Onset of clockwork 〜 発芽 〜
ダイヤモンドの中からでも、一塁ベンチに纏わり付く不穏さは容易に解る。
最上級生にとって集大成とも言える最後の夏。
本番を目の前にしてあまり宜しくない緊張感が漂うのは、野球、基、スポーツを嗜む者にとっては誰しもが経験のある事なのだろう。
望む結果と、認めたくない結末が少し先の小箱に詰まっている。
どちらが飛び出るかを、ある程度自身の行動で手繰り寄せられるからこそ、万全の状態で臨みたいと皆考える。
完璧主義なら尚の事、少しの不安でさえ逃さず取り除いておきたい。
だから、たとえ些細な事であっても許せない、見逃せない事が増えてゆく。
切っ掛け自体は小さかろうとも、張り詰めた緊張が普段なら流せるものをその場に留まらせる。
些事であれども、積もれば澱む。澱みはネガティブな感情を増幅させる。真摯に向き合えば向き合う程に。
「ふ、二人とも落ち着いて」大きな身振りと共に新川の顔が向かい合う二人の間を左右する。
「ミスは誰にだってあるんだから」主将の坂巻がフォローを入れる。「全部が全部、流せって訳じゃないけど、細かい所にこだわり過ぎるのは良くない。切り替えよう」
普段なら坂巻の打つ手の平の音が切り替えの合図。
けれど、この時はそれで事が済みはしなかった。
「別にこだわっている訳じゃないんだよなあ」件の一人、宮森が言いながら肩を竦める。「純粋な疑問に近い。それをきいてるだけだって」
「私の考えは伝えたわ」宮森に対峙する荻野が短く答えた。
「だからさあ」宮森が帽子を脱ぎ、額に張り付いた髪を払う。「それが納得いかないから、詳細を求めてるんじゃん」
「詳細も何も、言った事が全てよ。それ以上でもそれ以下でもない」
荻野は淡々と言うも、彼女にしては珍しく意固地になっている様に私には見えた。
「じゃあ、何?」宮森は微かに表情を曇らせた。「今のミウが真実の姿って訳? 私にはそうは思えないけど? ああいう場面、いつものミウならレフト線に打ってるだろ、なんで引っ張ったのさ」
「だからさっきも言った様に最適解。ランナは千家。当ててレフト前に落とすより右方向に打った方が進塁ないし得点する確率は高い。右中間に落ちれば得点に加えて同じ状況でミヤに回る。けれど、打球は右翼手の定位置に飛んでしまった。だから、ミスというのなら私のミス」
「あのさあ、別に咎めてる訳じゃないんだよ。実際進塁打にはなったし。でもさ……」宮森の表情は更に翳りを増す。うなじを掻く手にも力が入る。「カウント的にあそこじゃなきゃいけない理由もないだろ。左対左、しかもカーブ。外に逃げてく球なんだから、手ぇ出すなら敢えて引っ張る必要なんてないじゃんか。逆らわず流せば良い。それってミウが得意とする所だろ。練習とは言え、無理するとこじゃなくね? 無難が正義なんて言わないけど、その選択をするメリットも大してない。私には最適解とは思えない」
荻野は静かだった。
普段から常に落ち着いた装いなのでそこは変わらない。
けれど纏っている雰囲気はこれまで見た事のないそれ。
遠目で見ても表情はやや強張っているのが解った。
私の横目には集まり出す守備陣の姿。
皆もまた尋常ではない、と察したのだろう。私の傍、少し距離をあけて佇んでいた理香が動き出した。
つい、私もつられて彼女の後を追う。
「何揉めてん……」
理香が近付きながら言葉を発するも、それを遮るかの様に、微かな怒気を孕んだ声が飛んだ。
「なら、ミヤだって抜けた球位打ち返して見せなさいな。外のカーブを引っ張るよりも簡単じゃない。言い訳する前に反省すべきでしょう?」
「……それは解ってるよ!」つい飛び出てしまった、とばかりに宮森は咄嗟に口に手をやり、肩を落とす。「ごめん、感情的になった。でも、でもさ、ミウ。ミウだってさ……」
「お前ら良い加減にしろよ」溜息混じりにそう言って、理香が一塁ベンチに群がる乙女達に中に割り込んでゆく。「言い合いして解決すんなら好きなだけしろよ。でも、今はなんの時間? 練習時間削ってまでやる事かよ」
「割と由々しき事態っすよ」宮森は臆せず言い切る。「ミウが明らかにおかしい。確かに本番目前って事で皆少し硬いけど、その範囲を優に超えてるすよ。私がその分カヴァーするって言いたいとこだけど、そこまでの力はないから……」
目を逸らす宮森に理香がぽつりと零す。
「……お前、妙に謙虚な所あるよな」そう言ってから直ぐに切り替え、荻野に水を向ける。「って、遥は言ってるけど?」
「特に私は何も」
理香は暫し荻野を見つめ、小さく頷いた。
「解った。美羽もそう言ってる訳だし、取り敢えず今この件は保留」理香は件の二人を交互に見た。「お前ら同室なんだし、後でじっくり話し合うなりなんなりすれば良い。でも感情的になって喧嘩するなよ?」
言葉を紡ぎながらも横目には入っていたのだろう、理香は集まった面々を流し見て小さく肩を落とした。
「私にも経験あるけどさ、この時期ってどうしてもヒリつくんだよ。理想通りに物事が進む事はほぼあり得ないし、だからこそ皆どこかしらに不安を抱えてる。フラットな状態なら流せる事も、夏っていうプレッシャに追われて、やけに目に付いちゃうからな。悩むななんて言わない。そんなん心が弱いからとか言う人もいるけど、万人がプレッシャ耐性ある訳じゃないんだし、拗らせて普段のプレイすら出来なかったら目も当てられないんだしさ」理香はここで一息付いた。「これは私の実体験から導き出した答え。だから、腹に一物あるヤツは私ん所においで。お話しよう。そうすれば多少は気が晴れるからさ。お前らの背中位明後日まで蹴飛ばしてやるからさ」
理香は自身を取り囲む面々を流し見てニヤリと笑った。
皆の反応に小さく頷くと、顔を傾け一塁ベンチで固まる最上級生に向けて言葉を紡ぐ。
「特に三年生はさ……」
「相変わらずだなあ、リカちゃん」いつの間に私の隣に来ていた碧が零した。「言い方、って言ってやりたいよなあ」
「……そっくりそのまま自分にも当てはまるじゃないすか」理香の演説を聴きつつ、私は小声で返す。
「言うじゃねえの」碧は片頬を上げる。「んで、お前はいつだったかみたいな緊張はないの?」
「またそうやってぶり返す……」碧に白い目を向けつつ、私は続ける。「プレッシャって意味じゃ上級生とは違いますからね。気楽とは言いませんけど」
「こういう言い方はアレだけどさ……」碧は目線を一塁ベンチに向けたまま、私に顔を寄せ声を細める。「私らは負けても次あるからさ、ミウさん達を慮る事は出来ても共感までは出来ないよな」
私は頷くに留めた。
尤もだと思う。
これで最後ではないのだ、という緩みにも似た物があるのは確か。
機会がまだある事がプレッシャを和らげている。
だからこそ、それらが無い正真正銘最後の機会を前にした三年生の心境は、あの女帝すらヒリつかせる過酷な物なのだろう。
皆がチームの事を考えて行動するからこそ、万全の状態で臨みたいからこそ、些細な事でも目に付いてしまう。
宮森の疑問は正しい。
チームの核となる女帝の調子がおかしいのであれば不安にもなるだろう。
おそらく宮森は前々からその異変に気付いていたのだろう。
彼女は女帝と同室、微かな違和感があれば気にも留める。
荻野もまた自覚はあるのだろう。
だからこそ、これまでの様に表面こそ正論で固められてはいるけれど、どこか曖昧な部分があり、そこから感情が見え隠れしている。
三年生とそれ以外では確実に心境に違いがある。
だから、彼女達の心の問題に関しては舞台の違う私達ではどうにもならない。
碧の言う様に慮る事しか出来ないのが、少しばかりもどかしくもある。
けれど、これが最後の夏を前にした現実である事もまた確か。
私も碧も、いずれはそれを経験する立場にはなる。あまり褒められた状況では無いのだけれど、それも”夏”の一部、翳りは見えどもしっかりと目に焼き付けておかなければ、と私は思う。
「……取り敢えず、練習再開な」理香は締めとばかりに数回手の平を打ちながら、集まった皆を散らした。「時間は有限、何となくでプレイするなよ」
グラウンドに響き渡る返答は力強かった。
けれど。
頭では理解はしている。しているけれど、心の騒めきをうまく鎮められない。理屈は解っていようとも、結果が伴わないもどかしさ。おそらくそれが彼女をそうさせる。
初回こそ、宮森が言った様なミスじみたプレイがあったにせよ、女帝は第二、第三打席と安打を打っている。打撃練のリザルトとしては可もなく不可もなくといった形に映るも、彼女の表情はまるで冴えなかった。
そして冴えないまま、投手の調整としてブルペンにいる。
ファーストチョイス組の打撃練の間ロードに出ていた上条達が戻り、入れ替えで登板した圭と綾がロードへ。
藤野はセカンドチョイス組として、碧と湊はその相手をする為にグラウンド。
荻野は上条と組み右端のレーン。
その隣、真ん中に私と笹川、左端にみなみと園川という並び。
故に肩慣らしのキャッチボールに勤しみながらも、横目に女帝の姿が映り込む。
近寄り難い。
薄くなったとは言え、元より彼女の醸し出すストイックさによる壁はある。
けれど、それとはまた別種の近寄り難さがこの時の荻野にはあった。
良い意味で捉えるのなら、彼女もまた人の子であり、一介の女子高生だからこその、ある種の人間らしい弱さではあるのだろう。
それが垣間見えて、遠い存在だった彼女が割と近くにいたのだと感じたのだけれど、それはあくまでプラスを探した結果。
近寄り難さを解消する術には繋がらない。
笹川が投げ返しながら徐々に私との距離を縮める。肩慣らしは十分という事なのだろう。と、いう事で軽く打ち合わせ。
投手陣も全体打撃練の登板含め、日毎にこなすメニュウは決まっている。
けれど、その詳細、主に球数や調整方法等はある程度は個人に委ねられている。
勿論、勝手気ままという訳ではなく、投手コーチ的立場の谷教諭と相談の上ではあるけれど。
「ユキちゃん、明日ファースト組だよね? 今日はどうする?」
調整方法は人それぞれ、こちらから提示する事はほぼ無く、投手の意向を呑むのみ。
まあ、時にやり過ぎる阿呆もいるので、それは止めるのだけれど。
「そうだなあ」笹川は微かに上にした目線を戻す。「60目安で三分け」
投げ過ぎが怪我に繋がるとはよく言われるけれど、それは無謀にやるからだ。
試合では相当数投げるのだし、その練習なくしては本番はこなせない。
アフタケアをしっかりして、より大きなスパンでの球数管理をすれば問題ない。
投げ過ぎも投げなさ過ぎも宜しくない。
要はバランスなのだ。
尤も、これは谷教諭の受け売りなのだけれど。
「解った。で、三分割?」
「ええとね、制球に30程度であとは等分かな。私も数えるけど斑目も数えておいて」
「オッケ。じゃ、全力からね。よろしくお願いします」私はそう言って笹川のグラブにミットを合わせる。
ただ闇雲に投げ込んでも、それは”投げた”という経験値が積もるだけ。それは酷く勿体無い、と谷教諭は言い切る。
何をどう投げようがそれは蓄積されるのだから、一球一球に意味を持たせた方が効率は良い。試合となれば様々な事が起こり得る。それに対処出来る様に基本の底上げをする、その為の練習。
三分け、というのは、全力の直球、制球重視、そして変化球。
人によっては、そのカテゴリ内でも更に分けて考える乙女もいる。
主に上条であったり、圭であったり。
課題を与えられれば、それをしっかり自身で噛み砕き自分に還元出来る乙女ばかり。
それはかなり恵まれている環境であると言える。
そういう人達に囲まれているとそれが日常、普段、普通になってしまう。
恵まれている事が特別ではなく日常となれば、自分のいる場所の平均値が高い事を忘れさせ、最悪の想定を見過ごす要因になりかねない。
何で出来ないのさ、という言葉は恵まれた環境に慣れてしまったが故の傲慢にも映る。
構えたミットよりかなりズレたコースに球が来た。
力はあり、置きに行った球ではないのは確か。
けれど、制球重視という枠の中ではあまり褒められたものではない。
かつての大屋政権でトラウマじみたものを刻まれた笹川は、当時よりは随分マシにはなったとは言え、元々そこまで制球は良くない。
繊細な球の出し入れで打ち取る綾の様なスタイルではなく、球速や球威で押し込むのが笹川。
それが彼女の個性というのは解ってはいるのだけれど、せめて逆球は何とかならんものか、と私は内心思う。
そういう不測の事態ですら計算に組み込めるのが良い捕手なのだろうけれど、残念ながら私はその経験が乏しい。
思い返せば、私は恵まれていたのだろう。
以前、藤野に言われた事があった。
当時はそんなものか、と思っていたのだけれど、幸運にも似たそれは周り巡って私の首を緩やかに絞める。
「不服そうな顔してるわね」ちら、と私に向けた目を戻し、荻野は淡々と言った。
口調こそ普段のそれ。けれど、覗き見た女帝の目は笑っていない。
いつもなら愉しげな笑みを浮かべ揚げ足を取るのが彼女。揚げ足取りは彼女の娯楽の範疇という認識ではあるのだけれど、この時のそれに愉しさは微塵も感じられなかった。
だから、言葉の響きこそ普段と大して変わらないのにも拘らず妙なプレッシャを感じてしまう。
「いやいや、そんな……」
下手な事を言える雰囲気ではなく曖昧な答えでお茶を濁す。
ダメ出しには慣れたものではあるけれど、出来る事なら今はやめて欲しいと思う。その後の展開は容易に予想可能。そしてそれはおそらく良い物にはならない。
「では、何かしら?」私の思惑などお構いないなしに、荻野は笑っていない目を私に向ける。「言ってごらんなさいな」
「え、ええと……」
正直に言うか、はたまた再びお茶を濁すか、と逡巡していると、溜まりかねたのか助け舟が舞い降りる。
「おいおい、ラメちゃんにまで絡むなよ」僅かな苦笑を浮かべ上条がこちらにやって来た。
「別に絡んでなんかいないわ」荻野は私から目を逸らさずに返す。「質問しているだけ」
「その顔でされちゃあ、それは質問っていわねえよ」上条は小さく肩を落とす。「一回鏡見てみなよ」
ブルペンは広くは無い。
雰囲気の変化程度なら容易に伝わる。
察した笹川が急ぎ足でやって来る。
園川、みなみ組は遠くで見守る選択をした様だった。
笹川の目に困惑の色が浮かび、どうしたの、もしくは今度は何をやらかしたの、と無言の問い掛け。
私は首を振る。
先程の宮森との一件もある、上条の言う通り、八つ当たりとも取れなくはない。けれど、あの女帝が自身の感情に振り回されるというのも想像し難い。とは言え、春先に味わった蛙の気持ちの再来は事実。蛇じみた荻野は私を見つめたままで、上条の言葉には応えなかった。
「プレッシャかけるとこかよ」溜め息を零しつつ、堪りかねたエースが強引に割って入る。「で、ラメちゃんは何したの?」
まあ、そこはそうだろうな、と思う。
過去の事例からすれば大抵のやらかしは私派生、それは疑いもするだろう。
「少しだけ、おや、と思った、と言いますか……」誰からも目線を外し私は言った。
「もっと具体的に言いなさいな」荻野が言う。「咎めようとかは微塵も思ってない。さっきのアレがあるから萎縮してしまうのも解らなくは無いけれど、別に苛立っている訳ではない。私は普通よ」
「……その顔で言う?」上条が呆れ混じりの声を出す。「目ぇ笑ってねえよ?」
「失礼ね。元からこういう顔なのだけれど」
そう言ってから、荻野は小さな吐息と共に漸く頬を緩めた。
それによって彼女の言葉の信憑性が増したのだろう、微かな安堵が周りに広がる。
「そんで?」
上条に促されたのだけれど、内容が内容なだけに私は躊躇う。
そのままを口にすれば、いくら笹川とは言え良い気はしないだろう。
「……多分、私がコントロールミスったからだよね?」空気を読んだのだろう、申し訳なさそうに笹川が自ら切り出した。
「いや、別にそういう訳じゃ……」私は首を振りつつも、更に口籠る。
「制球重視なのに構えた所の逆に行けばそうは思うよね」笹川はそう言うと、荻野に顔を向ける。「と、いう訳なんで、斑目は悪くないですよ。練習なんですから、やれて当然まで持っていけてない私がダメです」
荻野は暫く笹川を見つめた後、改めて口を開いた。
「ユキの心構えは解る。でもね」荻野は私と笹川をその視界に入れる。「キツい事を言うけれど、それが現実ではなくて? 明確な目標があるのは素晴らしい、そこまでの道のりの逆算もし易いし。でも現時点でユキは制球に意識を向けたとしても逆球になる事が多い。改善中のそれに対して首を傾げるのはどうなの、って私は思う。だから斑目に尋ねているの」
僅かな空白。
上条は一旦帽子を脱ぎ額を拭い、笹川は居心地悪そうにグラブを弄ぶ。
荻野は私から目線を外そうとはしない。
「ま、こうなった以上、正直に白状した方が身の為じゃない?」若干諦めが混じった声で上条が言う。「本人も咎めるつもりはないって言ってる訳だし」
解ってるから気にしない、とでも言う様に、笹川が無言で私を促す。
こうなれば仕方ない、と私は重い口を開く。
「ざっくり言えば、こうだったら良いのに、が顔に出ました」
「でしょうね」一息分の間を置いて荻野は頷く。「でも、そんな事ユキだって解っている。それを物にする為の練習で貴女がそういう態度を見せる事になんの意味があるのかしら」
「……めっちゃ咎めてんじゃんか」上条が苦笑した。「でも、まあそこは仕方ない、ミウが正しいわ。でも、ラメちゃんの気持ちも解らなくは無いけどね。ユキの制球が良くなれば私に並ぶ。まあ、多少経験値に差があるけど、それでも戦力とするなら確実なプラス。チームの事考えるなら、別に悪い事でもないんじゃないの」
「そう」荻野は頷く。「別に悪い事じゃない。でもね、カミだって解っているんでしょう?」
「何が?」上条は心当たりが見付けられず、本心から首を傾げた。
「今、この時点でこういう事が起こっている理由」
「はあ?」上条は荻野を見遣る。当の女帝は私を見つめているので、自然と上条も私に目を流した。そこで彼女は何かに気付く。「ああ、あれか。でも今言う事?」
「今だから、じゃない」
おそらく、私に関する何かなのは解った。
けれど、その何かには皆目見当がつかない。つかないまま、私は置いてきぼりにされ、二人の間で話が進む。
「まあ、いずれ出る事だし、しょうがないか」上条はそう言って荻野を促した。
女帝は一息吐いた。
「斑目。貴女の感覚は些かレヴェルが高過ぎる。いや、少し違うか」そう言って荻野は小さく首を振った。「解りやすく言えば投手に求め過ぎなのよ。貴女が思う程、平均値は高くはない。これまで貴女と組んだ投手が貴女に合っていただけ。ただの幸運。世の中には、そううまくいかない事の方が多い」
私としては、自分が今出来る事をこなしているつもり。
それもなんとかギリギリでついて行けているという認識。
私の前に立ちはだかる壁は斯くも高く、それを見ているのにも拘らず自分が優秀だなんて思える程傲慢にはなれないし、最低限の客観視は持てているつもり。
だから。
「……それは解っていると思いますけど」
「いや、解っていない」荻野は即答した。
「え?」
「ラメちゃんはさ、まあ、良い捕手だとは思うよ。キャッチング上手いしさ」上条は頬を緩める。「でも、限定的」
限定的とはどういう事だろう。
確かに春先よりは身体が出来てきた自覚はあるけれど、それでも周りと比べるのなら非力な部類には入る。そのままの意味での力のなさの事を言っているのだろうか、と私は考えたのだけれど、その実、答えは明後日の方からやって来た。
「貴女は主観が強過ぎる。そう言えば、以前にも似た様な事あったわね。あれは、熊ノ森戦だったかしら」
「だな」上条は頷く。「ストレートを信じない信仰のヤツな」
「あの場面、取れる手立てが少なかったのは事実。でもその中でどうにかしなければならないのが現実。ストレートを信用していないという思想があったにせよ、使わなければどうにもならない。では、どう使うか。貴女にはそこが欠けている。貴女の中には投手と捕手しかない。そこに打者という存在が関与していない。これは打てないという配球があったとして、それを実践出来る投手がいたとしても、そこに打者が関与していないのなら机上の空論と何ら変わりがない。このまま続けていれば確実に打たれる日が来る」
「私みたいな頭百個程飛び抜けた優秀な投手がいれば、それも可能だと思う。確かにウチの投手陣は優秀だけど、理想の配球だけで勝てる程全国は甘くないんじゃない?」
「ユキに理想を求めるのは悪くはない。私だってそうあって欲しいと思うわ。でも、それと現実は別で考えなくてはいけない。今出来る事を把握し、今目の前にある状況全ての中から最適解を選ばないと。一人相撲で勝てる程世の中は甘くは無い」
全身から力が抜けた様な感覚を覚えた。
言われてみれば心当たりは浮かんでくる。
紅白戦から始まり、片瀬熊ノ森、常桜学園とマスクを被ったけれど、私はリードと呼べるものをしていたのだろうか。
頭の中に打者はいる。データとしてもある。
けれど、それは生きていない。
その時の打者の動きを逐一取り入れていたのだろうか。
答えは言うまでもない。私は殆ど見ていない。
データから傾向を見出しその対処をしていただけで、僅か前方にいる乙女のリアルな挙動に大して気を向けてはいなかった。
「貴女の攻め方は評価に値する。だからこそ、もっと広く視野を持ちなさい。一球ごとに打者の反応を見つつその都度組み直す。そうすればより確実に打ち取る事が出来るでしょう?」
そうなのだ。
これまで組んだ投手。
中沢明日香には伝家の宝刀がありそれを投げていれば事足りた。
香坂綾は制球。厳しいコースを突けば余程の打者ではない限りアジャストは難しい。
夏目湊然り、青山圭然り。
どの投手にも武器があり、ある意味、その力でゴリ押ししていただけ。
打者の思惑なんて考えもせず、高い能力でねじ伏せる。
それはただ投手に恵まれていただけ。
配球を考えはするけれど、そんな投手がいるのなら私でなくても出来るお仕事なのだ。
少し齧れば誰でも出来る事で、投手におぶさっているだけ。
投手ありきの、酷く限定的な捕手もどき。
クソ野郎は私だ。
「……色々とすみませんでした」
「別に謝らなくても良いわ。次に繋げてくれるのならね」そう言って荻野は小さく頬を緩めた。
「ラメちゃんの事だからそのうち気付くって思ってたんだけださ、全然ダメだったな」上条が笑う。「ホントは査定期間中にって話してたんだけど、こっちもミヤの尻拭いとかもあって後回しになっちゃててね、そこは先輩としてごめんしとく」
「いやいやいや、やめて下さいよ」どう考えても正しいのは荻野達。にも拘らず丁重な扱い方をされて私は慌てふためいてしまった。その姿がさぞ滑稽に映ったのだろう、笹川が笑いを堪えているのが横目に映った。
「斑目は優秀な投手としか組んでいないのね。その経験が基本となるから自ずと平均値は高くなってしまう。悪い事ではないし、得ようと思ってもそうそう得られる物でもないのだけれど、そういう世界だけではないという事を頭に入れておきなさいな。例えば、ユキに関してもそう。今のユキでどうするか。逆球になるのなら、それでも大丈夫な時に使えば良い。その為には自分達だけではなく、打者の癖だったり、狙いだったりを読まなくてはダメ。今までが幸運過ぎた。良かったわね、今気付けて」
「はい」
私は居住まいを正し、改めて荻野に身体を向けて首を垂れた。
ここに来て、漸く藤野言葉の意味が解った気がした。
これまで組んだ投手は皆優秀で、ある程度自分の理想を再現してくれた。
私はそこに甘えていたのだろう。
今解って良かった。気付かないまま実戦となれば傷は確実に深くなる。
今一度改めよう、と私は心に刻む。
「変に中断してしまったけれど、続けましょう」
荻野の一声で、上条が口元を上げつつ踵を返す。
笹川も同様に動き出したのだけれど、途中でそれを止め振り返る。
「ダメならダメでそういう顔はして良いから。私だってこれで良いなんて思ってないんだし、変に気を遣われるよりは、ね」
「……解った」
「うん、よろしい」笹川は口元を上げて頷き背を向けた。
取り敢えずやり直しだな、と思っていると、何故か入り口付近に防具フル装備姿の碧を認めた。
どうして、と思う傍、彼女はそそくさとブルペンに入って来た。
皆の視線を浴びつつ荻野の元に。
「お疲れ様です」小さく頭を下げると、碧は眉根を寄せ対岸にいる投手陣をちらりと見る。「誰か投げられません?」
「……どういう事?」荻野がきいた。
「ちょっと、ミナトが……」
碧はそう言うと、振り返り入り口に向かって顎をしゃくる。
つられて私も目を向けると、そこには今まで見た事のない、バツの悪そうな顔をした湊が佇んでいた。




