮮さを内包した昂る気持ちは確かにある。
詰まる所、目の前の現実を見てテンションが高めになっているのは否めない。
私も阿呆の内の一人である。
「おい、オマエラちょっと来い」阿呆分の一、我が儘プリンセスが顎で私達を呼ぶ。
言葉とは裏腹に怒気などは微塵も無く、むしろ悪戯心に溢れている。
そんな顔を見れば、ああ、また良からぬ事を思いついたのか、と私は隠れて目を細める。
「何すか? また何か面白い事です?」一緒に呼ばれた一葉がノリノリで尋ねた。
こいつも阿呆分の一なのだろう。
「せっかくだし、挨拶しに行こうよ」碧が灰色じみた瞳を輝かせる。
あら、と私は思う。まあ、普段の碧らしいと言えばそう。
けれど、どことなく浮かれ過ぎの様にも思えた。確かに碧は阿呆なのだけれど、分別が無いかと言われれば否、TPOは弁えている。
はて、この微妙な違和感は何だろう、と私は碧に直球をぶつけてみる。
「なんか、らしくもなく浮かれてます?」
「そりゃ浮かれるだろ」碧は笑う。「自分に置き換えてみろよ。参加校全てここにいるんだ、近くにいんだろ? 明日香とかがさ。普段中々会えないんだ、チャンスじゃない」
開会式という事でここには野球を嗜む乙女が一堂に会している。
普段会う事の叶わない友人を一目見るには絶好の機会なのも確か。
私だって忘れていた訳ではない。むしろ碧と同じ様な事を目論んでもいた。けれど、学校ごとの規則もあるだろうし、アポなしで突るのは流石に失礼だろう、と節制しただけ。ただ、そこは碧なのだ。そんな事は些事の範疇なのだろう。
とは言え、一応止めはする。
「勝手な事すると怒られますよ?」言いながらも、既に私も碧の後を歩いているのだけれど。
「お花摘みに行って来るって言っといたから。しかもかなりの花束って」ニシシ、と碧は笑う。
言い方、とも思うし、咎めたい気持ちもあるのだけれど、私は邪に傾きそっと蓋をする。
この後は試合のあるチームは残り、それ以外は宿舎なり借りた練習場なり方々に別れてしまう。
この曖昧な時間はチャンスと言えばチャンスなのだ。
「何かあったら責任はミドリちゃんにあるんすからね」一応言っておく。解り切った無為だとしても。
「何を」碧は言う。「そこは連帯責任。でも、怒られても十分お釣りは来るよ。私的にはな」
「ミドリちゃん的にはでしょ」
そう言いつつも、満更では無い私もいる訳で。
そんな思いは即座に行動に出る。
明日香に会うとなれば、おそらくその場所には背番号が無かろうと環もいる。
ならば、と周囲を見回し、綾にも声を掛ける。
「香坂」名を呼び、手を小招く。
「何? アンち」
首を傾げる綾に説明を、と思った所に碧の声。
「丁度良い、チサも来いよ」碧は綾と雑談していた千家にも声を掛けた。ちら、と私に目を向け悪そうに笑う。「コハクだってノリノリじゃねえの。これでお前も共犯者」
綾と渋々了承した千家を新たに仲間に引き入れ、我が儘プリンセスはユニフォーム姿の人波を泳いでゆく。
私は、毎年”ヤグラ”を俯瞰し一喜一憂する様な熱心なファンでは無いので、どのユニフォームがどこの高校かは、ぱっと見では解らない。けれど、有名な所は流石に知っている訳で、それが横目に映れば、改めて実感せざるを得ない。やはりこの場所こそが決戦の地なのだ、という事を。
そして、それらを見るうちに焦りの様な物が迫り上がって来る。
私は辺りを窺いつつ、前を歩く碧の耳元に語りかける。
「ふらふらしてるのって、私達だけじゃないすか。他の学校ってみんな撤収の準備してますよ?」
「いいか、コハク」碧は歩みを止めずに言う。「規律ってのはな、阿呆の為にあるんだ。自分で善悪の判断が出来て、それをその場その場で実行出来るなら、規律なんて要らねえのさ」
「……それをミドリちゃんが言う?」
「ともあれ、私だって雷は怖い、さっさと済ませちまうかね」碧はそう言って歩みを早めた。
届くは蝉の音、降るは夏の陽差し。
自校のバスに向かう乙女達の流れの中に目当ての集団を見つけ、碧は更に足を速めた。
目にするのは初めての正式なユニフォーム姿。
微かに青の混じった白地のベースに、紺に近い深い青のアンダーとソックス、それに帽子。同じ青で縁取られた校名のロゴは青みの強いエメラルドグリーン。
碧の背中越しに、その集団の一人と偶々目が合った。
あちらも私達を認識したのだろう、長めの前髪の奥の大きな目が爛々と輝く。
「オヒメサマのご登場ってところかしら」
既にこちらの事は、視界の中に入っていたのだろう。特に驚く事もなく、片瀬熊ノ森学園の主将、有坂藍は嬉しそうに微笑んだ。
「オヒサシブリ」いつかの再会の時と同じ言葉を紡いで、碧は肩頬を上げた。
挨拶は挨拶。けれど、強行してまで会う相手なのだろうか。
物理的にも近しい相手、会おうとすれば会える距離。何故に今この場で、と微かな疑問が浮かび上がった所で、私にも面会の相手。
「アンちさん、お久しぶりっす」爛々と目を輝かせ、夜川千彩は勢いよく頭を下げる。
「ご無沙汰です」淑やかな仕草で雪村撫子も頭を下げる。
若干勢いに押されつつ、私も返す。
「ひ、久しぶり、元気そうで何より」
「ちろは相変わらずテンション高いねえ」私の横から顔を出し、一葉が言う。「その様子だと、調子良さそうだね」
「もちのろんすよ、ヨウちゃん」
千彩はちら、と横を向いた。撫子が頷き、彼女の後ろにいた乙女を引っ張り出す。
「……スバルは何で引っ込んでんのさ」一葉は目を細める。「お腹でも壊した?」
「べ、別にそんなんじゃないよ」水木昴は口を尖らせる。
「スバルはまだ心の整理がついてない。ついてないよね?」撫子は溜め息混じりに言う。
「だから、そんなんじゃないから」
「いい加減今に慣れるっすよ、スバル。メッセージのやり取りはよくしてるじゃん」
「口下手かよう」一葉は吹き出す。「文章だと、あんなに強気なのにさ」
「いや、まあ、ほら、長かった暗黒の時代の代償と言いますか……」
「スバルらしいっちゃ、らしいけど……」一葉は小さく笑った。
彼女達の会話に耳を傾けながらも、私の目は周囲を彷徨っている。
その端に目当てを見つけ、綾を促し、碧に声を掛ける。
「ちょっと外します」
有坂達との会話を一旦止めて碧は頷く。そして、らしくない事を言う。
「あちらさんの迷惑にならない様にな」
お前が言うか、と出掛けた言葉を呑み込み、軽く頭を下げて私達は踵を返す。
移動を始めたその集団の背後に足早に近付く。
別に今会話をしなくても良い。ただ互いに認識していたいだけ。
ちょっとした個人的な我が儘の範疇。
映像、画像、ネット記事、と露出が多い所為でしっかり頭に焼き付いているユニフォーム。
白×燕脂のシンプルデザイン。
胸には黒い縁取りの中に明度の高い燕脂の校名のロゴ。
一昨年の夏の覇者、浦和翔葉のそれ。
天性の勘なのか、洞察力のなせる技か、最後尾を歩く乙女は不意に振り返り、ニヤリと笑う。
忍ぶ様に集団の中に飛び込んだ後、他と少し歩みの速度を落として、再び最後尾へ。
連れて来られた懐かしい顔が私を認識して綻んだ。
「アンちゃ〜ん」口元に手を添えて小声を出しつつ、中沢明日香は左手を振った。
私もまた笑みを浮かべて片手を振る。
私達の些細な意思疎通に気付いた、彼女達の前を歩いている先輩らしき乙女に嗜められ、沖田環は舌を出す。
「さすが名門、厳しいなあ」綾は環に応えつつ呟く。
「厳しさなら、うちだって変わんないだろ。つうか、そろそろ戻らないと本当にまずそう」
「だねえ」
綾と頷き合い、今一度明日香達に手を振って一路碧達の元へ。
私達の帰還に碧が気付き、声を掛ける。
「明日香とは会えた?」
「挨拶はなんとか」
「まあ、あそこは規律厳しいからな、まあ、仕方ない」
頷く碧を窺い、私は言う。
「そろそろ……」
「うん。でも、あと一つだけ」
「え?」
これ以上はさすがにまずいのでは、と思う私。
そんな私にお構い無しに、碧は有坂達に暇を告げ、次に向かおうと踵を返す。
そんな私達に新たな声が降る。
「結城、そろそろ戻った方が良いんじゃない? ウチは別に構わないけどさ、姉ちゃんおっかねえよ?」
どこかで私達を見ていたのだろう。
熊ノ森の監督且つ理香の実弟、今泉慶侑は憐れむ様な顔をする。
「それは知ってるけど、あとちょっとだけ」碧は親指と人差し指をくっ付けて、片目を瞑る。
「……いや、だからさ、それを俺に言われてもさあ」
確かに、と大いに頷くも、あれ、なんかおかしくないか、と僅かな疑問。
「どうせ、勝ち進めば当たるんだから、その時までとっておけば?」有坂が腕を組んで溜め息混じりに言う。「別に今強行しなくても良いじゃない」
「……ま、それもそうか」珍しく碧は受け入れ、片手を上げた。「んじゃな、有坂。頑張って決勝まで来いよ?」
「……そのメンタルだけは認めてあげるわ。つうか、その能天気さ、ちょっと羨ましいまであるわ」割と辟易した様に言うと、有坂はニヤリと笑って、追いやる様に手の甲を振った。
熊ノ森の面々に背を向け、俄かに速度を上げる碧に千家が言う。
「これ絶対怒られる案件。全部ミドリの所為にするからね」
「チサだってついてきたじゃんか、同罪だ同罪」碧は笑みを浮かべて首を傾ける。「でも来て良かったろ? オトモダチの元気な姿を見れたんだから」
「いや、まあそれはそうなんだけど……」千家はそう言ってから首を振った。「いや、アイツは、どんな時でも元気、と言うか阿呆だ」
「ま、でも良かったじゃねえの。チームは違えど、また同じフィールドにいれんだからさ」
「そこはまあ、有坂には感謝かな」千家は頬を緩める。「でも、怒られるのはまた別問題。全てミドリの所為には変わりない」
「まあ、そう言った所でさ、どの道、雷は広範囲攻撃な訳だ。どう頑張っても被弾するだろ」
千家は口を真一文字にして、軽く天を仰いだ。
丁度会話が一区切りついたとみなして、私は先ほど生まれた疑問を口にする。
「あの、ミドリちゃん? 理香さんは元々知り合いだったみたいすけど、熊ノ森の監督さんも知り合いなんすか? タメ口だったし」
「ん?」碧は前を向いたまま続ける。「まあ、そうだな。ケイさんは兄ちゃんの後輩だしな」
「ミドリちゃんってお兄さんいたの?」
「あれ、言ってなかったっけ」
「初耳っすね」
「あ、そう」
「なんか、世間って狭いすよねえ」
私はしみじみと思う。
尤も、女子野球の世界自体が小さなコミュニティなのだから、見知らぬ隣人が実は友人の友人的な事はままあるのだろう。
「まあなあ、なんだかんだで繋がってるよな」碧は微かに目尻を落とす。「でも逆を言えば、それだけ母数が少ないって事だよ。男子程とは言わないけどさ、もう少し裾野が広がってくれたらって思うよ。競技人口が増加すれば世間の見方や待遇も変わる。ひいては、全体レヴェルの向上にも繋がる訳だしさ」
「……今日はどうしたんすか? 舞い上がるにしても、どうしてこんなにまともな事がポロポロと」
碧は目を細め、ほぼ予備動作無しで私の額を中指で弾いた。
「痛ぇ」額を押さえ、恨めし気な目を碧に向ける。「物理禁止!」
「舞い上がってるにしろ、お前みたいに喚き散らしてる訳じゃねえから、だいぶマシだろ」碧はさも可笑しそうに笑う。
ぽん、と私の肩に手が置かれた。
「まあ、今のは琥珀ちゃんが悪いって。舞い上がってるのは解るけど、一言多いってば」一葉は浮かべた憐憫の表情を笑みで上書きした。「って、一言多いのはいつもか」
「ま、狂犬だしね」綾が便乗する。
「皆してひどくない?」
「コハク、お前に素敵な言葉を贈ってやろう」碧は片頬を上げた。「|sve se vraca《スヴェ セ ヴラァチャ》, |sve se placa《スヴェ セ プラァチャ》」
「はい?」
首を傾げる私に、碧は満面の笑みで人差し指を突き付ける。
「自業自得」
どこの言語かは解らないけれど、また手の込んだ事を、と思いつつも肩を落とす。
まあ、正論だ。
「でも、まあさ」碧は言う。「こういうバカ話が出来てるのは良い事だとは思うよ。本当にガッチガチだと、こんな余裕ないからさ」
「……まあ、そすね」いつかの事を思い出し、私も頷く。
「大丈夫だとは思う。けど、最悪も頭に入れておかなくちゃな」
私だけではなく、共に歩く皆に聴こえる様に碧は言った。
それはおそらく、今のチーム状態についての事。
夏の様相、昂る気持ち。
何を抱えていようとも、本番はもう目の前まで来ている。
泣こうが喚こうが、三年生にとっては最後の夏の火蓋は今切られる。




