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アイデスの憂鬱  作者: 森住千紘
Hundred flowers : 3  〜 花咲く命、ある限り 〜
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 Midsummer night’s dream  〜 胸に秘めるは希望の夜 〜

 日中に降った雨が空に還りきらず漂っている。


 夜とは言え、風も無いので酷く蒸し暑い。

 額から落ちた汗が目に染みて、一旦バットを壁に立て掛ける。

 傍に置いたタオルで顔を拭い夜空を見上げた。薄い雲に月が隠れている。円に近い所為か明るさは程良く、疎な雲のシルエットが夜空に浮かんでいた。おそらく明日は晴れるだろう、そんな事を考えた。


 七月も上旬を過ぎ来たる日は近い。

 最後の追い込み、と日々の練習は査定期間並みに苛烈を極めている。けれど、あの査定期間を経験したからか、身体は然程疲労を蓄積してはいない。

 音楽を聴きながらの夜のルーティンも楽々とは言えないけれど、こなせてしまう。


 一息、とばかりにドリンクを口に含み、再びバットに手を伸ばした時、家の敷地に原付のがなる音が滑り込んで来た。

 徐々にテンポを落とし、それは止まる。

 私の周囲は再びプレイヤから流れる音楽で彩られる。


 音楽の所為で私の所在が解ったのだろう、帰宅した兄は直ぐに玄関に向かわずに、私がいる裏庭にやって来た。


「おつかれ。精が出ますねえ」兄はやや疲労感を感じさせる声で言った。

「おかえり。今日早いじゃん」振りかけたバットを掲げ直して私は言う。「ちょっとスウィング見て」


 簡易照明に照らされる中で、私はバットを振る。

 流れる音楽の中に、空気を切る音が混じる。


「若干疲れてる? ちとヘッドが下がってる」兄は苦笑した。「ま、俺が言える事では無いんだけど、やり過ぎは逆効果。変な癖つく前にやめた方が良い」

「あ、そう」


 私は淡々と答える。

 兄の言う事ならば従うまで。

 本職は投手とは言え、現役時代はクリンナップを任されていたのだから、信憑性はままある。やや散らばった道具を片付け、電灯を消した。兄の姿はもう無かった。


 シャワーを浴びて、部屋に戻りストレッチをこなした。

 時刻は十時を過ぎた辺り。寝るには少しだけ早い時間。

 ほんの少しの時間を持て余す形、さてどうしよう、と考えた所で部屋のドアがノックされた。適当に返事をすると、湯上りの兄が顔を出した。


「お母さんに聞いた」頭にタオルを巻いた状態でニヤリと笑う。「背番号貰ったんだって?」

「ああ、うん」


 兄は手にした携帯端末を操作し、そこに目を落とした。


「見慣れない、っちゃあそうだけど、女子は割と自由なのな」兄は端末を私に向けた。


 画面には母が兄に送ったであろう、私のユニフォームが写っていた。

 いつの間に、という些細な疑問が湧くけれど、まあ、そんな事はどうでも良いか、と華麗に流す。あの母なら、何をしていても不思議ではない。ファンタジスタなのだ、母は。


「これは、22番目って事? 確か硬式女子ってベンチ入り最大25人だよな」

「そうだけど、22番目?」

「背番号って大抵上から振ってくじゃんか。だから順列22番目って事」

「ああ、そういう」


 チームによってはそうなのだろう。

 特に男子は伝統という名の決め事が多い。

 兄はその中心で生きて来た、そう思うのも仕方は無い。


 私は簡単に今のチームの事を説明した。

 同じ屋根の下にはいるけれど、普段あまり話すタイミングがないのも事実。大抵、兄が帰宅する時間は、私が就寝する時間を超えている。会話自体が希少化している。


「へえ」兄は少し感心した様だった。「面白い事してんのね、葉山って。男子は割と厳格なイメージだったけど」

「そういうフランクな部分は女子の良い所だと思うんだよね。ガチガチに縛って誰もついてこないんじゃあダメだしさ。勿論やる事やるのが前提だけど」

「まあ、そだよな」兄はドア付近に腰を下ろし、胡座をかいた。「その場所毎に平均値は違うんだから、そこに合わせんといかんよな。そういう意味では、葉山に行って正解だったな。お前、堅苦しいの嫌いだもんな」

「堅苦しいっていうより、意味の無い締め付けが、ね」

「伝統を重んじる所には大抵あるからな、そういうの」兄はつい漏れ出た苦笑を鎮め、再び尋ねた。「そういや、前にうちに来た子達はどうなってんの? まだ連絡取ってる? あの左の子、あれにはビックリしたよ。こういう言い方はアレだけどさ、あのまま成長続ければ、力を入れてない県立校辺りなら完封するんじゃねえの」

「まあ、ね」


 中沢明日香とは暇を見つけては連絡を取り合っていた。

 友人であるから、というのが大前提ではあるのだけれど、彼女達の動向は、何せ私の、綾を含めれば私達の目標でもあるのだから、考えるな、というのは中々に無理な相談だ。


 とは言え、ここ数週間は地獄巡りじみた査定期間故にある程度自粛して、メッセージアプリでの簡単な近況報告に留めていた。

 会話というのなら次のオフにでも、と考えていた所だったのだけれど、丁度時間もある事だしと思い改め、兄には大業に礼を言って、退席して頂いた。


 飲み物を用意してから端末に手を掛けた。

 取り敢えずメッセージを送る。

 

 暫くネットニュースを眺めていると不意に画面が切り替わった。

 寝転がっていた私は、一旦起き上がりベッドに座り直して応答した。

 微かな雑音の中に久しぶりの明日香の声。


「アンちゃん、ゴブサタ。もう落ち着いたの?」

「いやあ、忙しないのは変わってないよ。でも、まあ、少しは余裕出来たかなって。そっちは? 明日香の方は大事ない?」 

「ウチはいたって普通だよう。まあ、夏間近だから多少はピリピリしてるけど」

「まあ、そういう意味ならどこも同じだよね」

「そういやさ……」明日香は端末の向こうで少し考え込んだ。「アンちゃんは夏、出る?」


 これまた直球だなあ、なんて事を思う。

 そう言えば、うちのシステムの話はなんとなくしてはいたのだけれど、メンバに選ばれた事をまだ報告していなかった。


「そうそう、言ってなかったけど、メンバには選ばれたよ」少しだけ苦笑い。「第三捕手だけどね」

「さっすが、アンちゃん」嬉々とした声を上げ、奥から手の平を打つ音がする。「荻野さんや、結城さんがいるんだから、まあ、そこは考えちゃダメだよね」

「だねえ。壁は高いよ」私は笑う。「で、そっちは?」

「ああ、うん」明日香は少しだけ口籠る。「タマキが怪我しちゃってさ、今回メンバから外れた」

「え、そうなの? で? 症状は?」


 明日香は言葉を発さず、端末の奥から小さな雑音が流れて来る。


「おいおい、辛気臭え感じ出してんじゃねえよ、アンち」


 唐突に出て来た、陽気極まるこの軽い感じ。


「沖田?!」

「正解」沖田環はからからと笑った。おそらく、端末の向こう側で手の平を返し、人差し指を突き出しているに違いない。「どうよ、元気?」


 ありありと浮かび上がる光景に、少しだけ笑いが込み上げる。


「怪我人からご機嫌伺われるとは思わなかったな。まあ、私は元気だよ。で、お前はどうなのさ」

「私が元気じゃない時なんてあったか?」

「……知らねえよ。そもそも、大して会ってねえじゃんか。それで、怪我したって?」

「ああね、クロスプレイで足首やった。まあ、怪我自体は大した事は無いんだけど、大事を取って辞退したわ。だから、別にアンちが心配する様な落ち込みタマちゃんじゃないのよ? つうか、綾から聞いてないの?」


 あのやろう。


「……香坂が言うと思うか?」


 端末の奥からくぐもった笑いが漏れる。


「まあ、言わねえだろうな。あいつはあいつで必死ぽいからなあ。多分初めてだったんじゃねえの? 追い込まれたのって。冷静は冷静なんだろうけど、目に見えてる差が解っちまうと、どうしても心は騒めくんだろうよ」


 おそらく環達もそれなりに連絡を取り合っているのだろう。


「……さすが、元女房だな」

「再婚相手に言われても嬉しくねえな」環は嬉々とした声を出す。

「それを言うなら、お前だってそうじゃねえか」私がそう言うと、端末が一瞬静まった。奥から微かに会話の断片が届く。「うん?」

「ああ、言ってなかったらしいな、明日香のヤツ」再び環の声。「私、捕手辞めたんだ」

「はあ?」また、とんでもない事が唐突に飛び出した。でも。「お前、クロスプレイって」

「ああ、だから、ランナの方で。なんて言うの? こう、うまい具合に、ブロックしたキャッチャのレガースと滑り込んだ足首がねマッチング」

「……言い方な?」呆れ混じりの溜め息も出よう。「で、なんで辞めたのさ?」

「初めて会った時も言ったよ。なんなら2番の座もあげちゃうってさ」環は笑う。「私、アンち程捕手にこだわりないのよ。タメに良い捕手いるんだ。でもそいつって打撃がからっきしなのな。だからさ、そいつを捕手にして、その分私は打撃頑張る、みたいな」

「お前軽いなあ、ホントに。何なの? 埼玉の人間は、みんな効率重視の省エネ?」

「微妙にバカにされてる気がしないでもないが、まあ私らに関しては決断は早いかもね。時間は有限じゃない。なら最適解を素早く出せる様に、ってな」

「まあ、お前が決めたんなら、外野がとやかく言う事じゃない、か」

「私は外野にコンバートしたけどな」環は自慢げに言い切る。

「……うるせえなあ」

「……と」環がそう言葉を漏らし、再びの静寂。そして雑音。

「はい、私です」


 話し手が明日香に変わった。


「ああ」私はしみじみと続ける。「ホント、色々変化ってあるよなあ」

「まあねえ。環境の変化に応じてその都度リアクション取らないと置いてかれちゃうよね。信念もさ、環境との互換性がなければ、ただの我が儘だもんねえ」

「また、えらく小難しい事言うねえ」


 明日香は端末の奥で小さな溜め息を吐いた。


「ほんの少しの変化でさ、全てが丸く収まるのに、頑なな信念の所為で見えている理想から外れてしまう。すごい勿体無いよねえ」

「うん?」私は端末を耳に当てたまま首を傾げる。

「さっきのお話ね。私も背番号貰えたよ。一年生って事で、17番」明日香は言う。「でも、夏の初戦の先発は私」

「はあ?」


 男子に比べ、ほんの些細なきっかけで優劣が真逆になる程度には女子のチーム力は割と拮抗している様に感じる。

 所謂強豪校が道半ばで折れるのはザラにある。まさかそんな、が簡単に起こり得る環境とも言える。

 だからこそ、まあ、これは男子でもある程度は共通なのだろうけれど、負けたら終わりのトーナメントにおいて、余程の事がなければ戦力の温存は得策では無い。

 故に、初戦からフルメンバで臨むのが正攻法。


 そう仮定するのであれば、浦和翔葉の事実上のエースは中沢明日香、という事になる。

 全国で名を馳せる強豪校において、上級生を押し退けての一年生エース。

 明日香が凄いのか、かつての葉山の様に何らかの問題を抱え、そうせざるを得ないのか。

 とは言え。


「……つうかさ、そういう事言っちゃって良いの? 私らは友人かもだけど、対戦相手でもあるんだよ?」


 明日香が笑った。


「アンちゃんは友達だよう。トーナメント見たでしょ? ヤマが違うから、葉山とは当たるとしたら決勝。お互いそこまで勝ち残れるなら、データは十分。この情報に大して価値なんかないよ」

「そうかもだけどさ」

「……正直、今エースはやりたくないよ」明日香は少し落胆した様な声色をする。「その椅子は今私が座るべきじゃないと思う。いずれ座る事にはなるんだから、今座るべき人が座らないとなあ、って思うんだよね」


 天才らしい豪胆な発言だなあ、と少しだけ懐かしくも思う。

 と、同時にどこぞで聞いた様な、靄る問題が見え隠れ。

 ああ、どこでもあるもんだなあ、としみじみ思う。


「前も言ったけどさ、ウチも大概だったからね。どうにか出来るんなら、した方が良いんだろうけどさ……」

「うん、解ってる。だから、これは愚痴なの」明日香は力無く笑った。「勿論やりたくない訳じゃ無いけど、何とかならないかなあ、って希望。先輩達全てが納得してる訳じゃなさそうだしさ」

「監督には言ったの?」

「ううん。言わなくても答えは解るから、どうしようもない」


 八方塞がりじみているという事なのかな、と何となく想像する。

 かつて私達も似た様な経験をした。

 エースを取るか、チームを取るかの究極の二択。どちらを選んでも相応に傷が生じる選択。選択しなければ事は進まない。けれど選択なんぞしたくは無い、というジレンマ。まあ、しんどい境遇ではある。

 私が思考を巡らせている傍ら、端末は微かな雑音を流している。


「私から見てもさあ」この声は環だ。私が考えを巡らせている間に交代したらしい。「1番の先輩がエースだと思うよ。でも若干性格に難があってねえ」

「……いや、だから言い方よ」

「つってもな、アンち。そのまんまだからしょうがねえ」環は一息吐く。「互いに捕手な訳よ、解るだろ? 妄信した信仰の危うさをさ」


 ああ、と直ぐに閃いた。なるほど、確かにそれは恐ろしい。

 信仰が何であるか、も問題ではあるのだろうけれど、何事も主観のみというのはいただけない。

 客観視しなければ、良し悪しは感情論で決まってしまう。

 単なる好み、では大勢を納得させる事は出来ないだろう。ましてや、結果に繋がるとも思えない。仮にそれらが両立出来るとするのなら、それは頭を天界にまで突き伸ばした天才の成せる技に他ならない。


「で、何信仰なのよ」

「ストレート」環は淡々と言った。「良いじゃん、って思うよ、それ聞いただけではさ。だからこう付け加えさせてもらう。その人さ、変化球ピッチャなの」

「……ちょっと言ってる事が解らねえ」

「だから、まんまなんだって。直球は平々凡々。けど、変化球はどれを取っても一級品。本人にその自覚もあるんだけど、決め球は直球と言って憚らんのよ。理屈は解るよ。でも、そこにはどうにもならない差があんのよ。私からしたらさ、本人が言う所のストレートは、失投したチェンジアップ、ただの棒球。んなもん決め球になんか使えるかって。サインには首振るし、仕方なくそれに従えば打たれるし。どうすんのコレって感じ」

「……ああ、ねえ」


 凄い人もいたもんだなあ、と寧ろ感嘆すら湧き上がる。

 狭い世界と思いきや、中々に世界は広いらしい。

 仮に私が翔葉にいたらどうしただろうか。考えるまでもない。大方噛みついているだろうな、と葉山に来てからのこれまでを思い出し、私は内心苦笑する。


「普通はあれだけ打たれたら修正するなり、攻め方変えると思うんだけどねえ」再び変わった明日香が溜め息混じりに言った。「あの人の中の何がそうさせるのかが解らないから、こっちとしてはどうにも出来ないのね」


 暫しの沈黙。

 明日香の溜め息が漏れた。


「……あの人さえ考えを改めてくれれば、優勝見えるのに」


 なんて事は無い、ただの事実だとばかりに、明日香はぽつりと言った。


「凄い自信な」仄かな呆れを混じらせ私は言う。

「まあ、客観的に見た結果だよ。一応、今年に入って負けたのはリーグでの三回だけだし。監督も近年稀に見る好チームとか言ってたし。それで慢心する人もいないから、信憑性もある」

「……ああ、そう」


 あらあ、聞かなきゃ良かった、とも思う。

 明日香の目で見てそう思うのなら、それは天才の目に適った結果。信憑性というのであればそれは確かで、故に事実として重くのし掛かる。

 とは言え、当たるとしても決勝。

 修正というのなら時間はまだあるし、何より、そこまで勝ち登らなければならない訳で、”捕ら狸”である事には変わりない。

 加えて、私の考える事でもないか、と半ばやけくそ気味の丸投げをする。


「もし当たったら、勝負出来るかもね」明日香が言った。

「ああ」閃き、頷いた。「確かに有り得るね、少し違う形だろうけど」

「え?」

「多分私は打席には立てないからさ、勝負というのなら一、二塁間で」

「ああ、そゆこと。直接じゃ無いのが少し惜しいなあって思うけど、まあ、負けないよ」


 雑音。


「アンち。私は出ないけど、決勝まで来いよ。で、明日香との一戦を私に提供してくれ」

「ヤだよ。なんでお前の為に行かにゃならんのよ」私は笑ってやる。「そもそも、私は控えの控えだよ。主導権なんてコレっぽちもねえってば」

「でも、夢を語るのは良い事じゃないか」

「まあ、それはそうだな。真夏には少し早いけど、夏は夏だし、今は夜だし」

「ほほう、アンちのクセに、洒落た事言うじゃねえか」


 そう言った環の笑いが遠ざかる。


「真夏の夜の夢を現実にしようね」


 天才が言うと、本当に現実になりそうだから困るなあ、と思う私だった。

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